震える弦が謳う歌
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あっという間に週末が訪れた。
微妙な空気のまま別れた幸村は、次の日何事もなかったかのように政宗に挨拶をしてきた。授業中に盗み見る横顔にも変化はなく、担任に対しては喧しいくらいによく喋った。
これで声が大きければ、本気で席替えを願うところだ。音楽に傾倒している人間にとって耳は大事な代物である。
そういえば幸村が叫んでいたり怒声を上げたりするところは見たことがなかった。真面目で暑苦しいが基本的に温和な性格だからか、或いは幸村も自身の耳が良いから自然と声の大きさを制御しているかどちらかだろう。指の怪我などにはあまり頓着していない様子であったから、それは無いかもしれないと政宗は苦く笑った。
そうして幸村が平常であったことに安堵すれば、今度は元就の事が気掛かりであった。
あれから図書室には行っていない。
鞄の中には借りた本が読まれもせずに眠っていたが、どんな顔をして彼に会えば良いのか検討も付かないのだ。図書委員の生徒がいる時間になり、準備室に入り浸っている元親なりに託せばよいのは分かっているが、そもそも本を貸し借りするのは偏に元就と会うためだったのだから、それは違うのではと考えてしまうのだ。
急に飛び出して、元就はきっと気分を害したはずだ。
――もう、話しかけてくれないかもしれない。
不安感から浮かんだ想像に、政宗は一人背中を震わせた。
そんな風に午前の授業は散々上の空だったためか、昼休み前の体育で政宗がボールを盛大に頭をぶつけた。普通ならば自らの手で防ごうと心理が働くだろうが、指を怪我したらという懸念が彼の判断を一瞬遅らせたせいだ。
いち早く気付いた幸村が慌てて呼んだのだが、周りの喧騒に邪魔されて政宗には届かなかった。
幸村は妙に責任を感じているらしく泣き出しそうに顔を歪め、政宗の頭に濡らしたタオルを乗せながら一緒に保健室までついていくと言って聞かなかった。
流石にそこまで重傷ではなかったから何とか宥めて、政宗は授業中の静まり返った廊下を一人で歩いていた。
保健室なんて身体測定くらいにしか行ったことがないから、そういえば保険医が誰だったかもよく覚えていない。人見知りの気がある政宗にとっては、初対面にも等しい相手と一対一なのだと思うだけで気分が滅入った。
「それが何だというのだ!」
静寂に満ちていた廊下に、突然鋭い声が響いた。
職員室からだいぶ離れた場所にあるから誰も聞きつけてこなかったようだが、遭遇してしまった政宗は不穏な気配に一度立ち止まってしまう。
角を曲がれば保健室の通りになるのだが、厄介事ではないだろうかという不安と一体何をしているのだという疑問から湧いた好奇心に押され、政宗は恐る恐る覗き込んだ。
「いや、これは失礼。けれどそれが原因の一端でもあるのは確かでしょう?」
保健室の扉の前で、二人の男が言い争っている。いや、片方が一人でいきり立っているのが正しいだろう。
扉側に立っている方は長身に白衣を纏わせているから、保険医なのだろうと察しが付いた。始業式辺りでそういえば見かけたような気もしなくない。
ではその男相手に噛み付いているのは、一体誰なのだろう。
隻眼だから視界が悪く、身を乗り出さねば見えない。幾ら向こうが白熱していても政宗に気付かない可能性だって零では無いだろう。
怪我の治療に来たのに、何故自分がこうも居心地の悪さを感じなければならないのだろうと溜息が漏れてしまった。
「……では平気だと、貴様は思うのか。あれは何度聞いてもそうとしか言わぬ」
「私には貴方の方が気負い過ぎだと思いますがね。まあ良いです。お大事に、毛利先生」
不意に知っている名が飛び出して、政宗はどきりとした。
