震える弦が謳う歌
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こうして一部の者にとってはとても長い移動時間はようやく過ぎ去り、男子生徒の一行は活気に満ちた駅前通りへと歩いていく。
政宗や幸村にはとんと縁がなかった娯楽施設の看板が目に入り、元親達が慣れた様子で自動ドアを潜っていった。受付は思ったより狭くて、十人弱といったそれなりの人数が入るとそれだけでもうカウンターはいっぱいとなる。むさ苦しいことこの上ない。
一人だけで手続きをすればよいのにと思いつつも、こういった場所での手順を何も知らない政宗は普通こうするものなのかと苦笑して、済んだら声をかけろと元親へ告げるとそのまま外で待つことにした。
普段は入らない横道にあったこの駅ビルをしげしげと見上げていた政宗だったが、同じように店内には入らず佇む幸村の存在に気付いて自然とそちらに目が向いた。
がやがやと騒がしく受付をしに向かっている一行の後ろ姿をぼんやりと見つめている幸村の横顔は、心なしか色をなくしているように思える。血色の良い健康良児そのものであるはずの彼がまさか、と一蹴しかけるものの、ここに来るまでの道中の彼を思い出して微かな不安が生まれる。
何となく、いつもより元気がないように感じてはいた。
けれどそれは学校での一件からの政宗への罪悪感か、初めて大勢で放課後に出かけたことへの緊張などといった様々な要素が重なったためだ。
或いは政宗の中のわだかまりが、幸村をそう映しているのか。
どうも浮き上がってくれない感情が透けて見えて、幸村には元気がないように見えているのではないだろうか。具合が悪化したのではと問われたことから、強ち後者の方が正解かもしれない。
お互いに気遣い合っているというのに、それが逆効果なのだと思うと言いようのないジレンマが掻き立てられる。
実際、噛み合わなくなってきたのは何も今始まったことではないだろう。
幸村は何一つ変わっていないはずだ。
それは政宗も同じであるはずなのに、コンサートのあの日から少しずつずれはじめている気がしてならない。
誰のせいでもないのは分かっているがこの間から感じている微かな違和感は、きっと幸村も同じように察しているに違いない。
だからこそ二人は変わらぬ毎日を過ごしていながら、不意にぎこちなくなる。自然体でいるはずなのに、唐突に演技を強いられているかの如く窮屈になるのだ。
再び眉を寄せそうになっていた政宗ははしゃいだ声に呼ばれ顔を上げた。
慌てて返事をすると、同じように目を瞬かせていつもの表情に戻った幸村の肩を軽く叩く。誘ったのは政宗なのだから、自分と同じく未知の空間に戸惑っている彼を促してやるのは当然の事だ。
そのまま一言、行こうぜ、とだけ告げた。
寸前まで考えていたあの窮屈さを覚えながらも、自分の不安感を無理やり抑え込んだ。この場でどうこうできる問題ではないのは重々承知しているから、今はとにかくこの堂々巡りを止めるためにも歌でも歌って発散すべきだろう。
意を決した様子で幸村は恐々と頷く。
二人は連れだって建物の中へと入って、先にエレベーターホールへと向かった友人達を追うのだった。
借りた部屋をしげしげと見回した政宗の行動の意味を正しく理解できたのは、恐らく誘ってきた元親だけだと思われる。
先程までの俯きがちな気持ちはまだ彼の中で燻っていたのだが、初めて見る施設にある程度沸き立つ情感くらいは存在する。
幸村も初めてだから自分と同じような行動に出ているかも、と見守るようにこちらを見ている元親の視線がむず痒くなって、無難な理由を付けて顔を逸らしてみた。
部屋に入る際に遠慮して最後に足を踏み入れてきた幸村は、ソファーの端っこで身を縮こめていた。
席順を決める時になるべく近くになった方がよいとは思っていたのだが、すぐ真横に座ることに政宗は少しばかり躊躇してしまった。それを気遣ったのか、はたまた全く持って気づかなかったのかは判断が付かなかったが慶次が陽気にさっさと幸村と政宗の間と決めてしまったため、人一人分離れた位置に二人は座っている。
