異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
第一章 僕の生まれた運河
第二話 荒れ狂う波間に見たものは
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次の日、シエナは図書館に来なかった。
司書である母や館長である父に聞いても、青髪の少年の痕跡を誰も知らない。
サラはずっと図書館で彼を待っていた。彼は確かに今日来ると言っていたのだ。昨日読みかけていた本をまた読むのだろうと思い、薄暗い奥の本棚に向かう。
埋没されたの書物の中に、一冊だけ埃をかぶっていないものがあった。サラは題名を確かめる間もなく、それを抜き出した。
しかし、それは昨日シエナが読んでいたものとは違った。
幼い頃から図書館を遊び場にしてきたサラも、あまり近づかなかった類の本だ。彩度を下げた色使いとおどろおどろしい装丁は、子供心に無意識に避けていたのだろう。
「異端審問の歴史……?」
ふと思い浮かべるのは、昨日のシエナの読書姿だった。
あの山積みにされた書物の中に、これはあっただろうか。
最近のシエナは、怪しげな本を奥から引っ張り出してきては熱心に読んでいた。昔は歴史や生活といった些細な物ばかりを読んでいたはずだ。それなのに近頃の系統は、魔物関連に集約されている。
急激に不安が押し寄せて、サラは本を押し戻した。
隣の段にあった昨日の世界魔物大辞典を取り出すと、そのまま図書館を足早に出て行った。
町中の鐘が、正午を告げている。午前中は道を行き交っていた人々も、昼食時となり疎らになっていた。
石畳を鳴らしながらサラは走る。
晩春の生温い風を頬に受け、シエナが普段ふらりと現れる場所を、一つ一つ回っていった。
噴水のある広場や、公園の並木道。長い煉瓦の階段に、町が一望できる屋根の上――。
「また明日って、言ったじゃない!」
焦る吐息の中でサラは叫ぶ。
いつものように町角からひょっこり出てくることを願いながら、シエナの名を何度も呼んだ。
けれども、どこにも青い少年の姿はなかった。
乱れきった呼吸を整えるため、サラはベンチに座り込んだ。抱きかかえていた本を握り直し、俯いた。
「ねぇ、出てきてよ」
ぼんやりとサラは呟いた。体中を駆け巡る熱に、思考も鈍くなってくる。眩しい真昼の光から逃げるように瞳を閉ざせば、今までの思い出が蘇った。
「当たり前のように、貴方はすぐ傍にいてくれたのに」
毎日のように会っていたシエナ。彼の笑顔や楽しかった時間が、無声映画の一幕のように感じられる。
「わたし、知っているつもりだった。でも……シエナのこと、本当は何も知らないのね」
胸が苦しくなり、サラはさらに目元に力を入れた。それでも、滲み出てくる熱い奔流は塞き止めきれるものではなかった。
零れ出す雫が重力に引かれ、表紙の上で跳ねた。それは装丁に黒く染みを作った。徐々に数は増えていき、サラはとうとう嗚咽を漏らした。
+ + + + +
シエナは人目に付かない林の側まで泳いできていた。
木陰は少し肌寒いがうまい具合に岩場があり、町を一望するには絶好の場所だ。
陸に上がる以前から、シエナはここから対岸側の町を見ていた。人間達の姿を思い描きながら、地上の生き物に憧れ続けていた。
岩場の隙間には、シエナが内緒で拾ってきた生活用品が隠されている。人間に憧れて昔はそれを眺めるだけだったが、サラに出会い本を読むようになってからは使い方も分かってきた。
いつかこれらを持って生活してみたいと、本気でシエナは思い始めていた。
不意に、サラのことを思い出した。
曇っているせいか、町の景色はどこかぼんやりとしている。今までは何も感じていなかったはずのシエナの心に、不鮮明な痛みが滲んでいった。
「もう会えないのかな」
本を抱えて笑う、薄い桃色の髪の少女が脳裏に描かれた。
きちんと別れを告げたわけでもないのに、急に姿を消してしまった。
明るくて元気だけれど繊細な彼女のことだ。泣いてしまっているかもしれないと、シエナは後悔の念を覚えた。
徐々に落ち込む気分を紛らわせるため、大きく息を吸った。午後の空気が胸いっぱいに入ってくる感覚。
周りに誰もいないことを確認すると、彼はひっそりと歌い出した。
気分転換するときは歌うことに限る。
小さな独唱が終わると、シエナは大きな溜息を吐き出した。
滅入った気持ちは、なかなか浮上してくれない。寧ろ、深みにはまっていきそうだった。
「もっと思い切り歌いたいな。サラにも、一度でいいから聞かせたかった」
ぽつりと漏らした言葉に、川が小さなさざ波をたてた。
「母さん?」
呼びかけてみるが、普段と変わりなく返事は無い。川の流れは、一見して不審な点はなかった。
気のせいかと、再び町の方に向く。
そこでシエナの顔色は変化した。慌てて水中に潜り、全速力で泳ぎ出した。
岩場から直線状に見える橋に、先程思い出していた少女の姿を見出したのだ。その足元でうねり出す母の激流と共に。
泣き出しそうだった天気が、とうとう崩れてきた。最初は小粒だった雨も、サラが橋の中腹に差し掛かった時には強いものとなっていた。
川の側に来た途端、変わってしまった天気に不気味さを感じる。
しかし、シエナを探す場所はもうここしか残っていなかった。彼は、いつもこの方向へ帰る。運河を渡れば、手掛かりが得られるかもしれないと思ったのだ。
「シーエナー!」
辺りが暗くなってきた。
心細くなったサラは、思いの丈をぶつけるように少年の名を叫んだ。何度も何度も呼んだ。シエナの姿を見逃さまいと、赤く腫れた瞼は大きく開いていた。
その様子を、川はじっと睨みつけていた。
呪うような呻き声を上げながら、水中で加速させていた激流をさらに強めていく。
(坊やを連れていてしまうのはお前か!)
サラには決して聞こえないはずの声だが、彼女は妙な気配に気付いていた。恐る恐る眼下の運河を覗いて見れば、淀んだ濁流が橋の下で渦巻いている。
少女の健康的な肌に青みが走った。急いで橋を渡りきろうと、自然に駆け足となる。
その直後、サラはありえないはずの現象を見た。
加速した川が大きな波を起こし、自分目掛けて流れてきたのだ。
悲鳴を上げる間もなく、濁流はサラを飲み込んでいった。凄まじい水圧が体中にかかる。
もがき苦しむ彼女を嘲笑うかのように、波は暗い川底へと引き摺り込んだ。
水の勢いは想像を絶するものだった。必死に耐えていたサラだが、呼吸困難となりだんだんと気が遠のいていく。
薄れていく意識の中で、彼女が最後に見たものは。
青い、人影だった。
第二話:荒れ狂う波間に見たものは…END
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