そういえば片方の声が何だか覚えがある。
足音が奥の階段側へと向かったのを聞き付け、慌てて角を曲がった。
「おや、君は二年の伊達政宗? 怪我でもしましたか」
「あ、あのっ毛利……先生、はどうかしたんですか」
呆然と佇んでいた政宗に気付き、保険医は首を傾げながら近付いてきた。
言い慣れない名を紡ぎながら、それでも視線は奥の階段へと消えてしまった背中をいまだに追いかけている。
口論していたのは、紛れもなく元就だった。
冷たいと言われてばかりの横顔が憤怒と悲哀を織り交ぜたような表情を浮かべ、消沈したように俯いた眼差しは何かを耐えるように塞がれていた。
一体何の話をしていた。保健室に何の用だったのだ。お大事にってどうしたんだ。
――アンタ、誰の話をしていたんだよ。
そんなこと考えばかりが浮かび、政宗は己を恥じた。
みっともないくらい嫉妬深い自分が嫌だ。つい先日そうやって元就を突き放し、幸村へ暗い燻りを向けたばかりだというのにちっとも反省していないではないか。
「ふふ、大したことないですよ。それより早く冷やしましょうか、こぶが出来てしまいますよ」
保険医は薄く笑って何事もなかったかのように保健室へと入っていった。はぐらかされているのは分かったが、子供の自分には立ち入れない話題であったのだろう。
体中がざわめく感覚を持て余しながらも、政宗はそれきり黙り込んでしまう。今になってから妙に頭が痛い。
――聞いて、どうする気だったのだろう。
幸村から借りたタオルを抑え付けながら自問してみたものの、明確な答えが出るはずもなかった。
結局保健室で治療を受けたら昼休みに入ってしまったため、氷嚢を頭に乗せながら政宗は教室へと返された。
痛みがぶり返すようならまた来なさいと胡散臭い保険医に笑顔で言われたので、内心では二度と来るかと呟いて政宗は戸を閉めるのだった。
一気に騒がしくなった廊下を気だるい気分で進んでいけば、職員室の表札が見える。
聞けば分かるのかもしれない。
だが何故知ろうとするのかと問われれば、きっと自分は押し黙るしかないだろう。
元就へ抱いている淡い想いを盾にして、本人の与り知らぬ場所で踏み込んで欲しくない領域にまで入るなんて卑怯だ。ましてや嫉妬に焼かれて身勝手に突き放した己が知る権利などあるのだろうか。
政宗は顎を引いて俯き、自分の上履きを見つめながらゆっくりと職員室の前を通り過ぎようとした。
「政宗様……?」
運が良かったのか、悪かったのか。
授業を終えてきたのだろう小十郎と鉢合わせてしまい、政宗はますます俯いてしまった。
小十郎は片手の氷嚢に険しい表情を浮かべたが、それよりも前の練習の時よりもさらに重苦しい空気を背負う教え子が気にかかった。
以前よりも薄れたものの、何だか引き篭もっていた頃の様子と似通っている風でもある。
ならば音楽に関係する事柄に誘発されて人間関係での拗れも起こっているのかもしれない。母親とヴァイオリンのことでノイローゼになっていた政宗を小十郎は痛いほどよく見てきたから、親友でありながら同じヴァイオリニストである幸村との接触で、いつかいざこざが起きないとも限らないと何となしには思っていた。
無論、彼が原因の全てではないだろう。
けれど政宗のここまで目に見える不調は、彼が自分でヴァイオリンを続ける道を選んだ時から初めてだった。
そのくらいに――花開き出した幸村の鬼才はその決意を揺るがすほどの、畏怖であったのは確かなこと。
「お、俺、教室に帰るな!」
小十郎の視線が氷嚢と自分の頭を行き来したことを感じ取り、慌てて言い繕った政宗は駆け出した。
怪我は自信の不注意でしかない。だが勘の鋭い小十郎には、何について物思いに耽っていたのか分かってしまうだろう。氷の袋と共に握られていたのは幸村のタオルだったから。
