異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
 第一章 僕の生まれた運河

第三話 真実
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 心地良い少年の声がした。呼ばれたサラは、奇妙な浮遊感を感じながら視界を開いた。
 灰色の雲の下で、綺麗な青い眼が自分を見下ろしている。
 求めてやまなかった相手を見つけ、双方はかける言葉を探していた。
「……シエナ?」
 サラはとりあえず彼の名を呼んだ。
びしょ濡れになり、シエナに抱きかかえられている状況は気恥ずかしいものだったが、彼は沈んだ表情をしていて曖昧に微笑んでいる。
 それが何か不自然に感じて、サラは視線を巡らせた。
「わたし、助けてもらったの?」
 問いかけてもシエナは黙ったままで、首を軽く縦に振った。川辺に向かって歩き続けている。
 何故自分が高波に襲われたのか。サラには見当も付かなかったが、探し続けていた彼にやっと会うことができて歓喜の思いが湧いてきた。
 ところがサラは一瞬で言葉を失った。
 シエナの髪が、腰に届きそうなくらい長くなっていた。
 抱える腕には、青緑に光る鱗が見える。水面から現れた伸びやかな足は、海獣のような尾となり鱗が肌を覆っていた。
 視線を下ろしていくほどに、驚愕を色濃くしていくサラ。
 予想通りの反応に、少年は苦笑を浮かべる。少しだけ伏せた瞼が、彼の切ない心情を露わにしていた。
 震えるサラの体を岸に横たえ、シエナは触れていた手を外した。
「気持ち悪いでしょう?」
 自らを罵るように、シエナは自分の醜い身体を抱き締めた。
 驚きのあまり何も言えないサラは、呆然と彼の姿を見ていることしかできない。
「僕が辞典に載っていた、川の魔物ローレライだよ」
 反応を示さない少女。対するシエナは泣き出しそうだった。
 まるでこの世が終わるような酷い顔だと、彼自身も思っていた。
 はっきりと言い切ると、サラの表情に嫌悪や恐怖といった負の感情が映り出した。
 シエナはそれを直視するのが怖く、強張る体を無理やり奮い立たせて何も言わずに川へ飛び込んだ。
 彼女が自分に向かって吐き出すであろう罵りの言葉を、わざわざ聞きたくはなかった。

 しばらくサラは仰向けに倒れたまま、ゆっくりと動いていく雲を眺めていた。
 雨はすぐに止んだらしい。独特の雨上がりの臭いを感じながら、混在する思考をどうにか整理しようとする。
「……本は?」
 いつの間にか手元から消えてしまった書物のことを思い出し、サラは上半身を起こした。
 あれほどの波だったのだ。川底に落ちたか、下流に流されてしまったことだろう。
 サラは先程の人魚の姿を思い出し、それから求めていた少年の控えめな笑顔を重ねてみた。笑顔はすぐにくしゃりと歪んだ顔に変わり、そして消えた。
「何で、何でなのシエナ」
 ぼんやりとした思考のまま、彼女は立ち上がった。
 読んだこともないあの辞典を抱えていないだけで心が軋む。優しい思い出の中のシエナとの、唯一の繋がりすら絶たれたような気がしていた。
 誰もいない川沿いの道を歩き、少女は町の方へと戻っていった。
 橋の側まで来るのに、やけに時間がかかった。
「サラ!」
 呼びかけられて顔を上げた。
 視線の先にシエナがいてくれたらと願うが、叶わなかった。
 先程の波の音のせいか、橋の上には町人が数十人集まってきていた。騒ぎを聞きつけたサラの両親もそこにいた。
「凄い音を聞いて橋に来たら、この本が落ちていてね。図書館のお嬢さんだと思ったんだよ」
 最初の発見者が、ふやけた辞典をサラに見せた。
 見間違うことなく、それはシエナのために持ってきていた世界魔物大辞典だった。
 受け取るや否や、サラの瞳に涙が滲む。
 シエナとの繋がりが残されていることに、不思議な衝動が全身を駆け抜けていく。
 心配そうに駆け寄る両親は、優しくサラを抱き締めた。その腕の温かさは、シエナの腕と同じだった。
 本を抱き締めながら、母の胸に抱かれながら、サラは声を押し殺して泣いていた。


 川へと戻ったシエナは、母や姉たちから叱咤された。
 サラを助けたのは反射的な行動だった。体が先に動くのだからしょうがないとシエナは開き直っていた。全て覚悟の上だった。
 過去、氾濫した川で命を落とした者は数知れない。
 母は気まぐれに、または明確な理由がありそういった所作をする。
 堪らずシエナは何度も母に講義したが、決まって彼女は黙り込んだ。自然の摂理だと分かっていても、今回のように私情を挟む彼女のやり方は限界だった。
 自分のせいでサラを危険に晒してしまったため、その気持ちがさらに拍車を掛けていた。
(坊や、坊や、何故あんなことを)
 激流をうねらせる母に向かって、シエナは怒りの形相を見せる。いまだかつてないほどの、怒気が彼から立ち上っていた。
 シエナの思いの丈は、ついに爆発された。
「もう限界だ! ここで自分を押し殺し続けることはできない!」
 おとなしいと思っていた弟の激昂を初めて目の当たりし、姉たちは静まり返った。
 シエナは大きく腕を広げて、訴えかけるように彼女たちに言い放った。
「僕は人に嫌われようとも、人間達との中で生きてみたい。世界を知りたいんだ」
 陸に上がる前から、空虚に浮かんでいた一つの幻想。それは、サラと出会い、町で生活するうちに明確に見えてきていた。
 相容れぬ種族と共に暮らしていける。シエナの持つ、そんな未来の希望が。
 シエナは軽い別れの挨拶を残して、水面へ泳ぎ出した。
 泳ぎながら振り向けば、一番上の姉だけが小さく手を振ってくれていた。彼女は優しく見守るような笑顔を浮かべ、シエナはいつまでも見送っていた。

 水から身を上げたシエナは、町へ行くときと同じように身支度を整えた。岩場に隠してあった品を次々に引っ張り出し、ベージュの鞄に詰め込んでいく。
 荷物を詰め終わると、世話になった少女の面影が蘇る。
 驚愕した表情。震える細い身体。
 彼女は自分に、一体どんな言葉を投げかけるつもりだったのか今では想像できなかった。
「……今更、会ってもしょうがないじゃないか」
 口では言えたが、それでもシエナは彼女の全てが名残惜しく感じていた。
 初めて出来た友達で、初めて知った人間の女の子。交わした握手の体温は、永遠に記憶の中に留まるだろう。
 せめて思い出に耽るくらい許されたい。
 そう考えて、シエナは町へ駆け出した。



第三話:真実…END
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