05 錆びた歯車が動く時
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天候の崩れている山道で立ち話をしているわけにもいかず、ひとまず元就は元親を連れて古寺へと一度帰ることにした。
往路よりも些か注意深く辺りを窺いながら石段の側まで来ると、元親に連れ添っていた彼の忍の気配が掻き消えた。
何処へと思い振り返ると、どうやら元親がこの辺りを見張るよう命を下したらしい。元就の視線に気付き、肩を軽く諌めて彼は笑った。
「時間が無いことには変わらねぇが、まあ暫くは保たせている。準備ぐらいはできるだろう」
「……貴様と行くとは言っておらぬ」
言葉の無いまま坂道を登っていた元就は、朽ちた門を潜って古寺をまじまじと見ている元親を無視し、母屋の勝手口へと回っていった。
否定めいた言い方を予想はしていたのだろう。笑顔を引っ込めた元親は、酷く真面目な顔をして元就の背中を追いかけた。
「別に俺んとこでまた囲うって話じゃねえんだぜ。可笑しいのは竹中の野朗だろう。囚虜どころかこれじゃ飼い殺しじゃねぇか」
全く持って理解できないと憤慨する元親の反応は正常すぎて、無性に嘲笑いたくなった。
異常なのは、世界かそれとも自分か。
元親の尺で考えるのならば、そんな半兵衛の狂気の中で生かされていた自分と、側に在り続けることを願った幸村は当の昔に狂っているのだ。それで構わないのだと互いが納得してしまったから、麻痺したままの感覚は二度と戻る事が無いだろう。
元就が自覚しているように、幸村もそれを知っている。
だから彼は、誰も知らない場所で約やかで構わないから共にいようと去り際に重ねて言い募ったのだ。世界はもう決して自分達を受け入れてはくれないのだと、感じ取っていたからかもしれない。
「何とでも言え。我は行かぬ。まだ出て行ってはいけないのだ」
語尾が震えなかったか心配になりながら、元就は冷静を装いながら声を振り絞る。
以前よりも監視が緩くなっていることは分かっている。二日、三日でいつも尽きる食料も、幸村を戦場へ送り出してから量が増えた。元から食が細い元就ならば、十日か二週間は十分保つほどである。
それに比例して、山小屋に世話の男が登ってくる間隔も長くなった。男が帰った直後から食料を纏めて脱走を計れば、もしかすると逃げ切れる可能性の方が多い。
だから元親が来訪する前に、本当ならいつだってこの簡素な軟禁など意味を成さないものにできたのだ。
それでも此処にいるのは、最早遠いものとなってしまった毛利の存続よりも優先するようになってしまった、たった一人の存在のために他ならない。
「あんたが自ら望んで此処にいるってわけじゃねえだろう。瀬戸内での戦いのことは大体聞いている」
「ならば話は早い。あの男を敵に回すのは四国にとっても得にはならぬ。分かったのなら気付かれぬ内に去るがよい」
瀬戸内の、と聞いたときに背筋が粟立った。けれども以前と比べると衝撃は随分と少なく、話題に出されても然程同様しなくなった自分に元就は気付く。
赤い花畑の中で泣いたあの日、どす黒い燻りを幸村の前に吐き出してしまってからだろう。彼の腕の温もりを思い出し、再び震え出そうとする喉元を苦しげに抑え付けた。
己の信じる道を恙無く進む目の前の男を、意味もなく責め立てたい苛立ちが募る。何が貴様に分かるのだと、最初に戦った際に叫んだ台詞を再び叩きつけたくなる。
彼とて一国の主だ。暇ではないのだから、それなりの意志を持って来たことは分かる。頼まれたとは言っていたが、元親なりに元就を助けたいと常々思っていたはずだ。昔ならば我儘な思いやりだと嫌悪の対象にも成り得たが、今はもう無下にはできない。
他人がくれた真実という名の揺るがぬ想いに、救われてしまったから。
寄せられる好意の温かさを元就が承知していると知れば、幾度となく声を掛けていた元親には歓喜が湧くことだろう。
だが元就のその意味を教えてくれた者は、此処にいない。
