05 錆びた歯車が動く時
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幸村は豊臣の陣中で浮いた存在だった。
軍師自らが連れてきたというだけでも噂の種であったが、主君たる秀吉も一目を置いているとなれば豊臣に心酔している兵士達も気になるのだろう。
かといってそれを笠に驕ることもなく、豊臣に降った諸侯にも擦り寄らず黙々と一人で鍛錬を積む彼の姿は彼等にも好意的に思われている。そんな男が彼の有名な真田幸村だと聞けば、兵士達も大いに士気を上げていた。
当の幸村は、周りにどのように思われていても興味が湧くことは無かった。
会う都度に半兵衛との間に険悪な空気を撒き散らしながらも、戦自体に手を抜くことはなく、織田との衝突のたびに先陣を切って猛威を揮い続けている。
乾ききっていた闘争心を潤そうとするかのように牙を突き立てて血を浴びる彼はそれこそ獰猛な大虎だと敵陣からは恐れられ、功績を挙げるたびに味方は喜び褒め称えた。
しかし幸村は幾多の称賛にも苦笑するばかりで、心の底から満足気な笑みを浮かべることは一度として無かった。
褒められるような大義も志も己には無いと知っている。
自分の我儘を叶える為だけに、此処にいる。幸村にとってはただそれだけの事だった。
「全く君の働きには感服するよ、幸村君。秀吉の元ならばその力をもっと大いに揮わせて上げられるのにね」
泥と血で汚れた顔を拭っていた幸村は目を細めて顔を上げた。本陣からやって来た半兵衛が薄く微笑みながら、隣の大樹に寄り掛かっている。
見るからに不快だと言わんばかりの表情も隠そうともしない幸村を無視しながら、彼は肩を竦めた。
「君だって自覚しているだろう? 君は戦場でしか生きられない人種だ。自分のためだと言い聞かせ、人の手足となって動かなければ存在意義さえも見失ってしまう」
幸村は見透かされたかのような気分に陥り、思わず眉を顰めた。それこそが図星を指されたことを表すものであったが、幸村自身既に言い返す余力も無いほど自覚していたため静かに唇を解くだけで噛み付くようなことは言い返さない。
半兵衛は鋭い観察眼を持ってして己の内情を把握したが、幸村には相手が今どんな心持ちで戦場に立っているのか察することさえ難しかった。探るように視線を投げてみても、薄笑いの仮面に阻まれて見えない。
彼にとって秀吉は掛け替えの無いものだというのは分かる。それこそ失ってしまった主君や兄へと寄せる想いの強さと変わらないくらいに。
だからこそ、まだ何も失くしてはいない半兵衛が元就に何故あれほど執着するのか未だに不明瞭であった。
「戦場に立ち続けるだけの技量と強さを持っているのに、それを使わないなんて勿体無いよ」
「何を言われようとも某は豊臣に仕える気はござらぬ。竹中殿こそ、そこまで豊臣に尽くしおられるというのに何故あの方を囲うような真似を致した」
黙ったままであった幸村の冷静な反論に、微かに半兵衛は指先を震わせた。色素の薄い双眸は一瞬瞠られ、笑顔が形を潜める。
動揺した半兵衛に気付かぬふりを続けながら、幸村は顔を拭っていた布をしまい立ち上がった。吹き込んだ風で常緑樹の葉がざわめき、二人の間に奇妙な沈黙が流れていく。
乾いてしまって取れなかった血糊を付けた幸村に正面から見つめられると凄味が増す。だがその額に巻かれた布は不自然なほどに白く、元就から与えられた物だと知っている半兵衛はそれを見るたびに幸村の献身的な想いを察してしまい、複雑な気持ちを抱いていた。
そんな幸村に改めて聞かれてしまい、らしくないほど揺さぶられた自分に後悔する。
「くだらない事を気にするんだね。君に教える義理はないよ」
そう言い返したものの口調に覇気が無いことに気付き、一度口を噤んでしまう。
――他人には本当にくだらなく感じるに違いない。
半兵衛はそっと顔を逸らすと、組んでいた腕をそっと解いて自分の片腕を見下ろした。
