04 さよならはいえなくて


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 幸村が旅立つ朝はとても肌寒かった。
 上掛けを纏った元就は幸村の枕元に座り、閉め切った障子の向こう側に降り続けている雪の気配をじっと感じていた。天候が変わったせいなのか、昨日の朝よりもぐっと冷え込んだように思える。
 突き刺すような空気によって睡眠を妨げられたのか、幸村は布団の中でうっすら瞼を開いた。
 彼は不思議そうに天井を見つめていた。昨夜は寝所に入った覚えがなかったのだろう。自分が今いる場所が何処なのか把握しかねているようだったが、次の瞬間には大きな瞳が見開かれる。
 一気に記憶を蘇ったらしい幸村は、顔を真っ赤にして勢いよく上体を起こした。

「あ、あの、元就殿……じゃなくて毛利殿っ!」

 既に身支度を終えて座っていた元就を視界に入れた幸村は、恥ずかしさからか何度も吃る。
 余りにもいつもどおりの姿に、昨日の出来事が夢だったのではないかと狼狽しているのだろう。思わず情事の最中で呼んだ名を、素面のままで口にしてしまい慌てて訂正した。
 情事の際に散々呼ばれたため、今更言い直されてどうしろというのだろう。
 元就は呆れ混じりの溜息を吐き出しながら、名前呼びで構わないと一言添える。幸村と同様に昨夜の出来事を思い出したため、声が微かに上擦った。
 それを聞いた幸村は、夢ではなかったのだと嬉しさを抑えきれない様子で口の端を弛ませていた。
 彼は幸せそうに笑っている。本当に今が幸福であるのだと、笑ってくれている。
 ――それだけで自分も、幸せだった。

「お身体の方は平気でしょうか。夢中だったもので、そのっ」
「大事無い。それよりも早く着替えよ。鎧を纏う暇がなくなる」

 幸村の言葉はどきりと胸を刺した。それが受け身であった自分への気遣いだと分かっているが、彼の口から身体の異常は無いかと聞かれるたびに図星を指された気分になる。これは罪悪感からなのだろうか。
 少しばかり顔を強張らせた元就に気付かず、幸村は恥ずかしげに部屋の隅で着替え始めていた。
 普段であればくたびれた袈裟姿となるのだが、今日から幸村は俗世に戻り再び武士の喧騒の渦中へと飛び込まなくてはならない。元就が眺めている彼の背中は見慣れた僧服ではなく、具足と共に送られてきた小袖に包まれていく。
 一抹の物悲しさを感じながら、元就は懐の物をそっと抱き締めた。

 直垂を履き終わったのを見届け、元就は幸村を呼び寄せた。
 乱れたままの髪を櫛で丁寧に梳いていき、項の辺りを紐で括っていく。昨日の情事の際に自分の素肌を擽った彼の髪を触っていると、妙に落ち着いた気分になった。
 夏の間に一度切ったはずの幸村の後ろ髪は、いつの間にか出会う以前よりも長くなっていた。偶然の出会いから刻まれていった時の流れがそこに垣間見える。
 何度も切ったはずの伸びた己の前髪を視界の端に捉え、元就は目を伏せた。

「……渡したい物がある」

 幸村の髪を結い終えた元就は、幸村の正面に座って懐から取り出した風呂敷包みを床に置いた。先に起床した際、自室へ戻って持ってきた物だ。
 素直に相槌を返しながらも訝しみながら床に視線を下ろした幸村は、開かれた包みの中身を知って肩を一瞬強張らせる。その反応を予想していた元就は僅かに奥歯を噛み締めるが、話を進めことだけに徹した。

「そなたの守り刀と六文銭だ」

 幸村の拳が彼の膝の上でぐっと縮こまったのが見えた。どうして今頃になって、とでも思われているのだろうか。
 首に掛けていた六文銭も、兄と取り替えることができずにいた短刀も、肌身離さず持っていた物が無くなっていた事に幸村は気付いていたはずだ。けれど彼は一度も所在を尋ねなかった。単純に捨てられたと思っていたのかもしれない。
 最初に着替えさせた際に外してから、元就はそれらをずっと預かっていた。
 後で返そうかと考えていたが、情緒不安定で時折錯乱しかけていた盲目の幸村に渡すことは憚られ――自分自身を何よりも嫌っていた彼が、自傷しかねないと思えたから――隠すように棚の奥底に置き、以来そのままとなっていたのだ。

