震えるが謳う


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 放課後になり、政宗は元親との待ち合わせのため昇降口を出てすぐ脇の壁へと寄り掛かっていた。
 いつもであれば毎日持っているヴァイオリンケースも、小十郎からしばらく控えるようにと言われてからは持つ日と持たない日がまちまちになった。特に今日みたいな体育などの教室を離れる教科がある時は家に置いてくることが多い。
 疎らな教科書とノート、文具くらいしか入っていない平べったい鞄を肩にぶら下げて昇降口に立つ姿は歳相応の高校生にしか見えず、音楽界で期待されているヴァイオリニストだというのが嘘のようだった。
 そんな自分を考えて、僅かに苦笑する。
 元親が発散させたいと思うのも無理はないだろう。こんな時でさえヴァイオリン、ヴァイオリンだ。好きなように学校生活を楽しんでいる元親から見ればいっそ病的でもある。
 今できる高校生らしいことは今のうちにしかできないのだから沢山経験した方がいい、というのが元親の常の言い分だ。友達もいなければ趣味もない――ヴァイオリンは最早趣味の域を超えてしまっている――政宗を色々な場所へ誘うのは自分の役目だと言わんばかりに世話を焼いてくるのは、彼が元来兄貴肌であるということも関係しているだろうが。
 最も仲が良いというのならば幸村だが、もしかするとこの高校生活で考えれば一番つるんだことがあるのは元親なのかもしれない。
 今日のカラオケの件もそうだ。
 友達と娯楽施設に行くなんてこと事態、政宗は殆ど経験したことがなかった。元々幼い頃から楽器一筋だったし、実家が格式ある旧家であるからなのか学校に上がるまで勉学は家庭教師に習っていたため交友関係は驚くほど狭かった。母親との諍いで非行に走っていた頃だって政宗は常に一匹狼だった。誰かと遊びに行くという発想さえなかった。
 そんな男が今ではこうも簡単に誘われて、そしてそれを楽しみにしているだなんて。

「笑っちまうぜ……」

 自然に弛む頬を摩りながら、政宗は待ち人の姿がないか視線を廻らせて見る。
 ホームルームが始まる直前に顔を出した元親は、彼の舎弟達と先に集まってからここへ来ると言っていた。別々に集まられては先に待っているだろう政宗に気を使わせるという彼の気遣いである。
 あまり細かい気配りが出来る男ではないというのに、不器用ながら配慮をしてくる元親にはやはりいつか礼を言わなければならないだろう。
 そうやってぼんやりと考えつつ、辺りに目ぼしい人影が無いのを確認した政宗は不意に顔を上げた。
 昇降口前の広場を囲むように校舎が配置されているため、各棟の窓はここからでも見て取れる。その一つにいつもであれば政宗が入り浸っている第二音楽室の窓もあって、暫くあそこに近付いていないことを思い出すとどうしても目がいった。
 風で揺れるカーテンの奥からは第一音楽室で練習しているだろう、吹奏楽部の音合わせが軽やかに届く。一年生だろうか、どことなくぎこちない音色。
 それを今、自分はどんな気分で耳にしているのか。
 思わず振り切るように身体ごと視線を外した政宗は、慌しく駆けてくる足音に気付いて顔を上げた。
 幸村だ。

「ああ、よかった! まだ政宗殿だけか。俺はてっきり待たせてしまったものかと」
「十分俺を待たせているだろうが」

 皮肉気に言ってやると焦ったように謝罪してくるのが面白く、申し訳無さそうにする幸村の頭を「冗談だ」と言いながら政宗はがしがしと撫でてやった。
 同じクラスなのにホームルームが終わった後何処をほっつき歩いていたのか分からないが、どうせまた担任辺りに頼まれ事をされて生真面目に引き受けてきたとかそういう類の用事があったのだろう。
 先日大量のプリントを運んでいた幸村の姿を思い返し、政宗はくつりと口の端をつり上げた。
 相手の機嫌を損ねてはいないことがはっきりと分かり、幸村も安堵したように吐息を漏らす。
 それから政宗と同じように壁に寄り掛かると、下校していく生徒を横目にしながら幸村は問いかけた。