手袋で覆っているものの、外からでも分かるほど細く頼りない印象が付き纏う。それが半兵衛には嫌で仕方が無かった。
武人としては元々身体の線が薄い方であることを自覚しているが、此処一年ほどで随分と体重も落ちてきているのに気付いている。
その度に、半兵衛は絶望していた。
健康な人間ならば気にも留めないだろう些細な変化が憎らしく、隠すように着込むようになったのはいつからだったろう。
目の前の青年は以前の明るさは欠けてしまっているものの、これからの未来を担うだろう若々しさに溢れている。己の信ずる者を失ってもたった一人の人間と共に生きていくため、愚直な契約を半兵衛と交わすほど。
だから彼に自分の本心を伝えても理解できようはずがなく、ましてや自分から元就を奪うであろう相手に教える道理なんてないと考えた。
妬ましい気持ちが湧き上がることを覚えながら、半兵衛は取り繕うようにその片手で顔を覆った。
「君はどうしてあれほどの懸想を寄せられるんだい。かつての敵だと分かってもなお、自由と引き換えにしてまで彼に尽くそうと思える」
尋ねておきながらもこれは意味の無い問いだと気付き、半兵衛は失笑する。
今の幸村の行動理念は十分過ぎるほど知っていた。
自分とは違い、歪な感情を秘めていながらも純粋な性根だけは変わらずに内に宿している幸村。だからこそ血に塗れても、真っ白な鉢巻を頑なに守り続けることができるのだろう。
「それこそ愚問でござろう、竹中殿?」
幸村は口の端を少しだけつり上げて、肩に掛かっていた鉢巻を指先で掴み上げた。無骨な手の穏やかな仕草を見れば、どれほど幸村が元就を大切にしているのか良く分かる。
荒々しく略奪も同然に軟禁した自分には決してできない触れ方だろう。半兵衛は長い睫毛を伏せて、今更戻れぬ元就との殺伐とした間柄を顧みながら思った。
羨ましいなんて生易しい感情は擡げなかったが、それでも幸村の何が元就の心を動かしたのかは何となく分かる。
寺で盗み見た時はまるで死人のような面構えだったというのに、元就が絡んだだけで噴き上がる炎の如く苛烈な眼光を突き刺してきた。
戦う力があるというのに現実から逃げようとする不甲斐無い姿には、正直落胆以上に苛立ちが募り、自分には無いものを持っている彼に恨みがましい気持ちが多少なりともあった。
だが幸村はそこから再び這い上がってきた。潰えていたはずの虎の魂を確実に携え、荒々しい攻め方ながらも昔のような無鉄砲さは薄れてより戦場を広く見渡す眼を持って戦いに挑んでいる。
将としてはこの上ない人材であるが、そんな彼を動かしているのは大義でも理想でもそれこそ野心からでもないのだ。
「某はもう参ります。努々誓いを忘れられるな」
「働きに期待しておくよ。この戦、簡単には終わりそうもないからね」
法螺貝が遠くで鳴り響いたのをいち早く察知した幸村は、半兵衛に念を押して颯爽と馬に跨って駆け出していった。
再び織田の軍勢が迫ってきているのだろう。
冬空を仰いだ半兵衛は、張り詰めていた空気を溶かすように大きく溜息を吐き出した。肩の力が抜けて、そのまま大樹に寄り掛かる。
「半兵衛、此処にいたか」
「秀吉」
奥から出てきた親友の姿を見とめ、半兵衛は身体を起こそうとした。
それを制止して秀吉は彼の隣へと歩み寄る。
「真田幸村の勇猛は凄まじいな。予想よりも兵力が集まらなかったが、それを補いだけの力が十分にある」
「そうだね。武田の残党も現れなかったのは僕の見通しが甘かったけど、彼は良く働いてくれているよ」
背中を持たれかけたまま力なく笑う半兵衛に何かを感じたのか、暫し逡巡した秀吉は巨躯に似合わないおずおずとした様子で切り出した。
「お前が真田と何の約束を取り付けたのか、我は干渉せぬ。だが半兵衛よ、あれだけの殺気をぶつけてくるのだ。破れば奴がどのように掌返してくるのか分かっているだろう」
秀吉は直接聞いたわけではないが、半兵衛が戦線へと段々出向かなくなってきている理由に薄々勘付いている。木陰の下で幹に寄り掛かっていた彼をそのままにさせておいたのも、そのための気遣い故だ。