「よお災難だったらしいな政宗」
誰もいない更衣室で着替え終え、騒がしい教室へと戻ってくると席の前で元親が待っていた。やや気まずくもあったが元親自身とは何のわだかまりもないため、軽く挨拶を返す。
それから自然と隣の席を見た。
幸村はいない。
安堵のような、落胆のような溜息を零れ落とし、政宗は椅子へと腰を掛けた。
辺りを見回してみたが元親がいつもつるんでいる舎弟達の姿がない。自習のために何処かへ入り浸っている時はいつも一人であるのに、廊下や教室で出会う時は彼の周りにはいつも人がいる。人気者と誰彼もが言う所以だ。
「珍しいな、今日は一人なのか?」
「いやあいつらの購買待ち。それはともかくだが、お前今日の放課後空いているか?」
唐突な話題に政宗が首を傾げる。
意味が通じていないのだろうと察し、元親は頬を掻きながら困ったような笑みを浮かべた。
「ほら前に約束していただろ。今日ちょうど皆でカラオケ行こうって話してたんだ。政宗も折角だから来いよ。お前最近ちょっと疲れているみたいだし、発散した方がいいって!」
元親にもやはり知られていたのかと、苦笑してしまう。
好き勝手やっている元親だがこうして時折空気を巧く読み取るからこそ、彼の周りにはいつも明るい笑顔があるのだろうと妙に納得しています。
そうやって救われたのは政宗も同じだ。
いつもならば机の横にかけてあるヴァイオリンケースの場所を見下ろし、その隣にある鞄の中に眠ったままであった本の存在を思い返す。
――声を出せば発散できるだろうか。
自分の気持ちを誰かの作った歌であれ口ずさめば、少しは暗い気持ちを払拭できるのかもしれない。貴方を好きだと叫んでも、それは作り物の歌詞だからと言い訳ができるのだろうから。
「……Okey, 行ってやらなくもないぜ」
「そうこなくっちゃな! 大丈夫、皆いつもの面子だから気ぃ張らなくても平気な連中さ。心配ならお前も誰かと一緒に来ていいからよ」
教室の入り口が騒がしくなり、元親はそれじゃあ放課後と言い残して帰ってきた友人達と何処かへ去っていった。
本当に嬉しそうだった。
元親のように屈託なく人と交流を持てるようであれば、自分も少しは違っただろうか。
政宗が見た目に反して人見知りであることを重々承知している元親の気遣いはありがたいと同時に、疎外感も感じられる。
元親の友達は、政宗の友達ではないのだ。
楽しそうに自分の分からない話題で盛り上がっている姿を幾度となく見てきたから、狭い部屋の中でも自分は一人浮いてしまうだろうと容易に想像できてしまう。
思わず了承はしたが、どうしようか。
「ああっ政宗殿! こちらにおられましたか!」
頭を微かに抱え込むと、今度は幸村が戻ってきた。
焦った様子で政宗の頭と氷嚢を見比べているから、どうやら一旦保健室まで行ったのだろう。
心配そうな顔のまま、指は平気か、こぶはどうだ、などと自分の方が怪我人のような震えた声を上げる。
「俺の声がすぐ届けばこんなことにはならずに済んだのに……」
「こりゃあ完全に俺の余所見が原因だ。Don't blame you so」
相変わらず馬鹿正直な奴め。
そう思うと自然と笑みが零れてしまった。
ずっと感じている憂鬱な気分の最たる原因である幸村だが、一緒にいて嫌だとはどうしても思えない。
どんなに嫉妬を覚えても、天才との差の惨めさに愕然としても、やはり幸村は自分にとって大切な友人だというのは変わりがないと今更ながら痛感した。
「なあ幸村、放課後空いているか?」
* * *
小十郎は苛々とした気持ちを何とか圧し留めて、ようやく放課後を迎えた。
チャイムと共に午後の授業を締め括り、ホームルームのために教室へ帰っていく生徒達と軽い挨拶を交わすと彼は真っ直ぐ職員室へと向かう。
