05 錆びた歯車が動く時
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慎重に山を降ってからは、意外なほどすんなりと元就は四国へ向かう船に乗る事ができた。
豊臣がそれこそ全力を持って織田に当たっているのは本当なのだろう。監視役の麓の住人達も、半兵衛が捕えている素性の知れない男よりも主君の勝敗が気になってしかたないのだと、僅かな手勢を連れて闇夜を駆けながら元親は笑った。
元就は自分のいた土地が一体何処であったのか分からないまま過ごしていたが、二日や三日ほどで長曾我部の船にまで辿り着いたことから海が近かったのだと初めてこの時知る。
それを素直に元親へ伝えると、驚愕の表情を浮かべた後で悔しそうに歯を食い縛ったのだった。
「爺さん、毛利を連れて来たぜ」
「勝一……やはり貴様も一枚噛んでおったか」
元親に腕を引かれて上がった甲板には、場違いな琵琶法師が待っていた。
毛利家に自分の居場所を教えたのは彼に違いないだろうと見当の付いていた元就は、案の定長曾我部の船に平然と加わっている勝一を見つけても対して驚きはしなかった。
声をかけられた勝一は瞼を伏せたまま振り返る。
つい先日までは幸村もこの状態だったのだと思い出すと、無理やり納得させて此処に来たはずの決意が微かに揺らめいてしまう。それを振り切るようにして小さく首を振った元就は、声が届きやすいように彼の傍まで近付いた。
「差し出がましいことでございましょうが、元春様や隆景様にも乞われてしまいまして。若君までもがこの老僧に御祖父様は何処かと泣きつくくらい、今の毛利は不安定なのです」
「……ふん」
現状を語られて元就は眉間に皺を寄せた。
豊臣に降ってからは散々な扱いを強いられてきていることは察していたが、想像以上に酷いのかもしれない。元就直属の部下であれども勝一は琵琶法師である。毛利の御曹司を家臣達は簡単に引き合わせるはずがない。
小さな子供がそれを掻い潜ってさえ勝一に祖父の居所を聞こうとする切迫さ、みすみす会わせてしまった家臣達の落ち度を思えば、家中は混乱の極みであろうことは分かった。
支えるべき両川の二人までもが泣き言を吐いたことには驚いたものの、豊臣の介入がそれだけ強く、何とか凌いでいたもののそろそろ限界が近いのだろう。
裏切られ、売られたことに対する怒りは当の昔に消え失せている。
ただ自分がいなくとも豊臣傘下の中で生き残れる自信があったからこその決断だったろうに、結局現実に儘ならずに基盤さえも揺るがされている毛利の者達に苛立つ。そんな半端な覚悟だったのかと、かつてのように叱咤と檄を飛ばしたい衝動に駆られる。
そんな元就の機嫌に気付いたのか、元親は宥めるように苦笑いを浮かべて間を取り持つように一歩前へと出た。
「責めてやるなよ毛利。この爺さんに噛み付いても仕方ねぇだろうが」
仮にも自分の船の中で揉め事を起こされても困るのだ。
元親を一瞥した元就は軽く息をつくと、まだ自分が古寺から出てきたままの泥塗れでみすぼらしい装いであることに気が付き、とにかく着替えようと船内へと向かおうとした。
だがその歩みが、勝一の呼びかけられた刹那に止まる。
「月叟殿は如何致したのですか、日頼殿」
聞き慣れぬ名前に元親は怪訝そうに首を傾げる。視線の先の元就の肩が大きく引き攣ったように思えて、尚更不思議な気分にさせられた。
「……その名で呼ぶな。我らは最早、あの常世へは戻らぬ」
相手の目が自分を映さないことが分かっていながらも、振り向けないまま元就は足早に船内へと姿を消した。
それをじっと見守っていた元親は勝一の方へと向き直り、晒されている一つ目で真意を問い質そうとした。しかしすぐに相手が盲目であることを思い出して、咳払いを一度してから声をかけてみる。
「爺さんよ、あんたは元就の居場所知っていたんだよな? 諸国を巡った後で毛利家に帰っても黙っていたらしいじゃねぇか。どうして話さなかったんだい」
「元就様が、毛利家にどのような仕打ちを受けたのかはご存じでしょう。私は執政者ではございませぬ。武家の方針に口出しをするわけには参りませんから」
元親の疑問も最もであるが、毛利家には毛利家の方針がある。一介の琵琶法師如きが意見するわけにはいかない。また、隆元の事を伝えても元就は戻ろうとする意欲を一度も見せなかった。主君が現状を受け入れている以上、勝一にはどうすることもできなかっただろうことは元親にだって想像が付いている。
けれど敢えて聞いたのは、そこから糸口を見出そうとしたからだろう。先程までの不可思議なやり取りの理由を。
勝一は元就が去って行った方向を向いたまま、くすりと笑んだ。
「長曾我部殿に頼んで良かった。我々毛利家の者が直接迎えに行っても、きっと元就様は動こうとなさらなかったでしょう」
「よせやい。俺だって最初は滅茶苦茶嫌がられたんだぜ?」