だから半兵衛が幸村を見るとき睨み付けながらも少しだけ遠い眼差しをするのは、それと関係するからだとも承知している。
彼らが何故こうも互いへ敵意を抱きながら共闘しているのか仔細を知らぬ秀吉だったが、契約は幸村から持ちかけられたという流れは聞いている。だから幸村から棄却することはないだろうが、戦が終わった後で半兵衛が破談に持ち込むかもしれないという危惧があった。
無論、これからの豊臣を脅かしかねない存在になるだろう幸村を、野に放ったままにしておくのは愚挙に等しい。豊臣のための粛清と称して半兵衛は、何度かそうして危険因子を切り捨ててきている。
しかし今回はそう簡単にはいかないだろうと、秀吉は思うのだ。
最初に謁見した際に見せた、幸村の闘志と殺気。違えたのならば決して許さないと言わんばかりの刺々しい気配には、覇王と呼ばれて周囲に畏怖され続けている秀吉さえも圧倒させた。
幸村の提示した条件を呑んで従軍させた半兵衛の決断に異論はなかったが、もしも本当に幸村がこちらへと刃を向けてきたのならば万全の体調ではない半兵衛には荷が重かろう。
最悪の事態を考えてしまえば、そんな心配も杞憂には終わらないはずだ。
真剣な表情で自分を見つめる秀吉を安心させるように、半兵衛は困ったような笑みを零した。
「敵に回れば厄介な相手だ。その辺りは十分想定内だよ、秀吉。君は後の事を気にせずに前を見ていてくれ」
それこそが自分の一番の望みだと言い、半兵衛は立ち上がった。
自分達の夢を叶える為にはどんなことだってやって来た。大切な者を失い、大切な時間を削りながらも今此処にいるのは何も幸村だけではないのだ。
彼が指摘したように、きっと半兵衛が秀吉に尽くす思いの強さと幸村の持つ元就への慕う気持ちの強さは同じような性質なのだろう。
だが半兵衛が元就に押し付けた願望は、似て非なるものだ。だからこそ暗闇に堕ちてもなお猛々しい炎が消えないままであった幸村には、論じたところで無意味だろう。
陽光と影のように、向かう場所が真逆を向いているのだから。
(それでも真田幸村が彼の手を取ろうと足掻いたのは、僕が彼を手に入れようと躍起になったことと同じ理由だろうってことが癪だね……)
再び空へと息をついた半兵衛は、白く煙る自分の吐息を眺めた。
喧騒が遠くで聞こえる。
ここはまだ戦場だと思い返しながら、秀吉を促して彼は陣幕の向こうへと戻っていった。
+ + + + +
半兵衛と個人的に話してから幾日かが過ぎた頃、幸村はいつものように一人陣から離れた場所で槍を磨いていた。
魔王にはもうすぐ手が届く。決戦の時が近いため、念入りに兄の形見にも等しい愛槍の手入れは怠るわけにはいかない。
幸村が豊臣軍にいると世間には伝わっているようだったが、かつての地獄を生き抜いた仲間達には巡り会えなかった。長篠であれだけ総崩れさせられたのだから、織田軍に追撃を受けて本隊もただでは済まなかっただろう。
思い出すと胸が痛まずにはいられないが、せめて成長した戦いぶりと討ち取った敵の数だけ彼らへの手向けになれば良い。
所詮、真田幸村は戦うことでしか己の存在価値を見出せない小さな存在でしかないのだ。己が一番理解している。
武器を持たなくなった自分はこの時代を生きていけないのかもしれないけれど、それでも元就の側でならば呼吸ができるのならば何処へでも行ける。
全部失くした世界の中で、一等に輝いている彼がいるのならば――。
「っ、何者だ!?」
不意に他人の気配を感じ取った幸村は、咄嗟に身構えて刀の鯉口を切る。槍では間合いが近過ぎると感覚的に察したからであったが、それほどまでの近さに人がいると気付かなかった自分に驚いてしまう。
相手の気配は先程まで一切感じなかった。ということは余程の手練か、忍の者か。
どちらにしろ油断はできない。警戒心を露わにしたままじっと相手を観察するように睨み付ける。
大きな編み笠をかぶって背負子に桐箱を乗せている。風貌は怪しげな薬売りといったところか。背丈や微かに覗く口元から見れば、まだ若い男だろう。