「そういえば怪我は? もう冷やされずともよいのですか?」
「平気だ。氷のっけたまま街に出るのも格好がつかねぇしな」

 まだ不安げにしている幸村に笑いかけて見せると、彼は強張っていた顔をようやく少しだけ緩めてくれた。気にしすぎだと思うものの、そういえばあれほどうろたえた幸村も実のところ初めて見たかもしれないと不意に思い返す。
 舞台上ではあんなに威風堂々たる演奏をこなしてみせるというのに、と考えて政宗は慌ててそれを振り払った。

「なあ幸村。誘っておいてなんだが、本当に大丈夫なのか。お前いつも真っ直ぐ帰るだろ? 門限とかあるんじゃないのか?」

 浮かんだ思考を紛らわすべく、差し当たりの会話を続ける。
 唯一の友達である幸村も政宗と似たようなものらしく、外で友人と遊んだという話は聞かなかった。
 そもそも、学校帰りに寄り道するという行為すら滅多にしない今時珍しい真面目腐った奴だから、校則に書かれている事項を逐一守っているという可能性も脳裏を掠めた。

 だから今回幸村を誘ったのも駄目元だったのだ。
 今日は特別に授業時間が短い日というわけでもなく、常と同じくきっちりと六限目までこなした後での放課後だ。今から駅前に行って二、三時間も過ごしてしまえば、あっという間に夜の時間と相成る。
 さほど栄えているわけではない学校近くの駅前も、暗くなればそれなりに繁華街として煌びやかとなる。そういった場所にいつまでもうろつくわけにはいかないなんて 、固いことを言い出しそうだという予想は何となしにつけていた。
 けれども、政宗が頭に思い浮かべる友人というのは前述してきたとおりに幸村くらいしかいないのである。
 元親に言われたように人付き合いに心細さを感じて誘ったわけでは断じて無い――いや、少しばかりはある。政宗自身認めたくはないのだが、普通の高校生としての過ごし方がいまいち分からないからこそ同級生達と行動を共にする時の不安感は、学校外であればあるほど強かった――が、“友達と楽しい時間を共有する”という元親の持論のように、政宗は幸村と普通の友達としての付き合いをしてみたいという気持ちがあった。
 ヴァイオリンから距離を取るためと言えば、これでは本末転倒だろう。
 それでも政宗にとって、幸村は親友であるのだ。
 ヴァイオリンのライバルと認識するよりも前に、彼は掛け替えのない友達だった。出会いが出会いではあったけれどもそれは趣味の共通という普通の交友関係の発展から生まれたものであって、端から対立を生んだわけではない。
 何より幸村の方は、一片たりとも政宗を苦々しい気持ちで見たことなんてないだろう。
 それは幸村が自分などとは比べ物にならない天才だから、と妬む暗い感情があるけれども、彼の真っ直ぐとした性根を知っているからたとえ政宗が幸村を超えた演奏をしてみせたとしても彼は喜ぶばかりで怒りはしないのだろうと簡単に想像がついた。
 部活の試合で負けたとか、テストの点数が政宗と僅差で下だった時だとか、平凡な部分では素直に拗ねる時だってあるというのに、音楽に対しては悔しがっているところなんて一度たりとも見たことがなかった。
 幸村は優劣を感じるよりも前に、純粋に音楽という文化を愛しているのだろう。故に彼の指先には女神の寵愛を受けたのかもしれない。
 ――だから、政宗は少しだけ惨めになる。
 彼の心地良い部分にさえ嫉妬にも似た心が芽生える自分が、何と矮小なことか。
 淡い恋心を向けているあの人のことを含めずとも、どうして幸村ばかり、なんて頑是無い言葉が不意に浮かんでくるのだから馬鹿馬鹿しくて仕方が無い。少なくともそうした考え方に対して自分は既に一度答えを出しているため、くだらないと感傷を思いながらも一蹴できた。
 それにも関らずにこうも幾度となくお互いを比べてしまいそうになるのが、何とも稚拙だと苦々しく感じていた。
 大人びた価値観と成長しきっていない感情面のずれが歯痒くなるのは誰しも直面する道であったが、政宗の場合はその対象が明確に隣にあったものだから完全に意識を他へと向けることは難しいため、尚更そのジレンマに焦らされるのだろう。

