05 錆びた歯車が動く時


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 彼がいなくなって何日が経っただろうか。
 がらんとした元の生活に放り出されて初めての夜を越えて、それから七日経ち、半月経ち、元就は日を数えることをようやく放棄した。
 以前は数えても虚しさが募るだけで馬鹿馬鹿しくなって止めたのだが、今は数えること事態意味の無い行為なのだと気付いたからだ。
 日数など関係無い。
 幸村は必ず帰ってくると約束した。偽らないという言葉通りに、隠しておけば良い事さえも有りの侭に元就へと話してくれた。それに対して痛みと罪悪感が幾度となく過ぎったが、消え入りそうであれども自分には勿体無い位の温かな輝きを幸村は捧げてくれたから――。

 手首に巻かれた冷たい感触へと視線を下ろすと、幸村が帰るという証のように六文銭が揺れている。
 死を恐れぬといえば美徳のように聞こえるが、逆を言えばいつ死んでも可笑しくはないという背水を己に強いている鎖だ。
 これを手放すと決めた時、幸村は何を思っていたのだろうか。
 彼を長い間縛り付けていた真田の印。それを身に付けぬということは、あれだけ“真田幸村”に拘っていた彼にとって元就が思う以上に辛辣な決断であっただろうことは考えずとも分かる。

 幸村は本気なのだ。
 手放す機会さえも自ら払い除けて、元就を想うことは自分の我儘だからと言い切って笑ってみせた。
 身体を繋ぎたいと望む眼を見ないふりなど出来なかったのは、己もまた身勝手な想いを振り切れなかったからに過ぎない。
 忘れられたくないと思った。こちらから先に伸ばした手を、今度は向こうから放されることが怖くて堪らなかった。
 残り少ない時の中、誰にも心委ねることなど無いと信じていたのに。

「幸村」

 一層凍えてきた山の中、一人で呟く彼の名前。
 隣にあの柔らかな炎がなくとも、そうやって吐息を丁寧に吐き出すだけで自らの内側で彼から貰った残り火が穏やかに温めてくれる。
 遠くのまるで違う世界にいるであろう幸村が、自由に歩いて行って欲しいと願う心はまだ残っているけれども――きっと元就の好きな笑顔を抱いて、彼は此処に戻ってくるのだ。
 願望ではなく、それがきっと真実。
 だから、後幾日で帰ってくるだろうかと考えるのは止めにした。

 いつだって構わない。
 幸村は来るのだ。誰でもない自分の手を、もう一度繋ぐために。

「ふふ……いつから我は、自分以外を信じるようになったのだろうなぁ」

 苦笑を浮かべた元就は、伸びた前髪を払い除けながら山道を歩き始める。
 ちらちらと粉雪が降り始める中を、ただ一人で無言のまま進んでいく。
 幸村が来る前は毎日誰とも話さずに、自身の声さえ忘れかけていたというのに。
 何月に一度か半兵衛が訪れるたびに零さなくてはならぬ忌々しい声音を耐えては、何度この喉を潰そうかと思ったことか。
 だが目の見えなかった幸村との交流を経て、または全てを知ってもなお受け止めようとする幸村にとうとう弱音を吐き出して泣いてしまったあの日、彼の腕に抱かれながら幸村と共にいることがこれほど喜ばしく思えたことはなかった。
 身代わりではない自分だけの名前を呼ばれることが、こんなにも哀しくて愛しいのだと思い出すことが出来た。

 ――そして彼が隣にいない静寂が、こんなにも寂しいのだと知ったのだ。

 一人は寂しい。
 二人でいれば、自分は自分だと分かる。

 世界から爪弾きにされて一人になった者同士が出会い、二人ぼっちになって、それから再び一人になった今なら良く分かる。
 だからこそ幸村は何処かで泣いていないだろうか、と気掛かりだった。
 多分自分よりも寂しがり屋な子虎の横顔が雪景色の中に浮かび上がり、元就は白い吐息を吐き出しながら困ったように笑んだ。

「――誰だっ!」

 荷を背負い直そうと一度立ち止まった元就は、側の草むらが不自然な音を立てたことに気付き、鋭い眼差しを即座に向ける。
 出し抜けに声を荒げたこともあり、音の元は一瞬気配を隠せなかった。
 いくら長く俗世と離れて生活しているとはいえ、元就とてかつての大国の主である。人の気配には敏感であったし、或いは誰とも合わぬ生活を強いられていたからこそ瞬時に察したのかもしれない。

 一瞬気配は恐れ慄いた様子だったが、元就の声に促されるようにして静々と木陰から姿を現した。
 近付く者からは殺気も闘志も感じられず、観察するような不躾な視線もない。竹中の手の者ではないのだろう、と元就は身構えながらも少しだけ肩の力を抜いた。

「……毛利元就公とお見受けする」
「さてどうであろう。我は既に毛利ではないからな」

 名を尋ねながらも己の正体を知っているだろう男の問いに、元就は敢えて茶化すように口元を歪めてみせる。
 相手の反応によっては自身と関係する者の手か、全くの第三者の手の者かが分かるはずだ。
 予想通り、男は元就の言い回しに疑念を抱いた様子はなかった。
 彼は元就がこの山に軟禁されているのを知っていたからこそ、この場に現れたのだ。毛利から存在を消された情報も無論手にしているだろう。
 ならば何故接触を図ってきたのか。
 元就は久しく使っていなかった謀将としての頭を回転させながら、男の挙動をじっと見つめる。
 忍の類であろう男はそんな元就と暫くの間緊張した面持ちで対峙していたが、決して揺るがぬ高潔な琥珀の双眸に何か確証を得たのか、急に後ろへと合図を送った。
 仲間がいたのだろう。軽い舌打ちを放った元就は、足腰を少し低くして構える。いつでも逃げるなり戦うなり出来るよう、息を潜ませて相手の出方を窺おうとした。

 しかし再び気を張った元就は、次に聞こえてきた間抜けな声音によって思わず握った拳の力を緩めてしまった。
 ただ呆然といるはずのない人物の顔を凝視するだけで、呼んだ名前が掠れて空気に溶けていくばかり。

「よお、久しぶりだな? 随分な暮らしをしてると聞いたが、結構元気そうじゃねえか」
「長曾我部……何故、此処に……」

 海の男が陸に上がっていることすら珍しいというのに、四国の長たる隻眼の鬼が目の前にいる。
 全く持って想像もしなかった事態に驚き、元就は言葉を失ってしまった。
 そんな彼の様子に気付いた元親は以前と寸分も違わぬ白い世界の中に沈むような銀の髪を揺らしながら、何も言わずに笑顔を浮かべて元就の冷たい指先に触れてきた。
 払い除けられないことを確認するようなやけに慎重な動作であったのだが、元就はただぼんやりと自分より白く大きな手を見下ろす。

「爺さんや餓鬼にしつこく泣き付かれちゃ堪んねぇからよ。お前を迎えに――否、海賊らしく攫いに来てやったぜ」
「……迎え……」

 拒否の言葉も出ない様子の相手からはかつての刺々しさは感じられず、そのまま元親は自らの掌で温めるべく元就の手を強く握る。
 鸚鵡返しに呟くことしか出来ぬ元就を咎めるように、弾みで袖の下に隠れていた六文銭が華奢な音を響かせた。



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(2008/02/14)



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