ちなみに政宗の隣は元親だった。彼の場合は政宗の隣に座ることに対する躊躇などあるはずもないので、誘った手前最初から隣ということを決めていたようだ。
コの字に曲がったソファーの角はちょうど画面の中央に当たるため、面子の中心人物である彼がこの席なのは定番らしく、周りの者達は慣れた様子であった。
こういうことが迷わずできる元親の態度は本当に尊敬に値すると思える。
それに比べての己を省み、政宗は再び幸村に対する微妙な気持ちが擡げそうだ。
だが、それもすぐさま薄れてしまう。
元親から逃げるように顔を横に向けて、窺い見た幸村の横顔はさっきよりもずっと陰っていた。いつも真っ直ぐに相手を見返してくるはずの双鉾は備え付けのテーブルに彷徨かせるばかりで、一層落ち着きを無くしている。
やはり具合が悪いのだろうかと身を屈めて幸村の顔をよくよく見てみようとすれば、今度は自分の頭がずきりと鈍痛を響かせて政宗は思わず奥歯を噛みしめてしまった。
あのやぶ医者めなどと心の奥で悪態を付き、無理な体勢から状態を起こして一端背もたれに重心をかける。
冷えて鎮静していた痛みを思い出してしまうとどうしても気になってしまうため、しばらくは大人しくしてなくてはならないだろう。ぶり返していると知れたら、折角終わった話になっていたというのにまた幸村が気に病んでしまう。
メニュー表を睨んで話している連中には二人の些細な異変を感づく者はいなかったが、壁に取り付けられた内線電話番の役目を任命されて待機していた慶次だけは、微かに心配そうな眼差しで自分の隣に座る同級生を交互に見比べていた。
「おら、政宗! んな固まっていないでさっさと決めろよ」
得意の悪態をつくわけでもなく黙り込んでしまっている政宗の背中を勢いよく叩き、元親は回ってきたメニュー表を差し出した。
唐突な衝撃に思わず咽るものの、緊張を和らげようとする彼なりのやり方だろうことは分かったのは元親が背中を叩いた腕をそのまま肩に回して耳元に顔を寄せてきたからだ。
「あんまり背負い込むなよ。今日は折角の気晴らしなんだからよ」
はしゃいでいた声はなりを潜めて、低く真面目な小声がそう囁いた。
そういえば、元就の前から逃げ出した時に元親が側にいたことを今更ながら思い出す。あの時の己はよほど酷い顔をしていたに違いない。
ヴァイオリンの不調の件、幸村との関係、そして元就へ向けている恋心について元親は全く知らないはずだ。それでも、一応年長者だからだろうか、一本気の通った不器用な男は妙なところで機敏に聡い。今日だって元親は誘うためにわざわざ教室で待っていたのだから、政宗の“疲れ”というものをもっと前から勘付いていたのかもしれない。
昼休みを思い出すと、少し遠のいていた痛みが再び鈍く響き出す。
――そういえば。
元就は何をあんなに激昂していたのだろうか。
その後の光秀とのやり取りの方に意識が傾き、くだらない嫉妬が擡げた自分に落胆してばかりいたから深く考えなかった。
あの癖のある保険医に苛立つ気持ちは、治療のために訪れた政宗にだって分かる。物静かな印象を受ける元就であるが、自分のペースを乱す相手には容赦しない。元親に対する態度を思えば一目瞭然だ。
怒ること事態は珍しくもないのだが、あれは――自分の内に生まれてしまった諦めと懐疑心へのせめてもの反発のような、悲痛な叫びだった気がする。
「政宗と幸村は何にするんだ?」
「あ、わりぃ……とりあえず、冷たいもんでいい」
「俺も政宗殿と同じで」
知らない間に内線電話をかけていたらしく、慶次に促されて慌てて政宗は返事をした。
その際に幸村も口を開いたことに内心ほっとして、政宗はそのまま椅子に深くもたれかかった。
政宗が会話の輪に入らずとも、てきぱきと元親達が今度は分厚い本とリモコンをたらい回しにしていた。それを何となしに見ていると電話を終えた慶次が設備について古臭いだのと苦笑して、元親もそれに乗じて笑い声を上げた。
そうこうしている内に一曲目のイントロが流れ出していった。
「ま、政宗殿。こういうのは、歌いたい方だけが歌えばいいのでしょう?」