茶化すように軽い口調で言う元親だったが、勝一のその微笑みがほんの少しだけ曇っていることに気付いていた。
自分が引っかかっているように、彼も手放しでは喜べぬほど何かが気掛かりなのだろう。
それこそ、思わず元就に問いかけてしまうほどに。
「なあ爺さん。俺の勘違いだったら悪いが、あいつ――誰かと住んでいたのか?」
何故かあの場所から離れることを拒んでいた元就。毛利の名を出しても頑なな態度は変わらず、大切そうに琵琶を抱き締めていた。
自らの物に頓着しない男だということは何度か話をして知っている。海賊として宝を目当てに海をうろついている元親とは対照的なほど、元就は物欲に欠けているように感じていた。
けれど寺から出る時、元親が確認している限りはあの琵琶くらいしか持っていなかったのだ。
もしかしたら目の前の琵琶法師が渡したのかもしれないが、それにしては執着し過ぎている。毛利の誰かの物だという可能性は、彼の口から毛利を拒否する言葉を直に聞いてしまった元親には思い浮かびもしなかった。
あれは、誰かの形見を守るような頼りない後姿だった。
世間から隠されてしまう前までは、彼の側にそのような存在はいなかった。元親が気付かなかったにしろ、あんな小さな背中を晒してしまうほど元就の内側に食い込むような誰かがいたようには思えない。
まさか憎んでいるだろう半兵衛相手にそんな殊勝な態度を取るとは考え難く、しかしそれ以外に他人の姿は見当たらなかったため元親は答えを見つけられずにいた。
――月叟、という名を聞くまでは。
「問うてどうなさいます?」
喰えない微笑を湛えながら勝一は逆に尋ねる。
話術巧みな毛利の者と話すのは得な方ではない元親だったが、何となくそれが彼の返答なのだと理解した。
日頼という名には未だ慣れないが、総じて毛利家は瀬戸内の戦いで死んだとされている元就の名を出す時はこの戒名で呼ぶから知ってはいた。とはいえ元親は元就が本当は生きているだろうと信じていたから、全くの死人扱いのようで内心では腹を据えかねていた。
それに連なるように勝一が紡いだ名も、響きを聞く限りでは鬼籍に入った者、或いは仏門に降った僧のものだろう。元就自身も臭わせるような口振りだったことを思い出せば単なる偶然だと片付けられない。
――荒波に沈む楔と表したのは、そんな相手のことだったのだろうか。
どちらにせよ元就は一人だった。
雪景色を歩く姿を見つけた時は、何やら物悲しい気分が込み上げた。かつては高慢なほど輝いていた光も失われ、ただ灯火のような頼りなく揺れる瞳は元親の言葉を酷く恐れていた。
けれどもそんな彼を支えられる存在であろう者の気配は、がらんとした寺の中からは一切感じられなかった。
厳しい冬の山を、よりにもよって半兵衛の檻の中で元就は一人ぼっちの日々を送っていると気付いてしまえば、何としてでも連れ出さねばと焦燥感が込み上げたのだ。
妄執ばかりが渦巻くあんな場所から、一刻も早く遠ざけてやりたかった。
「余計な詮索はしねぇよ。俺は豊臣のやり方が気に食わねぇから毛利と組む。今は、それだけだ」
隣の男から視線を逸らして、遠ざかっていく陸地を眺める。
毛利はまた元就と新しく歩き出す決意をした。家が全てだった元就はきっと戸惑いながらも停滞していた時を動かすだろう。だから離された手を取り合わせる事は善い行いなのだと、元就に会う前までは疑いもしなかった。
だが、それも今では揺らいでいる。
もしかしたらあのままそっとしてやった方が良かったのではないだろうか。此方側へと引いたために、元就はようやく繋ぐことができていたもう片方の手を離さなくてはならなかったのかもしれない。
一瞬であれどもそう脳裏を過ぎり、愚考だと分かっていながら笑い飛ばせない自分がいるのだ。
勝一には謙遜してみたものの、元親は己の言葉で元就を動かせたとは思っていない。
彼は誰にも言う事無く、強い決意を固めたのだ。
かつての鷲の片鱗を刹那的に浮かばせた眼光の鋭さは、瞼を閉ざしてもなお鮮烈な印象を元親にもたらしている。
あれは本当に心が死んでしまった者が持つことなどできない。元就は既に、元親の手を取ると決めた瞬間から戦いを始めてしまったのだ。それが自分との戦いなのか、世界との戦いなのか、彼の心中が推し量れぬ元親には最早どちらでも大差なく思えた。
結局は、元就が孤独な戦いへと一人で赴くことを決めてしまったという点は変わらないのだから。
「馬鹿野朗、何のために迎えにいったと思ってやがるんだよ毛利……」
気が晴れない船出に微かな不安を感じながらも、元親は自らを待つ先の戦へと思いを馳せるのだった。
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(2009/04/20)
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