 そうやって堂々巡りの思いを密かに廻らせていた政宗に対して、幸村は一瞬不思議そうな顔をしたものの、いいえ、とはにかむように笑んだ。

「門限はありませぬ。帰宅しても誰もいないですし」
「あ……そう、だったのか……」

 はい、とゆったりと微笑む親友の横顔に、ばつの悪さを感じて政宗は視線を隣から外した。
 まただと思う。
 自分は幸村の事を思っている以上に、何も知らない。
 家庭事情も含めて、普段幸村が家で何をしているのか、休日は何処へ出かけたとかそういった友人同士で交わされるはずの話さえ聞き覚えがなかった。
 帰宅しても一人ということは両親が共働きなのだろうか。流石に一人暮らしというわけではないだろうが、実際のところは言い切れない。
 そうだ、ヴァイオリンの練習だっていつ何処でしているのかも彼は口にしたことが無いのだ。

「けれど心配をかけますから、それほど遅くになるわけには」
「そりゃ分かっている。俺だって似たようなもんだぜ?」

 困ったように首を傾けた幸村に、一瞬だけ浮かんだ緊張感はあっという間に薄れて苦笑が滲む。
 政宗の場合、片倉家に転がり込んでいる状態のため保護者同然である小十郎にはどうしたって頭が上がらない部分がある。しかも相手が見た目とは裏腹に一応は音楽の師であるとも言えるのだからこの関係は覆らずいた。
 故に夜遅くまで外をうろついている元親との付き合いは、実のところ少々苦々しく思われているらしい。
 教育係としての性根がどうも抜けない上に、小十郎は曲がりなりにも教職である。何かと口煩くなるのも自然なことだろう。
 それを鬱陶しく思っていた時期はもう通り越しているため、政宗は説教に対しても反抗心よりある種の安堵感を覚えてしまっている。だからこそのこの笑みであった。

「それは元親も分かっているからな。あいつらはあいつらでどうせ二次会だろうし、別に気を張らなくていいんじゃねえの?」

 元親のさり気無い気遣いを思い返し、政宗は告げた。
 すると幸村はほんの少しだけ目を細めて、寂しそうにはにかんだ。
 思わぬ表情に政宗の反応が遅れる。問い返そうとした時にはすぐにそれは引っ込められて、幸村は校舎の方へと視線を逸らしていた。

「……幸村?」

 ごく自然な動作だった。
 だけどそれは、まるで――踏み込んでくれるな、という壁のように感じてしまったのは気のせいだったのだろうか。
 似たような感覚を政宗は以前にも覚えたことが不意に蘇る。だが、それがいつだったのかまでは思い出せずに歯痒くなった。
 二の句を告げられずに微妙な空白の時間が続く。
 先程まで友人として普通の会話をしていたはずなのに、何が悪かったのだろう。
 幸村の触れてはならぬところにいつの間にか触れてしまっていたのだろうかと、急激な不安感がふつふつと湧き上る。
 ――それとも。
 自分の中に存在する、この醜い劣等感を見抜かれてしまったのだろうか。
 身の置き所に困惑して縮こまっていく心を感じつつ、政宗もまた幸村を直視することはできずについ目を逸らしてしまう。
 それでも彼が何を考えているのか少しだけでも知ってみたいと浅ましく望んでいるらしい己の隻眼は、友の見ている世界をそっと横目で眺めようとした。