自分の席に音を立てて荷物を置くと、鬼気迫る表情で並ぶデスクをぐるりと見渡した。強面の小十郎がそうして目付きを鋭くすると、教職についているのが嘘のような威圧感があることを教員は皆知っていたためあえて気付かぬ振りをする。
見渡した席の大部分は不在だ。クラス担任はホームルーム中であるから当たり前だが、小十郎が探しているのはそういった類の教師ではない。
探す相手がいないことに軽い舌打ちをし、彼は大股で職員室を出て行った。
一応は気遣ってくれたらしく扉はそっと閉められたが、その瞬間大きな安堵の息が室内に零れ落ちたことを小十郎は知らない。
そうして誰もいない廊下をずんずんと進んで行き、昼間に政宗が訪れた保健室のプレートの下で小十郎は勢いよく引き戸を開けた。
感情のままに音を立ててしまってから慌てて病人はいないかと顔を上げたが、それを面白げに見ている保険医と目が合ってしまいすぐさま目元に力が入ってしまう。
横目で確認した限りでは他に誰もいないようだ。生徒がいたらどうしようかと考えていた分、少しだけほっとする。
そうして小十郎は無言で戸を素早くしまうなり、溜まっていた鬱憤を晴らすように遠慮せず怒声を上げた。
「明智、てめぇ政宗様に何吹き込みやがった」
「おやおや怖い怖い。保護者さんのお出ましですか」
肩を怒らせたまま詰め寄ってくる小十郎に対して、男はけたけたと笑い声を上げるばかりで怯んだ様子は一片もない。寧ろその反応を予測していたかのような言葉に、小十郎の方がさらに怒気を強めるばかりだった。
白衣を着てしまうと上から下まで真っ白である薄気味悪いこの保険医の明智光秀は、見目に敬遠されがちではあるが率直で礼儀正しい小十郎であっても敬語を使う気にもなれない――つまるところ苦手意識よりも嫌悪感が先立ってしまう程、好かぬ相手である。本来ならば話しかける事にも虫唾は走るのだ。
光秀はわざと煽るように口の端をつり上げて、突き刺さる視線を物ともせずにソファを提供してみた。勿論小十郎はそんな好意に与るわけもなく、眉を顰めてわざわざ事務用のパイプ椅子へとどかりと座り込む。
こうするとソファに座った光秀とは背中合わせとなり、嫌味な笑顔も見ずに済むのだ。
あからさまな態度も保健室の主はさして気にした様子も無く、のんびりと手元のマグカップに従妹から貰ったハーブティーを注いでいく。勿論、小十郎には淹れない。どうせ勧めたって飲む筈がないのだから淹れるだけで無駄なのだ。
「そうは言いますけれど、私は余計な事を口走った覚えがないのですがねぇ」
「今日の昼前に来た筈だ。……様子が、おかしかった」
氷嚢を頭に当てて途方に暮れたような遠い目をしていた教え子の姿を思い出しながら、慰める言葉さえ見つからなかった自分が歯痒い。
本当なら光秀に問い詰める行為さえ、お門違いなのも分かっていた。
今の政宗が抱えているものを形作ってしまった原因は、彼の親友である幸村の存在に他ならないだろう。コンサート以来その衝撃が演奏にも滲み出ている政宗が、同じクラスの隣の席という極めて近い場所で己が立場を脅かそうとしている少年と毎日顔を合わせ続けなくてはならない現状は、きっと小十郎の想像よりも辛いはずだ。
不安定な心は音色として顕著になる。
今の政宗がヴァイオリンを弾けば、この間よりももっと酷い音が出てくるかもしれない。
だが同時に、幸村は政宗にとって大切な友人だ。それこそ無二といっても差支えが無い。
職員室の前で出会った時の不安定な表情の側にあった、見慣れたタオルの存在が小十郎の脳裏に過ぎる。政宗が幸村を連れて家に来た時や、部活帰りの幸村がそれを持っていた事を記憶していたからこそすぐに彼の物だと分かった。