「焔を纏う虎和子“真田幸村”には必要であろう?」

 過去の暗い記憶に引き摺られかけているだろう幸村を安心させようと笑ってみせたが、どうにも引き攣ってしまった。
 ――守り刀を持たされていた理由は分かっている。六文銭の印の意味だって知っている。
 本当は昨日まで返そうか躊躇っていた。渡してしまうことで恐れていた事態が起こってしまったらと考えるたびに、指先が震えていた。
 幸村を構築する全てから断じて切り離せはしない死という観念は、こんなにまで簡単に元就を臆病にさせる。自らに巣食う存在を知ってしまったからこそ、余計にその圧力は重くなるばかりだ。
 けれど、表の世界へ戻る彼には不可欠だろう。武田の意志を受け継ぐ者、真田の血脈を滾らせる者として幸村は天下を制するための戦場に立つ。家紋たる六文を身に付け、武士としての高潔な魂の象徴である刃を持つことは当然のはずだ。

「元就殿」

 長い逡巡の後で顔を上げた幸村に、元就は鬱々とした迷いから覚めさせられた気がした。
 それは、あまりにも真っ直ぐとした瞳。
 真剣な眼差しは鋭さよりも澄んだ色を灯す。激しくはなく寧ろ淡々とした雰囲気が漂うというのに、彼の持つ灯火の温かさが迫ってくるような心地にさせられる不可思議な気分になる。幸村がこんな目をするのは、決まって元就へ自分の気持ちを告げる時だ。

「それはもう必要ありませぬ」

 穏やかな声が紡いだ言葉に驚き、元就は相手を凝視した。
 目元を和らげ大人びた表情を浮かばせた幸村には、もう暗い影は見えない。そこには夕焼けの空に良く似た力強い眩しさがあるだけだ。元就が一人きりで佇んでいた奈落の底を仄かに灯してくれた光と同じ、潔い美しさが。

「昔の某であれば恐れなど感じなかったかもしれませぬ。けれど今は、死がどうしようもなく怖い」

 だから、と幸村は言葉を重ねた。

「追い腹を切るための刀も、三途を渡るための六文も持ちません。たとえ醜くとも俺は生きたい。生きて、貴方の元へ必ずお戻り致します」

 互いの存在に巡り会い臆病となってしまったのは元就だけではない。
 幸村も常に怯えながら、それでも小さな幸福を守りたい一心で戦地へ赴くのだ。元就のためだけではなく、自分の決意の戦いをするために。
 同じ場所に堕ちてきたはずの幸村の強さに、元就に焦げ付くような想いが込み上げる。
 生きたいと語る目の前の男に縋り付きたい気持ちを抑え付けながら、強張る指先をそっと短刀の上に乗せた。

「ならば我が預かろう」
「そんな、縁起が悪いでござる。捨ててしまって構わぬのですよ?」

 慌てたように瞬いた幸村に笑いかけ、六文銭を繋いだ紐が絡み付く守り刀を両手でそっと握り締める。ひんやりとした白木の鞘の感触が掌から伝わった。
 慈しむように胸元に抱けば、幸村は困惑しながら口を噤む。
 理由を飲み込めていない様子である彼に、元就は少しだけ笑った。

「言ったろう。お前を片時も忘れたくないと」
「も、元就殿っ!?」

 照れもせずに言い放たれた台詞に、幸村は奇妙な声を上げた。
 口を大きく開いては閉ざしを繰り返し、昨夜の睦言を思い返しているのか湯気が噴き出しそうなほど肌を上気させている。
 それを見て小さく笑い声を上げた元就は、話を切り上げて幸村に具足を着るよう促した。
 年上の自分よりも世界を悟ったような表情をするくせに、こうして初心な少年の顔を覗かせる幸村が愛しいと、今なら素直に想える。
 着替えを手伝い終えた元就は、その感情に従い幸村の背中に抱き付いてみた。視界の端に映った相手の耳が真っ赤に染まり上がり、忍び笑いが思わず漏れた。