 すぐに、見なければよかったと後悔したのだけれど。

 二人が立つ場所をぐるりと囲む校舎からは相変わらず吹奏楽部の演奏が途切れ途切れに響いていたが、幸村は音楽室になど目もくれずにただ一箇所をじっと見上げていた。
 一瞬あれは何処の教室だったかと考えた政宗は、自然と強張る背筋の感触を鮮明に感じ取った。戦慄きそうになる喉元を堪えながら、嫌な汗が少しだけこめかみを濡らす。
 花が、見えた。
 くたりと力なく頭を落とした枯れかけの花が、花瓶の中で頼りなく揺れている。
 それが一体何なのか政宗はよく知っている。そして飾られている特別教室が何処なのか、数日前に訪れたばかりの彼が忘れているはずもないのだ。
 思わず叫びそうになった言葉を必死で飲み下すのは幸村への気遣いなのか、浅ましい防衛本能だったのか。
 顔を歪めてしまった己の様子にちらりとも気付かない隣の少年に苛立ちと安堵を同時に覚え、そうして立ち上る自己嫌悪に一人政宗は俯いてしまう。
 やはり思い違いではなかった。
 幸村は萎れかけた花を見ているわけではない。きっと今日もその部屋で仕事をしているだろう彼の人を思い出し、気に掛かっているからこそあの寂しげな窓辺を見上げているに決まっている。
 もしかするとあの人が顔を出すかもしれないなどと淡い期待を抱いたことがある政宗であったが、今はその空想が現実になったのならば彼が先に気付くのははたしてどちらだろうかと考えてしまうと知らずの内に足元が震えそうになった。
 あの舞台上で突き付けられた二人の関係が脳裏に過ぎってしまい、政宗は慌てて顔を別の方向へと逸らす。
 視界の端に少しでも図書室の窓が映らないようにと、まるで身の置き所が分からずに縮こまる幼子のような焦燥が彼の横顔に苦吟を浮かばせていたが、それを知っていたのは昇降口から吹き抜けていく温い風ばかりであった。

「ようっお二人さん!」

 明るい声音に呼びかけられ、政宗と幸村は揃って肩を跳ねた。
 放課後の昇降口である。知り合いがいつ通ったっておかしくはないのだが、待ち合わせをしている二人は待ち人以外の人間の存在をつい失念してしまっていた。
 わだかまる空気を押し流す風のように、はきはきとした声で挨拶を交わそうとしてきたのは元親と同じクラスの前田慶次であった。
 元親を間に挟んで交流を持っている相手ではあったが、こうやって進んで言葉を交わし合うような仲ではないため政宗はほんの少しばかり怪訝に思う。それでもとりあえず手を上げて返事をしてやると、慶次は嬉しそうに笑って近付いてきた。

「元親、まだ来てないの?」
「まだ……ってお前も誘われた口か?」
「勿論!」

 白い歯を見せてにかりと笑った慶次は、捲くし立てるように口を動かして聞いてもいないのに元親に誘われた経緯を話し出した。
 いい奴だとは思うのだが、このテンションの高さについていけないと普段からげんなりしている政宗である。だが幸村の間にあった微妙な空気を一片に取り払ってくれたことには感謝したい気分だ。
 いつもならば少々おざなりな相槌ばかりを打ってしまいがちであったが、今すぐ幸村に話を振るなんて器用な真似など出来る筈が無いので自然と喋る慶次へと視線が向いてしまった。
 少し後ろにいる幸村も同じように慶次の話を聞いている様子を背中で感じながら、緊張が緩和していく。