必ず迎えに来ると破顔した彼を裏切るわけにはいかず、何よりも再会を夢見てしまう己の願望があった。自分を蝕む時間の楔はいずれ二人を隔てると理解していても、それまで未練がましくとも生きていたいと思うのだ。
誰の代わりにもなれぬ真田幸村という男の隣で。
――だから尚更なのだ。
元親に付いて行けば幸村は酷く傷付く。それでもまだ生きていてくれるのならばましだろう。
万が一に元就が逃げたと半兵衛が知れば、豊臣に従軍しているだろう幸村は――。
「毛利を盾に竹中から脅されているってのか? その事なら大丈夫だ。お前を助けたいと言ってきたのはな」
「煩いっ!」
その先の答えなぞ聞かずとも分かる。
突き付けられたくなくて元就は耳を両手で塞ぎ、屋内へと逃げるように上がった。
おい毛利、と元親が頑なな子供を諭すように背後で声を荒げている。
けれど足を止めて掌を外す度胸もないまま、焦燥に駆られた元就は住み慣れてしまった小さな家の回廊を足早に当てもなく進んで行った。
染み付いてしまった習慣はいつまでも取れず、無意識の内に庭の見える奥の部屋――幸村の部屋に到着してしまったことに気付いて、元就はある種の絶望感を感じずにはいられなかった。
(今更何を我に求めるというのだ)
ぽつりと真っ暗な胸元に過ぎっていく言葉の数々は音になることもなく、元就の内側へと波紋を広げていくばかりだ。
のろのろと膝を付いた元就は、壁に寄せてあるみすぼらしい文机へと手を伸ばす。立て掛けてあった琵琶にかぶる埃を力任せに払い除ければ、奏者のために自らが張り直した弦が微かに響く。
懐かしの音色も元就を慰める事はなく、今はただ虚しさを一層引き立たせるばかりだった。
「何故だ……我を要らぬ者だと言ったのは、毛利の方ではないか」
「だから過ちに気付いたんだろ」
決して広くない母屋の中、緩やかな足取りのまま元親は簡単に追い付いた。
無反応の元就を気にも留めずに元親は続ける。ゆっくりと説き伏せたかったが時間がない。
「一度失えば存在の重さが分かるってもんだ。そこで死に別れちゃどうしようもねえが、あんたはまだ生きているだろう。詫びの言葉も聞いてやってくれよ」
元就は肩を強張らせたが、琵琶を抱いたまま動かなかった。
戻れるものならば。やり直せるものならば。そう思わぬことが無かったわけではない。
裏切りに絶望して全てを諦めた時点で、考えても無駄だと視界を閉じたのに、それでも未練がましく檻の中で呼吸を続けていたのは毛利のためだという生きる理由が欲しかったから。元就はそれ以外の生き方を知らなかった。
もう一度やり直すには失くしたものが多過ぎる。それでも戻って欲しいと嘆願されるのならば、元就は迷わず帰っただろう。良心の呵責に喘いで死んでしまった我が子に対しても、他ならない供養となるはずだ。
それが分かっていても返事を返せないのは、ようやく自覚した幸村への想いがある故。
全てを失ってもまだ生きなければならなかった自分に、最後に残された光をようやく真っ直ぐ見返せるようになれた。控え目な温かさを互いで分け合って、泣いて笑って慈しんだ日々を送ってきた。
そんな彼と共に生きていける未来を夢見てしまうほどに、たった一つの拠り所を得られたというのに。ようやく彼を待つことに慣れてきたというのに――今度は、幸村を失えというのか。
心の中で幾度も彼の者へ届かぬ名を呼びながら、元就は口の端を噛み締めた。
きっと青褪めているだろう自分の見っとも無い顔を想像しながらも、それに対して自嘲できる余裕すら湧いてこない。
ぞっと這い上がってきた喪失の寒気に身体が竦み上がり、震えようとする虚弱な精神を必死で叱咤する。
たった一人の人間を裏切るという行為は、こんなにも恐ろしいのだ。
息子がどれほど自分の事を想っていてくれたのかが嫌でも理解できてしまい、余計にどうすればよいのか分からなくなった元就は項垂れる。
「豊臣が織田とやり合ってここいらを離れている今が好機なんだ。無理矢理でも連れて行くぜ」
――嗚呼、やはりまだ戦場にいるのか。
