異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
 第一章 僕の生まれた運河

第一話 少年と少女
++++++目次++第二話→


 オレンジ色の光が、大きな窓から満遍なく降り注いでいた。均一に並んだ漆塗りの机は、光を受けて美しいマホガニーに姿を変える。
 人影の絶えた図書館。その静寂の中で、紙を捲る乾いた音だけが聞こえていた。
 一番奥の机には、本の山ができていた。傍には一人の少年が座っている。彼は一冊一冊、とても熱心に丁寧に隅から隅まで読み耽っていた。
 傾いた日差しに青い髪が水のように透き通る。同じ色を持った瞳は文章をひたすら追いかけ続けていた。
「……シエナ?」
 司書室から軽やかな声が上がり、一人の少女が少年の所までやって来た。名を呼ばれた少年は、身動きせずにひたすら読書に励んでいる。
 シエナは一年ほど前に、この町に現れた。
 図書館の館長の娘であるサラとは歳が近いため、すぐに仲良くなった。ずいぶん世間知らずなシエナに、本を教えたのもサラだった。
 彼は時々このように、何処からともなく突然やって来る。その都度に――ある程度は慣れたが――サラは驚いていた。

「シエナってば! いつから来てたのよ」
「ああ、ごめんサラ。声かけるのを忘れていたよ」
 慌てて少年は顔を上げた。悪びれた様子もなく、軽やかな笑みを浮かべている。
 サラは溜息をそっと吐いた。
 彼女は抱えていた紙の束を机の上に乗せると、少年が熱中していた書物の題を盗み見た。
 見慣れないタイトルに、ぎょっとする。
「世界魔物大辞典? なんかすごいオカルトっぽい題名……」
 今度は開いているページを見やる。シエナは得意そうに本を開き、サラに向けた。
 その魔物の項には、著者が描いた想像図と、注釈と説明が丁寧に描かれていた。
 揺れる波間に、泳ぐ人の姿。下半身はびっしりと鱗に覆われた魚。
「人魚?」
 眉を顰め、サラが尋ねた。
 満足そうにシエナが頷く。
 恐ろしくも美しい、川に棲む人魚。この魔物をローレライと呼んだ。
 とても端正な容姿をしているが、それは人々を誘惑するため。催眠効果のある歌で誘い、水中へと引きずり込まれてしまうという。
「ローレライ……綺麗だっていうけれど、本当にいたら怖いわね」
 あどけなく少女は微笑んだ。つられてシエナも、口元で小さく笑った。
 ほんの、少しだけ。
「そろそろ僕は帰らないと。また明日、サラ」


 すっかり日落ちした町並みの中、ゆっくりと少年は歩を進めた。
 古風な石畳が続く、昔ながらの穏やかな町。温かい家庭の光が、様々な家の窓から零れている。夕食の良い匂い。子供たちの嬉しそうな声。
 それらを身体で感じながら、シエナは黙って歩き続けていた。
 家路に着く親子とすれ違えば、振り返り、じっとその様子を眺める。親子の姿が街角に消えてしまうと、再び彼は足を進ませた。

 俯いた視線の先には、町中を流れる運河があった。川は、昨日の雨によって泥を含み、轟々とうねっている。
 闇はすっかり辺りを包んでいた。月は雲に隠れ、やけに暗い。
 思い耽っていたシエナは、ずいぶん町外れまで来ていたことに気付いた。
 やがて彼の足は完全に止まった。運河沿いに歩いてきたので、やはり目の前にはあの川があった。
 月明かりさえない夜の川。
 暗く全てを飲み込みそうな、黒い川。
 睨みつけていたシエナの耳に、到底人間には聞こえない言葉が届いた。今の彼にとっては、聞きたくなかった声だった。
(坊や、お帰り。バンシーの泣き叫ぶ時間になる前に、早く……)
 静かな夜の空気を、川の怒涛は無遠慮に震わせていく。
 シエナが黙って、母親の言葉を受け止めていた。
 バンシーの泣く時間――真夜中は刻々と近づいている。
「今行くさ、母さん。僕は逃げたりなんかしない」
 勢い良く、運河へ飛び込んだ。水に触れたシエナの足には、みるみる鱗が現れ、尾へと変化した。短かった髪も伸び、いつの間にか腰に届くほどとなった。
 彼の耳は魚の胸鰭のようになり、指の間には水掻きが発達した。
 その姿は、先程の本に描かれていた魔物そのものだった。

 川底へと潜ったシエナは、途中で美しい女性に会った。今のシエナと同じような外見をしている。
「人間の所にまた行っていたのね?」
「大姉さん」
 一番上の姉は困った顔をして、弟の様子を窺う。
 シエナは弱々しい笑みを浮かべた。姉にはいつも心配をかけている。自分が掟を何度も破り、外界へ出ていることを寛容してくれているのは、今のところ彼女だけだった。
 だからこそ、迷惑をかけていることに心が痛んだ。

「私が許しても、お母様は許さないでしょうね。早くお行き」
 シエナの姉は、さらに深くへと泳いでいった弟の背を見守っていた。

 水温が冷たくなり、それとは違う冷たさが身を刺す。
 目を瞑りたくなる衝動に駆られ、シエナはどうしようもなくなる。曇天のように広がる水流を見上げながら、思いの丈を声に乗せた。
「母さん、人間にもいい人はいるんだよ?」
(でも坊や、人間にも悪い人はいるんだ)
 母の声が山彦のように返ってくる。唇を噛み締め、シエナは負けじと言い聞かせようとした。
「でも、サラはいい子だよ? 優しい子だよ?」
(貴方がローレライだとわかったら、顔を背けるのよ)
 脳天に響く。心臓を抉られたような痛みが、胸を刺す。
 川の流れが、母の心中を表す。轟く激流にシエナの身が引き裂かれそうになる。これ以上荒れてはいけないと思い、シエナは諦めたように呟いた。
「母さん静まって。人間の所には……行かないようにするから」
 運河は見る間に穏やかな流れに変わっていく。
 シエナは、ぽつんと水の中で漂っていた。長くなった髪を流れに遊ばせて、じっと水面の辺りを見ていた。
 地上に、憧憬しながら。



第一話:少年と少女…END
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