「お、噂をすれば元親達だ。おぉーい!」
「うっせぇぞ慶次! んな大声で呼ばなくても分かってらぁ!」

 一人で騒がしくしていた慶次の調子に巻き込まれて文句もいうことができないまま、待ち人が現れた。元親は案の定仲間達をぞろぞろと引き連れていて、慶次が呼ばずとも一目で分かる集団となっていた。
 こうして集まった人数を考えるとやはりほんの少しばかりは尻込みしてしまう政宗だったが、一応知らない顔ぶれはいないため内心安堵する。とはいっても同じ組になったことのある者以外は元親を仲介して何度か喋ったという程度の付き合いしかないのだが、向こうは慕っている兄貴分の友人という確固たる枠組みに政宗を列挙しているらしく結構親しげに話しかけてくれるため共にいて苦というわけでもないだろう。
 ふっと吐息を漏らした政宗だったが、そうして自分の中の身構えが終わると今度は場の雰囲気が盛り上がる中で逆に大人しくなってしまった幸村の事が気掛かりになる。
 思わず振り向きかけると、既に幸村も元親達の方を向いていた。ようやく覗き見ることの叶った横顔は平素と何も変わらず、小突き合う元親と慶次を微笑ましげに眺めている。政宗よりも僅かに緊張しているのが伝わってきたが面に出す様子はなく、ようやく全員集まって移動を始めた集団から一歩下がった位置に付いて歩き出した。
 大人数で行動するとなるとどうしても雑談を交わす面子は特定の相手になりがちだ。誘った手前もあり、元親や彼の舎弟達と軽く言葉を交わしつつも政宗は幸村の隣を陣取り続けた。
 先程までどんな顔をすればよかったのかも分からなかったというのに、何て滑稽だ。
 街へと繰り出す少年達の喧騒の中、政宗は誰にも気取られることなく失笑を浮かべるのだった。

 やがて校舎が見えなくなり、車が多く行き交う通りへと出た。アスファルトとガードレールの続く道を騒ぎながら歩いていく。
 そういえばこの間も、この道筋を幸村と少し気まずげに歩いたのだと政宗は思い出す。
 隣の幸村はといえば最初はいつもの調子で政宗と話していたのだが、二人で喋っている間にも幾度か元親達に話を振られて困りつつも律儀に返事をする政宗に対して申し訳なく思ったのか、にこにこと笑って場の空気を眺めているだけに留まり、話題を振らなくては口を開かなくなっていた。
 それをやきもきしていた政宗であったが、取り繕うように声をかけたって意味が無いのは分かりきっている。
 先日の帰り道と重なって、ただどうすればいいのかという困惑ばかりが募った。
 そんな二人の不自然に途切れた会話に気付いたのか、飄々と元親や友人達の間を行ったり来たりしながら喋っていた慶次が歩みを緩めて幸村の側へとやってきた。

「そういえば幸村、今日は自転車じゃなかったのかい?」
「あ、いえ、昼休みに話を聞きましたので学校に置いてきました」
「あれ、休日に朝練あるんじゃない?」
「明日は他の部活の交流試合があるとかでお休みでござる。午後にでも取りに来れば大丈夫だと、先生に許可頂いておりますから平気です」

 焦燥感さえ込み上げてきていた政宗の横で、あっさりと幸村に話しかけた慶次は身構えたところもなく至極自然な口調で次々と話を盛り上げていく。
 それ自体は不思議でも何でもない。
 大概の人間と親しくなれる慶次の人柄は、誰に対しても――彼が嫌う人間性を持つ者であったら無論別問題ではあるが――心の間口が広く開け放たれているようで、元親とは違った部分で交流関係の多さには目を瞠るものがある。
 慶次の柔軟性に対して馴れ馴れしいと苦手意識を持つのが政宗であったが、幸村はそう思っていないようだ。
 初対面ではないのは確かだが、学校内で二人が話している場面は殆ど見覚えないため意外と弾んでいる会話に少々面食らう。

 隣で二人の会話に耳を傾けていると、幸村が昇降口に現れるのが少しばかり遅かった理由が部活のことだったのかと分かったが、何だか政宗は自分の機嫌がほんの少しばかり傾いていくことを肌で感じてしまい噤んでいた口元に自然と力が篭ってしまった。
 元親達と何度かやり取りしていた言葉も少なくなり、幸村も慶次の方を向いてしまったので政宗は一人で黙々と歩くしかなくなる。
 しかし賑やかな一行の中では喧騒に掻き消されているものの、すぐ隣から聞こえてくる二人の会話は嫌でも耳に入った。

「俺、幸村が来るらしいって聞いてたから実は結構楽しみにしていたんだ! いつもすぐ帰っちゃうか部活だから、誘い難くてさー」

 本当に楽しげにそう話した慶次に、政宗は思わず幸村達からめを逸らしてしまった。
 元親にもう一人連れて行きたいと言ったが、どうせ政宗が誘うのは幸村だろうと向こうは予想がついていたらしい。自分の交友関係を知っていれば当たり前の想像だったし、見事に的中したのだから別に文句などがあるはずもない。
 しかし、どうして慶次が幸村と遊ぶことがそんなに楽しみなのかが分からずに自然と眉間に皺が寄っていきそうになった。