 早朝のやり取りから半刻ほど後、開け放した本堂で迎えを待っていた二人は馬の嘶きに気付き無言で立ち上がった。
 屋根と柱だけが残されているくたびれた門から下を覗けば、長々と蛇行する階段の先に馬上の人が従者を連れて静かに寺を見上げている。雪に紛れてしまうかのように真っ白なその姿は、竹中半兵衛に相違ない。
 幸村を乗せるだろう馬を引き連れてきた従者は、武具を届けてきた男だ。彼は普段この寺に物資を届ける任に付いているのだから、半兵衛は一人で迎えに来たということになるだろう。
 逃がさない自信があるのか、逃げない確証があるのか。ともかく余裕を持った冷たい笑顔が自分を嘲笑っているのだと、それだけは遠目から見ても分かった。
 元就の視線の先に誰がいるのか気付いた幸村は、半兵衛の視界から隠すように門の手前へと元就を引き込んだ。

「竹中殿がどう出てくるかは分かりませぬ。しかし天下をほぼ掌握している織田が相手。豊臣もこちらにかまけてくる暇は無いはずです。ですから、どうか無理はしないで下され」
「分かっておる。そなたの方こそ、奴の動向には重々目を光らせておくがよい」

 元就は伸び上がるようにして幸村の頭に腕を回し、手に持っていた白い鉢巻を巻いてやる。
 先程の守り刀と六文銭と引き換えに作ってくれと急にせがまれたため、時間が足りず幸村の使っていた着物の端を裂いて簡素に縫っただけのみすぼらしい物である。けれど巻いて貰った幸村がとても嬉しそうに礼を言うものだから、元就も仕方ないと笑ってしまう。
 元就が幸村を覚えていたいように、幸村とて元就を側で感じていたいと昨日の交わりの最中に十分知る事ができた。だから幸村が今どんな気分なのか、痛いほどよく分かっているため文句は浮かばない。
 細雪が細かく降り注ぐ中、防具を纏っていた幸村はまだ単に羽織を着ただけの元就の身体に負担が掛からぬよう優しく腕を回す。周りを埋め尽くす白い景色の中で感じられる互いの体温に、切なさが込み上げた。
 柔らかな抱擁を終えて、名残惜しげに離れようとした元就の手を幸村が掴んだ。
 唐突な行為に驚く元就を尻目に、幸村は握り締めた相手の両手へと祈るような口付けを落とす。そして照れ笑いを浮かべながら、顔を上げた。

「某は必ず帰ってきます。そうして、この国に泰平が訪れたら――」

 目を瞠った元就の額に幸村は自分の額をこつりと触れさせた。
 至近距離で囁かれる言葉は、きっと互いにしか聞こえないだろう。幸村はそうして一つの願いを口ずさむ。

「何処か遠い誰も知らない場所で、貴方と一緒に暮らしたい」

 それはきっと夢物語。御伽噺の断片かもしれない。
 けれど幸村は、穏やかに微笑みながら歌うように紡いでいく。
 自分達を知らない土地で、争いも無く孤独に打ち震えることもなく、ただ静かに互いの存在があって。肩書きも名誉も使命も全て清算して、互いが知っている罪を抱えながらも毎日を生きていく。
 ただの幸村と元就で過ごせる日々を今度こそ送っていきたいのだと、澄んだ双眸が雄弁に語る。
 どう答えて良いのか元就には分からなかった。
 言葉に詰まった自分を見て、幸村は切なげに微笑んだ。彼とてそれが本当に出来るのかは自信が無いのだろう。幸村にも、勿論自分にも、様々なしがらみが纏わり付いている。
 何より元就は残されている時間の儚さを知っている。恐らく訪れるだろう事態も予測していた。
 それでも、彼の言葉を叶わぬ願いだと一蹴できなかった。
 身体の奥底がざわめいた感覚は、幸村の前で泣いた時と同じものだった。
 彼の言葉はいつだって自分を震わせる。
 決して裏切ってはくれない幸村の存在に、いつから救われていたのだろう。当たり前だと信じていた他人との境界線が交じり合い、幸村と同じ時間を過ごすことこそが生きる意義となってしまったのはいつからだったか。
 歪んだ世界で培われた過ちの感情なのかもしれないと、お互いが十分理解していた。けれど、その手を放せなかった。隣にいたいと、らしくもなく縋る想いを抱いてしまった。
 寂しさも喜びも頼りない温もりも、幸村と一緒に見つけられたから。
 綺麗な涙がこの世にあると知り、それよりも彼の笑顔が好きだと自覚して。自分の笑顔が好きだと言って、もっと優しく笑ってくれた幸村を知ってしまって。泣いて笑って、擦れ違って。本心をぶつけ合って、仲直りして。
 一人と二人の違いを知った。自分が元就で、彼が幸村だと言うことをようやく自身でも認めることができた。
 片寄った狭い箱庭での依存だと、世間は罵るだろう。
 元就は胸元をそっと掴んだ。棘が刺さったように微かに痛んだが、ここにあるのは自分だけの真実。
 誰でもない二人だけの真実が、息づいている。
 傍にいたいと願った時も。縛られることを疎んだ時も。傷付けたくなくて触れることを恐れた時だって、お互いがお互いを想うあまりの馬鹿馬鹿しい譲歩に過ぎなかった。
 自分が幸村よりも素直じゃないと知っている。
 けれど言わなければ伝わらないことも、知っている。
 ならば今、自分が言うべきは交わされようとしている仮定の約束を望むか、否か。
 ――万が一、その夢想が可能なら。
 幸村と共に歩む未来が望めるというのならば、答えは一つ。