目を強く瞑った元就は、戦装束を纏って槍と刀を振るう猛虎の姿を瞼の裏に描いた。
元就が幸村の命を握られているのと同様に、幸村も元就の身柄を盾に取られて過酷な従事を強いられている。その先に自由があると信じて、この場所へ帰るためだけに戦い続けているはずだ。
互いの関係を瞬時に察していた天才軍師は、実に合理的な束縛の仕方を思いついたものだ。そこまで切迫した状況なのは、時間の少なさを自分以上に感じ取っているからだろうと元就は思う。
そうやって命の灯火をすり減らしながらも自身の決めた我儘を徹そうと、幸村も半兵衛も自分に優しくなんかない世界の中で必死に足掻いている。
もがくのを止めれば、手の内に掴んだ譲れないたった一つのものさえもすり抜けていき、やがては自分さえも溺れて死んでしまうから。
「……繋ぎ止める楔が荒れる波間へ飲み込まれていくのならば、鎖の先もまた否応なしに其方側へと曳かれるのが定め、か」
琵琶を抱いていた腕を解き、元就は立ち上がった。
掠れた呟きが元親の耳に届いていたが、それが一体何を指している言葉なのか理解できずに怪訝な表情を浮かべている。
分からなくてよいと元就は軽く首を振り、琵琶を片手に握ったまま元親の側へと歩み寄った。
「毛利は豊臣に反するのだな。勝算は?」
「あんたがいれば存分に。俺が保障してやる」
僅かばかりはにかんだ元親は手を差し出した。
だが、それを受け取るわけにはいかずに元就は大きな掌を一瞥する。叩き落とされなかったことに驚いた元親は、困ったように笑いながら連れ立って歩き出した。
迫る刻限は抗い様のない宿命だろう。
だが元親の言うとおり、生きている限り可能性は一つではない。滞っていた時間が再び動き出した今、元就もまた足掻いてみたくなった。
待つばかりなど、もう嫌なのだ。
幸村が元就を助けるための戦いを自分の我儘だというのならば、幸村を守るために毛利すらも利用しようとするのは我欲に他ならない。自分を囲った檻も、自分を温めた炎も、あちらの世界にいる。自らの手で格子を壊し灯火を取り戻そうと望むのならば、此処を出て行かなければ始まらないのだ。
だから――半兵衛が幸村を排する前に、自らが奴の喉笛を噛み切ってやると元就は決めた。
(我を恨むか、幸村? だがこれは我の独り善がりな想い。そなたもそうだったのだろう?)
赤い花弁が記憶の隅に過り、元就は苦笑する。
荷物を纏めろと元親に言われて手にしているのは、幸村の琵琶と守り刀と六文銭だけ。他に大事な物など浮かばない。一番大切だった男はもう常世に近いこの場所にはいないのだ。
毛利に戻る自分には、幸村の語った夢を叶える事はきっとできないだろう。
迎えに行くという約束ですら破られたのだと知れば、あの青年がどれほど傷付くか、分からぬ元就ではなかった。
罵倒されても良い。たとえ共にいられぬと今度こそ愛想を尽かされても構わなかった。そうしたいと望んだのは自分自身なのだから。
粉雪が降り注ぐ階段を降りながら、元就は古寺を名残惜しげに見上げた。
偽りと本音で積み重ねてきた幸村との日々を作ってきた、小さな園。此処を離れて思い出の一欠けらも零さずにいられるか、少しだけ不安だった。
元親に急かされながらも何度か視線を投げていた元就は、石段を降り切ってからはもう二度と振り向かなかった。
誰も必要としていない元就にとっての寂しい世界は消えてしまったから、もう怖くはない。
其処にはたった一つの小さな灯りが生きている。
誰でもない毛利元就というちっぽけな男を抱き締めてくれた、弱くても真っ直ぐな太陽が輝いているのだから。
(ただ、悔やむというのならば――)
幸村をきっと泣かせてしまうその事実だけには、酷く胸が痛くなった。
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(2009/02/19)
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