項垂れた様子で保健室を覗き込んでいた幸村の後姿を見かけたこともあり、本当に政宗を心配しているのだと思うと安堵が込み上げたのも本当だ。
同じように幸村にとっても政宗は掛け替えの無い親友であるのだ。それが上辺だけのものではないことを、短い付き合いの中であれども小十郎は知っている。
だからこそどうすれば最善なのか見当たらず、己の不甲斐無さに苛立ちは募るばかりなのだ。
「思い違いではないですか? 生意気な顔をして棒読みのお礼をされましたよ」
歯痒さを奥歯で噛み締めていると呑気な光秀の声が背中から聞こえてくる。
ハーブの匂いが微かに香り、最初の怒鳴り込みで幾許かの激情が発散されたためか今度は噛み付く気が起きなかった。
人を弄ぶのが趣味のような光秀ではあるが、一応これでも医学に携わる者だ。こうして一対一で生徒のカウンセリングを行なうのにも手馴れていて、勝手に責められても何処吹く風で温和な言葉で相槌を返している。
一人で怒っているのも何だか馬鹿らしくなり、小十郎はようやく顔を振り向かせた。
「打った頭は平気だったのか」
「痛かったらもう一度来るように言いましたが、この様子だと平気だったようですね。片倉先生、指も大事ですが頭は打ち所が悪ければ致命傷ですから、きちんと伊達君に注意喚起しておいて下さいね」
それは担任に言えばいいだろうと少々げんなりするものの、小十郎が政宗にヴァイオリンを教えている事は職員の殆どが承知しているから仕方がない。加えて、彼が親戚で尚且つ現在の連絡先が片倉家であれば尚更だ。保護者というのは光秀の皮肉ではあったが、現状を思えば遠からずである。
小さく溜息を吐き出しながら頷き、ともかく光秀が何もしていないのならばこれ以上ここにいる用事もないため小十郎は立ち上がる。
今日は週末だ。
当直には当たっていないし部活や委員会の顧問も持っていないから、来週の授業の下準備をするだけで本日の仕事は終了する。
さっさと終わらせて帰ろう、と保健室の戸に手をかけた。
「伊達君は図書室によく行きます?」
あ、と何かを思い出したように声を上げた光秀は、カップをテーブルに置きながら振り向いた。
思わぬ場所の名を聞き、小十郎が怪訝そうに眉を顰める。
「流石にそこまでは知らねぇな。本人が何か言ったのか?」
「毛利先生とちょっとお話をしていたのですが、彼に何か言いたそうな印象を受けたので」
戸にかけた手を自然と落としてしまうほど小十郎は純粋に驚いた。
司書の元就とは何度か言葉を交わしたことはあるが、接点らしい接点は今までない。彼から政宗の話題を聞いたこともなかったし、何度か政宗が小十郎に司書の素性を尋ねてきた事があっただけだ。
生徒が図書室に行くくらい何の問題も無かったし、司書に話があっても別にどうということはない。
しかし、光秀の言い方が妙に気に掛かった。
時折虚言めいた口振りをするから信じられない気持ちもあるが、こういう話をする時の光秀は意外と真剣だったりする。
小十郎は探るように、長い前髪で隠れ気味の色素の薄い瞳をじっと見下ろした。
「そういえば真田君が随分と心配していましたが、大丈夫だったのでしょうか。自分のせいだとちょっと涙目でしたねぇ」
「あ、ああ、やっぱり保健室の前でちょろちょろしていたのは真田だったのか」
視線が合うと光秀はにこりと笑み、再び自分のマグカップに向かう。
唐突な話題の切り替えに何らかの違和感を覚えたものの、小十郎はやはりと少しだけ安心したように息を吐き出した。
どうしても贔屓目で見てしまう自分以外に、彼らの間柄を示してもらえるだけで随分と不安が軽くなる。最早癖になりつつあることを気にはしているが、それでも家族とも疎遠となっていたあの頃の政宗に友達ができた事は小十郎にとって大変喜ばしいことだった。
