異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
第一章 僕の生まれた運河
第四話 君を忘れない
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涼しくなってきた空気に、シエナは思わず身震いした。
小さな事件があったが、こののどかな町には何の変化も見られない。一段としんみりする心を抑えながら、思うが侭に町を歩き続けた。
無意識に方向を選んでいたが、皮肉にも昼間サラが辿っていった道のりを、逆方向から見事になぞっていた。
彼の陸でも生活は、彼女無しではありえなかったことを示している。
思い出に振り返れば、いつでもサラはシエナの側にいたのだ。
一巡りすると、意識的に避けてきた図書館が見えてきた。
シエナは立ち止まった。小さな町には勿体無いくらいの、立派な建物だと改めて気付く。白い大理石はいつも磨かれていて、サラの母親が毎日掃除しているのだろうと予想が付いた。
大きめの窓から覗く書庫は整頓されており、彼女の父親が本を大切にしていることがよく分かる。
色々と考えながら、ついには乾いた笑いが零れる。
「会えないとか何とか言ってるくせに、サラのことばかり思い出しているじゃないか」
シエナは微笑みながら図書館を見上げた。
陽光に照らされる建造物を、目を細めて眩しげに眺めた。
数十秒のことだったが、シエナはそれでもう満足していた。
いつまでも名残惜しんでいてはいけないと、自分自身の背中を押した。
図書館から去り、真っ直ぐ町の出入り口にあるアーチの前までやって来た。
そこでシエナは予期していなかった人に出会った。
アーチの支柱にもたれかかり、じっとシエナの方を見つめている少女――見紛うことなく彼女はサラだ。
驚きのあまりに、シエナは進んでいた足を止めてしまった。和やかに感じていた空気が、一変して緊張化した。
サラの顔には苦慮の跡がありありと残されていた。何を言われるのか、シエナは気が気ではない。
裏切り者とでも言うのか。化け物だと指差すのだろうか。母親に語られ続けた、人間の愚かなる一面を見るに耐えなかった。ましてや、大切な友人に。
沈黙から逃げるように、シエナは足を動かした。
「……シエナ」
消え入りそうな呼び掛けと共に、一冊の本が突き出された。
シエナは一瞬身を固くしたが、よくよく見てみればそこにあったのはふやけた装丁の辞典。昨日、最後に読んでいた例の本だ。濡れているのは、彼女が自分に手渡すために橋の方まで持って行ったことを証明している。
思いがけない行動に、シエナはただ呆気にとられていた。
改めて正面から少女の顔を覗き込む。
少し湿った髪からは住んでいた川の香りがする。体温を失い白くなった手は、本を握り締めたまま震えていた。だが、いつも明るく輝いている双眸だけは、真っ直ぐとシエナを見つめている。
「わたし、本当はね怖いの。初めて魔物に出会ったんだもの」
震える手から、想像は付いていた。しかし改めて言われてしまうと、一抹の虚しさが込み上げてきた。
サラは俯き、小休止してから再び面を上げた。
予想もしなかった微笑みで。
「でもね貴方が嫌いになったわけじゃない。きっと戸惑っているだけなの」
だから、とサラは本を押し出した。黙ってシエナはそれを受け取る。
彼女は小刻みに動く腕を後ろ手で押さえ、それでも笑い続けていた。この笑顔が、少年が一番好きだと知っているからだ。
「だから、だからね? 少し時間を頂戴。そうしたらまた笑いあって会えるでしょ」
不意にシエナは泣きたい衝動に駆られた。
サラは、今まで自分が見てきた“シエナ”を信じたいと言ったのだ。それはどんなに勇気のいることだっただろう。
もしかしたら騙されているのかもしれない。魔物だから人間が嫌いなのかもしれない。正体を知った者は喰われてしまうのかもしれない。
水泡のように浮かんでくる不安や疑念を払拭するまでに、どれほどの葛藤があったのだろう。
忌み嫌われることを怖がってばかりいたシエナにとって、サラの想いは最後の扉を開く鍵となった。
彼女の勇気に答えなければ、きっと一生後悔してしまうだろう。
本を握った拳に力が篭る。そうして、シエナもまた決意した。
「僕にも時間を頂戴。もっと色々なことを知りたいんだ」
滲んだ涙を擦り、シエナもサラに答える。しっかりとその胸に本を抱いた。
魔物が人を避けずにすむ方法や、人が魔物に抱く嫌悪感を取り除くためのこと。それらを一から探していきたい。
そうやってシエナは、少女に語って聞かせた。
次第にサラの表情も違和感がなくなり、普段と同じように柔らかな表情になった。本性を知っても、彼は彼のままだと分かったからだ。
「しばらくしたらまた帰ってくるよ。それでも、ずっと友達でいてくれるかい?」
おずおずと尋ねるシエナに苦笑して、サラは彼の手を強く握った。
彼女が約束するときの行為だ。少年もまた、それを握り返してやった。
野原の向こうに消えていった彼の背を見つめながら、サラはぼんやりと立っていた。
いつの間にか時は刻まれ、東側の空が暗くなり始めていた。
早足で駆けて行く雲を眺めながら、サラは思わず溜息を吐いた。
「友達、か」
そう言ったときのシエナの、気恥ずかしげな顔が思い出された。
「結局言いそびれちゃたな」
くすくす笑う彼女の頬に、透明な液体が流れ出していく。そこに苦痛の表情はなく、ただ満足そうな清々しい笑みが浮かんでいる。
サラが最後まで言えなかった言葉は、相手のいない天空に向かって小さく吐き出された。
「大好きよ、シエナ。でも、わたしの失恋は決定だね」
嬉しそうに少女は言った。
曇り空に風が吹き、夕焼けの色が鮮やかに映り出していた。
同じ風景をシエナは丘から見ていた。
鞄を提げている肩を撫で、逆の手で持つ書物をしっかりと握る。
何があろうとも、この景色を忘れることはないだろうとシエナは思った。
――永い時を過ごしていた川の中ではなく、あれほど憧れた大地の丘の上で。夕陽に染まっていく青い空の下で。自分が愛した生まれ故郷を見下ろしたことは、一生忘れることは。
「さよなら。僕の生まれた運河」
シエナは母の姿を見て、呟いた。下流へ続き、やがて海へと注ぐ穏やかなその流れは、まるで揺り篭のようだった。
世界を知りたがるシエナにとっては、それは少し狭すぎた。
少年は歩き出した。行く当ては何も無かったが、自分が信じた未来への希望を掲げて進み出した。
頃は晩春の季節。
小さな丘の上を、夕暮れの風が撫でていった。
第四話:君を忘れない…END
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