 慶次は部活に無所属であるが、持ち前の愛想の良さと交友関係の広さと運動神経を買われてなのかやたらと運動部に引っ張りだこにされていると元親から聞いている。部活動に興味の無い政宗であるが、校庭で部員に混じっている慶次の姿を見かけたことは一度や二度ではなかった。
 自分と同じように元親を挟んで慶次と話したことのあった幸村は、元来の人懐っこさも手伝ってそういった場にて親しくなったのだろうと予想がつく。相手の様子から察するに、随分と気に入られているらしい。

 ――別に、誰が誰を好こうが構いはしない。
 常ならばそうは思うのだが、円滑に朗らかな会話を続ける二人に対して自分自身が何を感じているのか気付いてしまった政宗には、渦巻く胸中にその一言を蹴り込んだって効果がなかった。
 様々な感情がぐらぐらと脳裏を揺さぶるが、きっと今一番幅を取っているのは小さな疎外感だ。
 それは先程、昇降口で幸村と二人っきりの時に感じていたものとよく似ていた。

「そういやヴァイオリン、まだ弾いているんだろ?」

 微かに瞼を伏せていた政宗だったが、聞き慣れた単語に自然と顔がそちらを向いてしまう。
 単純な驚きだった。
 学校にまで楽器を持ってきている政宗がヴァイオリニストだというのは周知の事実であったから、こうした類の質問には慣れている。勿論今では同級生達にとっては馴染みのある光景となっているので、最近でこんな風に尋ねてくるのは事情を知らなかったり音楽に興味を持っていたりする連中くらいだ。
 だから浅い付き合いであってもそれなりに知っている仲である慶次に言われる筋合いはない。
 しかし彼は今、幸村と喋っているのだ。

「また今度あそこで弾いてくれよ。結構皆楽しみにしてたみたいでさ、俺と同じ学校だってうっかり零してからは時々訊かれるんだよ」
「光栄でござる。今度時間が取れたらお伺い致すと伝えて下され」
「じゃあ約束な!」

 呆然としたまま歩き続けることしかできない政宗を余所に、二人は何てことなく極々ありふれた会話を続けた。
 やけに断定的にヴァイオリンについて尋ねた慶次の口調から予測はしていたが、彼は幸村の音色を直に耳にしたことがあるらしい。
 でなければ、学校内で一度たりとも自分がヴァイオリニストだと公言したことのないはず幸村が奏者であることを知る由もないだろう。
 普段の行動と所属部活も考慮したって、まず大抵の人間は幸村が芸術方面に秀でているなど可能性すら浮かばないのだ。
 元親の口から周りにばらされるまでは政宗も幸村以外とは音楽の話をしなかったし、見た目がどうしても話しかけ易いタイプではないので政宗も初対面の際には驚かれる場合が多いが、図書室で本を借りるなど見るところを見ていれば何となく分かると思う。
 しかし幸村にはそれが全くない。
 通学方法や部活動など理由を考えてみれば様々に浮かぶものの、鞄の中から音楽に関する物が出てきたことさえ一度もなかった。生徒達が誰かしらヘッドホンを身に付けているのが日常的風景であるなかで、幸村がそういった類の物を持ち込んでいる姿さえも見たことがないのだ。
 真面目であるから勉学に関係しない物は持ってこない主義なのかと思っていたが、最近では故意に隠しているのではという疑問を少なからず感じていた。

 政宗が教室でその手の話題を吹っ掛ければ受け答えを返すが、自分から進んですることもなかった。
 音楽だけではなく幸村自身についてもそれは同様だ。
 元親や慶次のように他人へ直球で挑みかかるのが元々不得意である政宗にはそのくらいの距離が丁度良く――徐々に幸村との才能の格差を感じ取ってしまったからこその距離間でもあったが――だからこそ、強く聞き出したいという欲求は擡げてこなかった。
 ここのところ続け様に起こっている一連の出来事がなければ、もしかすると政宗は幸村のことをあまりにも知らなさ過ぎるという現実に突き当たらなかったのかもしれない。
 人間関係に淡白であるくせに、ある一点で酷く臆病な自らの性質を本当の意味で理解できないままであったのかもしれない。