忍を多く召抱えていた幸村には、それがすぐに変装の一種であることが知れた。
戦場に近い場所に何処かの忍が視察代わりに紛れ込むのは当然だったため不思議には思わなかったが、何故か相手は今にも抜刀しそうな幸村の前に佇んだまま無言である。
寒風に耐えながら出方を窺っていると、向こうも自分に困惑している様子が伝わってきた。訝しんだ幸村は、そのままの体勢で再び声をかけようと口を開きかけた。
「……真田の旦那?」
沈黙の中に転がったその呼び方に幸村は目を見開く。
何も言えないまま男を凝視しつつ、柄を握っていた手に震えが走った。
期待なのか恐慌感なのか分からない感覚が迫り上がる。
――目の前にいるのは、誰だ。幻なのか。それとも白昼夢でも見ているのだろうか。
自分の抱く闇が見せる幻覚を知っているからこそ幸村はすぐに気付けなかった。相手の研ぎ澄まされていた緊張感が和らぎ、紛れもなく生身の人間の、それも慣れ親しんだ気配がゆっくりと浸透してきたことに。
「嗚呼、やっぱりそうだ。生きているってずっと信じていたぜ」
「さ、すけ?」
記憶の底に沈んでいた懐かしき己の忍が浮かべた笑みを受けて、幸村は呆然とする。
これは夢だろうか、と己に問い質すが目の前に確かな形があるのだ。
橙色の髪も何処か飄々とした印象を持つ笑顔も、自分を呼ぶ低くしっかりとした声音も、記憶の沼にあったものよりも鮮明で現実味を帯びている。
瞬きさえも忘れたまま相手を凝視していると、居心地が悪そうに肩を竦められた。
「旦那ぁ、そんなに見つめるほど俺って好い男ー?」
少々性質の悪い笑い方や茶化した台詞がまたかつてと同じで、ここにいるのは本物の佐助なのだと本能的な部分で理解した。
途端、零れ落ちたのは熱い雫。
一瞬ぎょっとした佐助は慌てた様子で幸村を宥めようとする。
その仕草が子供の頃から全く変わらず優しいものだから、溢れ出してくる涙を幸村は抑えられなかった。拭おうとしても次々と流れていってしまい、あっという間に顔が歪む。
「無事っ……で、いた、のかっ……良かっ、た……っ!」
「おいおい男泣きなんて止めてくれよ、恥ずかしいだろ?」
最後に別れた時よりも随分と大人びた印象があったが、やはり根本的な部分に変化は無くて佐助は安堵のような溜息を吐き出した。
今だって泣き喚くというよりも嗚咽を耐えると言った方が正しいように、幸村は精神的に落ち着きを見せている。どちらかといえば、兄の信幸に似てきたようにも感じた。
だから最初に見かけた時、容姿は似ているものの雰囲気がまるで違っていたため姿を現すことに佐助は躊躇した。幸村があの槍を大切そうに手入れしていたからこそ、希望に縋るように彼の前へと敢えて出てきたのだ。
賭けは当たったが、幸村の変貌は近かった者だからこそ余計に顕著なものとして感じられた。
無鉄砲で良くも悪くも直情的であった子供は、たった一人で取り残されてどれだけ不安だっただろうか。
あの時の決断を悔いたことはなかったが、佐助は何もかもを失ったと嘆いていた幸村を山奥に置き去りにしたことに少なからず罪悪感を抱いていた。
あれからどのくらいの月日が経ってしまったかもう定かではないが、風評で幸村が豊臣軍にいることを聞いた時は居ても立ってもいられず、まだ完全には治らぬ傷を抱えながらも佐助はこの戦場までやって来てしまった。
最後までお供してやれなかった後悔があるからこそ、再び生きて会える可能性に少しでも賭けたかったのだ。一人でも必死に生きて真田幸村という魂の火を絶やさずに、虎の生き方を貫いていてくれた彼を、今度こそ助けてやりたいと願いながら。
「怪我が治っておらぬのか? 無茶をするな佐助」
「旦那にそんな言い方で心配されるなんて思いも寄らなかったぜ」
無茶といえば目の前の主の専売特許だったのに、幸村の口から聞くと妙な気分になる。