非行に走っていた頃の政宗が付き合っていたような、利害の一致だけの存在ではない。片目を失くしているというだけで差別をしてきた相手ではない。
幸村と出会ってから徐々に自分を曝け出せていった政宗には、もう沢山の友人がいる。
その事実が単純に嬉しいのだ。
――ああ、本当にヴァイオリンさえなければ。
思わない日が少なくはなかったが、けれどもやはり考えてしまう。
幸村が奏者でなければ。いや、せめて同じ楽器を扱っていなければ――政宗の憂鬱も小十郎の抱える悩みも、全てなかったはずだ。
単なる身勝手なエゴが湧き上るたびに、情け無い思考に反吐が出そうになる。
ヴァイオリニストの幸村が存在しなければ二人は知り合うはずもなかったのだというのに、大事な生徒の一人でもある彼を押し退けて政宗を立てようとする自分が怖い。染み付いた守役の習性なのか、身内贔屓なのか。どちらにせよ、向ける矛先は違う。光秀に当たるのも、幸村に願望を押し付けるのも、単に自分が目の前の苦境から逃げたいだけなのだ。
道を歩いているのは政宗で、それを助けるのが役目。横から勝手に手出しするのは誰であっても許されない。
同じように、身勝手な私欲で他人の道を妨害するのもあってはいけないのだ。
「……俺は教職に向かねぇな」
「おや、今更気付かれたのですか?」
浮かんでは消える暗い感情にうんざりして、思わず零した。
耳聡く聞き付けた光秀が面白そうに目を輝かせたものだから、今度こそ小十郎は天外魔境の住む部屋から出て行ってやった。
夕焼けが窓辺に映り込み、部活中の子供達の声が聞こえてくる。
時計を不意に見上げてみれば放課後になってから随分と時が過ぎていた。
小十郎は軽く肩を解し、目の前のプリントを整えると周りに挨拶をして席を立つ。予定表が書かれた黒板をチェックしながらロッカーへと向かい、スーツの上着と鞄を引っ張り出して職員室を出て行った。
今晩の夕食は何を作ろうかと考えながら靴を履き替えて、職員玄関を抜ける。
外に出た瞬間、むっとした湿気混じりの風が肌に触れて不快になったが、車まではもうすぐだ。色付いた空を見上げながら、少し遠くから聞こえてくる生徒達の挨拶に手を上げて駐車場へと近付いていく。
鍵を探そうと内ポケットへ手をかけようとした時、携帯電話が震えた。
こんな時間に誰だろうかと液晶画面を覗き見れば、政宗の名が羅列されている。
用事があればメールで済ませるはずの彼から、奇妙な時間帯の電話。不思議に思いつつもとりあえず通話ボタンを押した。
はい、と差し当たりの無い声で出てみれば、雑踏のような音がまず聞こえる。駅前か繁華街にいるのだろうか。人のざわめきや人工的な雑音が断続的に耳に入った。
それから――誰かの、泣き声。
嗚咽を耐えるような弱々しいそれが、小さく小さく小十郎の鼓膜を震わせる。
ぎくりと背筋を強張らせたが、すぐにそれも治まる。
電話口に政宗の声が返ってきたのだ。
「政宗様! 何処にいる、というか一体誰といるのです」
しっかりと聞かれてしまったことに政宗はしどろもどろであったが、心なしか困っているというよりも後悔を滲ませているような声音で小十郎に迎えに来てくれという旨を告げた。
確かにこれから帰宅する予定ではあったが急な話だ。
詳細を問おうと口を開くものの、なるべく早く来いというだけで政宗は切ってしまう。
直前、政宗が泣いている誰かに声をかけているのが微かに聞こえた。必死に宥めようとする声が、逆に泣き出しそうなほど震えていた気がした。
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(2009/6/05〜6/14、7/31)
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