(俺……悔しいのか)

 会話に入れない居心地の悪さは明確なまでの息苦しさへと変貌して、政宗の喉を細らせていく。
 女や餓鬼じゃあるまいし、と湧き立つ自己嫌悪を辛うじて噛み殺して必死で唇を閉ざすのが精一杯だった。
 慶次に覚えた劣等感はくだらないまでの幼い嫉妬で、この歳にもなって今更そんなみっともない感情が沸き上がった己の胸に自嘲さえ浮かぶ。
 身勝手な感傷は、一層自分自身を惨めにするばかりだ。

(幸村の事、知っているつもりで分からないことばかりだったのに、俺達の事情を何も知らないはずの慶次にこんな風に話をされて悔しいだなんて、マジで馬鹿じゃねぇか)

 自虐的なまでの嘲笑が滲んだのを目聡く盗み見たらしく、幸村が心配そうに政宗を呼んだ。
 しかし曖昧に口の端を歪めることしかできない。
 今口を開けば、愚かな衝動に駆られて場違いな罵倒が飛び出してしまいそうで怖かった。それはただ自らの混沌とした思いの丈をぶつけるだけの意味の無い一過性の台詞になるだろうが、絶対的な鋭さをもってして幸村を傷付けるのは分かりきったことだ。
 嬉しいと素直な態度を晒しているだけの慶次も、せめてもの気晴らしにと好意で場を提供してくれた元親も、彼らと共にいられることを楽しんでいる連れ達も、そしてその言葉を吐き捨ててしまった政宗をも道連れにして放たれた刃は冷たく突き刺さる。
 それが理解できないほど分別が付かないわけではないのだ。

「政宗殿? もしやまだ頭が痛いのでは」

 繰り返し呼び掛けてきた幸村には思い当たる節があったため、纏っていた和やかな空気を一変させて大きな瞳に悲痛な色を映す。
 別に幸村が怪我させたわけではないというのに、彼の中では責任感が強く残っているらしく再び泣きそうな顔付きになっていた。

「All rightって言っただろう。そんなに気にするなよ」
「でも、俺……」

 言い募ってくるので軽く手を振っていなす。こんなやり取りを午後から何度かしているからいい加減政宗も辟易していると分かっているのか、幸村は割とあっさり追求を止めた。
 慶次はといえばこのやり取りを奇妙なほど真剣に見届けた後、急におどけたような口調で幸村の肩を数度叩いた。

「大丈夫だって幸村。政宗も元親とよく似て神経図太いんだから病院の方が逃げるって」
「おいこら慶次! 何どさくさ紛れで俺の悪口言ってやがるんだ、あぁ!?」

 軽快な笑い声をたてて二人の間を通り過ぎていった慶次は、猛った元親のところへとじゃれるように飛び込んだ。
 駆け抜けていった名残の風がこの場所に広がっていた薄暗い何かを掻っ攫ってくれたのだと、政宗にも幸村にもはっきりと分かる。
 小突き合いながら馬鹿騒ぎをする前方の集団を唖然と眺めていた二人の少年は、いつの間にかお互いの目を合わせて困ったように笑っていた。
 良い意味でも悪い意味でも、場の空気を動かせるのが慶次の長所たる所以か。本当に風のような男である。
 幸村と笑い合えたことでゆっくりとだが気持ちがマイナス思考から引き上げられてきたように思えた。

 そろそろ駅前に着く頃だ。
 本来ならしがらみから少しでも解放できる期待を持って政宗は参加を決めたのだから、いい加減こんな根暗な感情ばかりに振り回されていても本末転倒だろう。
 気持ちを入れ替えるように深呼吸して、一層激しさを増した辺りの喧騒を見回しながら前を向いた。



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(2010/10/25〜2011/05/19)


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