戦いぶりや内側の熱さは変わっていないだろうがやはりものの見方が変わったらしい。薬売りに化けてこの辺りの戦場をうろついていたが、幸村の評判は雑兵達にもすこぶる良くて、彼の師である信玄のようにきちんと全体を把握しながら陣を率いているのだと知った時には佐助も驚愕していた。
そんな彼の成長に嬉しく思えたが、何より佐助は幸村がこうして五体満足で無事に生きていてくれた事への安堵の方が何倍も強かった。
武に長けた主だ。忍如きが手を出さずとも、幸村は何百という兵を相手に幾度も勝利を掴んできている。
だが幸村の精神は純粋故に、一度でも大きく揺さぶられてしまえばあっという間に自身をも見失ってしまうほど本来は危うい。与えられた役目を全うすべくして生き急ぐような真似を傍で見ているたびに、幼き頃から支えなくてはと佐助は一人でもどかしく思っていた。
不安要素を吹き飛ばすかのように武田家での日々は明るいものだったが、それは同時に真田兄弟の間に大きな影を落としていたから佐助は内心複雑であった。だからこそ不相応な身分であることを弁えつつもできる限りのことはしてきたつもりだった。
自分の存在意義を見失い半狂乱になっていた彼を置いていく苦渋の決断の果てに、もしも幸村が自害へと走ってしまったのならばと臥せている間にも何度悩んだことか。
溢れてくる歓喜を噛み締めながら、佐助は改めて幸村の姿を眺める。
「旦那も大きい怪我とか無くて良かった。これなら大丈夫だよな」
笠をかぶり直しながら一人で頷く佐助を不審に思いつつ、幸村は柄を握ったままの手を緩める。
一旦辺りを見回した佐助は他の気配がないことを確認して、おもむろに膝を折った。傅かれるのは久方ぶりだったこともあり、突然の態度に幸村は戸惑う。
真剣な眼差しで顔を上げた佐助は、誇り高き真田忍隊の長の顔で主君へと伝えなくてはならないことがあった。
「武田にお戻り下さい、幸村様。お館様は生きておいでです」
佐助の声音が作り出した真実に、幸村は大きく震えた。
何度も頭の中で告げられた言葉の意味を反芻させてみるものの、見下ろす先にある佐助の顔には偽りの色など一片も無い。自身のことは茶化して流すことの多い佐助だが、仕事に対しては酷く真面目であるのを幸村は良く知っている。
よく考えてみれば主の幸村以外で、佐助に豊臣の陣を視察するよう命じられるのは今のところ一人しかいない。或いは独断で幸村を探しに来ていたとしても、怪我を一体何処で療養してきたのか可能性を辿れば自ずと答えは見えていた。
だが言葉としてはっきり伝えられると、臓腑が熱くなる感覚が湧いてきた。幸村は再び目の前が濡れるのを感じ、思わず目頭を抑え込んだ。
生きている――。
言葉としてはたったそれだけだが、もう二度と会えないだろうと思っていた佐助との会合が余計に現実味を持たせていく。
信玄は生きている。あの絶望的な地獄から幸村が這い上がったように、敬愛していた師もまた同じ世界の下で。存在全てを賭けていた赤い御旗は折れずに立っているのだ。
生存を最後まで信じきれず、自分が孤独だと決め付けて俗世から逃げ出した自分はやはり未熟だったのだと痛感する。諦めずに武田との合流を望めば、もしかしたら叶ったのかもしれない。
だがそんな弱かった自分を幸村は否定するわけにはいなかった。
――元就と繋いだ掌の熱を、決して忘れてはならないのだから。
「佐助、すまぬ。お館様にも謝っておいてほしい。幸村はまだ戻れぬと」
「どうしてだよ旦那? あんたは別に豊臣の方針に賛成して従軍しているわけじゃないんだろう。一旦は降った相手からすぐさま出て行くのは生真面目な旦那にとっちゃ難儀だろうけど、このまま従っていても使われるだけ使われて始末されるぞ!」
無理やりに涙を拭った幸村は、佐助に背を向けて置いたままであった槍を拾い上げた。
兄の名を出さないところを見れば、きっと佐助はまだ信幸を見つけられていないのだろう。信玄が生きていたとしても最前線にいた彼が無事でいるとは考え難く、けれども少しだけ湧いてきた希望も簡単には打ち消すことはできなくて、幸村はともかく兄が何処かで生きていれば良いと願った。