「……楽しみにしているぞ」
「はい、元就殿!」

 手を振って遠ざかっていく逞しくなった背を、元就は微笑みながら見送り続けた。幸村が時折振り返って名残惜しげにしているから、何も心配はないのだと教えるように振舞う。
 別離を子供のように寂しがる幸村が、せめて旅立つ朝くらいは前を向いて歩いて行って欲しかった。
 彼が赴くのは戦場。しかも天下分け目に程近い、この国の行く末を決めるだろう重要な戦だ。後ろ向きな思考のままでは――考えたくもないが――命を脅かすような隙を生むことになる。

「死ぬ事だけは絶対に許さぬからな、幸村」

 まだ声が届いていたのだろう。零した独り言を耳聡く拾い上げたらしい幸村が、もう一度だけ振り返った。
 清廉とした迷いなき双眸が、元就を真っ直ぐと射抜く。

「絶対に、絶対にお迎えに上がりますから!!」

 降りかけた階段の下から幸村が、少しだけ泣きそうな声を大きく張り上げた。声量に驚いた元就を気にも留めずに、幸村は繰り返す。必ずここに戻ってくると。

 ――嗚呼、待っている。
 舞い上がる冷たい風に目を細め、元就は無言の返事を返した。

 二人の会話を不気味なほど静かに聞いていた半兵衛は、幸村を従者の引いてきた馬に乗せると森の中へ消えて行く。幸村はもう一度古寺を見上げ、迷いを断つかのように手綱を引いて勢いよく駆け出した。残された従者も里へと戻るためか、雪の中へと去って行った。



 元就の周りには人の気配がなくなった。
 それでも暫くの間、元就はその場で佇んで山を降っているだろう幸村を見送り続ける。
 辺りはどんどん白くなっていった。粉雪が風に運ばれ、元就の肌を無遠慮に冷やしていく。
 体力が完全に戻っていない身体をこれ以上冷やせば、風邪をひいてしまうかもしれない。幸村を心配させるようなことはなるべく控えなければと、ようやく元就は踵を返して母屋へ戻ろうとした。
 だが二歩三歩と白くなった庭を歩き始めた途端、彼は喉元へと上がってくる何かの気配で身体を折った。

(まずいな。やはり昨夜は、無理をしたか)

 ふっと浮かび上がった言葉にまだ余裕がある自分がいることを知り、元就は嘲りたくなった。
 幸村と交わる前は、あれほど焦ってばかりいたというのに。
 この身体が隅々まで彼の気配を覚えたことで、喉元へと這い上がってくる悪魔の足音を冷静に受け止めることができる。

「っ……げほ、げほっ……!」

 熱い塊が込み上げ、耐え切れずに吐き出す。気管が焼け付くような感覚はそれでもなお治まらず、元就は止まらない咳を鎮めようと身体を支えていた手で地面の雪を掻き毟った。悲鳴を上げる身体を戦慄かせながらもどうにか耐えようと、指先が土に汚れようが気にも留めず強く爪を立てる。
 幸村がいなくなってしまった喪失感からか。それとも隠さなくともよいという安堵感からか。
 ずっと悲鳴を上げていた身体はとうとう耐え切れずに、元就へと警告を突き付けてきたのだ。
 自嘲的に笑った元就は荒れる呼吸を無理やり整え、再び歩き出す。
 後に残ったのは、白くなっていく景色の中で鮮やかに浮かび上がる真っ赤な血溜まり。命の斜陽を刻むように、染め抜かれた紅の染み。
 やがてはそれも、積もっていく雪に掻き消されて見えなくなった。



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(2008/05/21)



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