思わぬ返答にいきり立った佐助の必死な形相に、彼がどれだけ自分の事を心配していたのかが痛いほど伝わってきた。それに申し訳なさを覚えながらも、幸村はゆるゆると首を振る。
「今は駄目だ。約束をした――必ず迎えに行く、と」
記憶を思い起こすように目を伏せた幸村は、一度だけ佐助に振り返る。
小さく微笑んだその眼差しに浮かんだ感情を読み取り、細身の背がぎくりと引き攣ったことを佐助は感じ取った。
信玄のためだと言ってひたすら励んでいた頃も、鋭いまでの決意の色を灯していた。戦いを素直に楽しみながら真っ直ぐと敵を見据えていた幸村には、いつだって彼を突き動かす志が存在していた。
だが結局それは全て幸村が自分のためだと言いながらも、無意識で誰かのために存在した哀しい信念だった。
しかし、これは違う。
我儘を突き通すことが愚かだと悟っていながらも、自分のための固い意志を決めてしまった目だ。
余り大げさには動かなくなってしまった表情の中、大きな瞳だけがこんなにまで雄弁に幸村の内情を語っている。言葉少なくとも幸村は豊臣のためではなくもっと別の、幸村にとってはとてつもなく――主家よりも大事な何かを取り戻す戦いをしているのだと佐助は察っした。
知ってしまえば、一介の忍でしかない自分が幸村を引き留めることはできない。
佐助は縋るようにもう一度説得を試みるものの、主の頑固な一途さが安易に動かないことも承知である。何故かと問い詰めようとも幸村はただ首を振って困ったように笑うだけだった。
「必ずお館様の元へと馳せ参じよう。だから佐助、頼む」
「――ったく、そう言われりゃあ俺様が断れるわけないだろ旦那」
お手上げだと肩を竦めて掌を上げた佐助に礼を述べた幸村は、右手で握り締めていた槍を持ち上げてみせる。
一つしか無い理由に勘付いている佐助は少しだけ哀しそうに目を細めたが、彼の言葉なき願いを理解して無言のまま頷いた。
幸村が此処を動けぬというのならば、自分が探し当ててみせようと密かに誓う。
もう片方の槍を持つ“真田幸村”の片割れを、きっと。
音もなく去っていった佐助の気配を名残惜しく感じながら風を見送っていた幸村は、戦いの場へと赴くべく自分もまた陣幕の方へと向かって歩き出した。その横顔に仄暗く付き纏っていた影は幾らか吹っ切れたように薄くなり、代わりに浮かぶは諦めて考えることさえ止めていた希望の欠片。
綺麗なばかりではない世界だけれども、気まぐれのように道標を与えてくれるからしがみ付いて離れられない。
自分を捨てた時代の流れも、愛しながら憎んだ環境も、元就と出会えた偶然さえも、全ては自分が生きているからこそ感受しているのだ。
やり直すことは、今からだって遅くはない。
「貴方が認めて下さった真田幸村として、某はもう一度皆と歩んでもよろしいでしょうか」
祈るように高い空を仰いだ幸村は、そっと目を閉じた。
自分の首元で音を鳴らしていたかつての己を象徴する六文銭はないけれど、脳裏に過った彼の人の手の中にあると思うと何だかむず痒い気持ちになった。
再び会合した時、信玄と佐助は何を言うだろうか。
それが苦言であれ諌言であれ、聞く耳を持てない自分がいるだろうことは既に想像できる。
以前の環境に戻ろうが、幸村の中で育まれた感情は決して消えない。
元就への想いに嘘偽りなど一片もないのだから。
「武田へお連れしたいと言ったら、元就殿はきっと怒るな」
苦笑を浮かべた幸村はすぐさまそれを消して、勢いよく駆け出した。法螺貝がまた鳴り響き出す。戦いはまだ終わってはいないのだ。
望まない戦場へと戻っていく幸村だったが、心なしかその表情は晴れやかなようにも見えた。
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(2009/04/22)
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