「Why, そりゃそうだろ? でもまあ同じ金払っているなら歌った方がいいんじゃねえか。まあ俺は一曲ぐらいで勘弁願いたいけどな」
熱気が増してさらに盛り上がる面子の中で、時には声をかけたり話に加わってみたりしながら傍観する立場にいた政宗は、ストローばかりを加えていた幸村の方に顔を向けた。
先程から押し黙ってばかりいた幸村からようやく声をかけられて、今度こそ安堵を覚えた政宗はいつもと変わらない態度で接した。
隣の幸村はやはり具合が悪いようだが、あの癖のある時代がかった喋り方は案外しっかりしていて見た目よりは平気そうに思える。困った顔で騒いでいる元親達を眺めていた視線がこちらを向いて、居心地悪げに忙しなく腰をもぞもぞとさせていた。
一応歌うとは決めていた政宗ではあったが、あまり歌は得意ではなかったから今もマイクを握らずにその場の流れを見物しているばかりだった。
ヴァイオリニストが何を、と思われるかもしれないが、楽器で紡ぐ音と自分が自ら出す音というものは同じ基準で考えられないと政宗は感じている。
多分音痴ではないだろうけれど、音程と音階に完璧さを求めている耳をなまじ持ってしまっているから声が生み出す違和感にどうも慣れないのだ。
それを知っている幸村は、政宗に些細でも同意を示して貰えてやや肩から力を抜いた。
しかし今度は政宗が幸村に申し訳ないような気分となってしまった。やっぱり誘わない方が良かったかと、自分以上にこの場の空気に馴染めていない幸村が気掛かりになる。
「そんな顔なさらないで下され! 誘ってもらえたのは本当に嬉しかったし、皆とこんな風に遊ぶのも憧れておりましたから。……ただ」
「……ただ?」
はっきりと正面から顔を歪めてしまった政宗に驚いた声が上がる。
はきはきと喋る幸村の声がバックミュージックとマイク音で盛り上がる室内でも、すぐ隣の政宗にはきちんと届く。それがすぐさま語尾を弱めて俯かれ、先程と何ら変わらない陰っている横顔に隠されてしまった。
「幸村?」
「おう政宗! てめぇもそろそろ慣れてきただろ。歌ってみないか?」
答えに窮している幸村にどう話しかけようか迷っていた政宗は、曲が終わりに近付いていることに気付いて元親に振り向いた。
見れば元親の舎弟達もうんうん頷いて期待の眼差しを送ってきていた。
こうなっては逃げられないだろうし、誘ってくれた元親の手前断るのも悪いだろう。
「あんたなかなか良い声してるって評判だぜ。俺も聞きたいなー。幸村もそう思うだろ?」
「はい。俺も政宗殿の歌、一度お聞きしたかったです」
さり気無く会話に入り込んだ慶次の言葉に頷きながら、さっきまでの落ち込んだ雰囲気を晴らして幸村が笑った。
政宗を逡巡させていた原因にそう言われては悩む必要もない。
最初から歌おうと思っていたものをさっさと探し出し、元親にリモコンで入力してもらうと前の曲を歌い終わった同級生がマイクを差し出してくれた。
歌う間はもう画面しか見られない。
選曲は浮いた話が一つもない自分にとっては少々ハードルの高い切ない愛のバラードだ。歌詞を追わなければ恥ずかしさで眩暈がしそうなくらい、似合わないのは分かっている。
届きそうで届かない片恋を歌い上げながら、歌詞の中の男が呟くストレートな愛の言葉など絶対に自分には無理なのだろうと政宗は続く間奏の間で自嘲した。
――こんな風でしかあの人への想いを口にできない臆病者。
母親の愛情を失って何もかも世界は歪なものにしか見えなくなって周りを全て遠ざけたけれど、それでも音楽だけは捨てられなくて。
しがみ付くようにヴァイオリンを続けていたから、元就に巡り会えた。
幸村の音楽があったからこそ、元親という理解者がいたからこそ、小十郎という支え続けてくれている存在があるからこそ今の自分はここにいる。
だから今は。
止め処なく欲は溢れてしまうのだろうけれど、今だけは。
彼に伝わらなくても良い。その目が何処か違う場所を見つめていても構わない。言葉を交わし笑い合う、ただそれだけが続いてくれるのならば存外に満足してしまう己がいるのだから。
(ああ、だからなんだ)
薄暗い室内の風景から政宗の意識は飛び出し、流れる音色と唇から生まれる柔らかな歌声の中で、例の窓辺へ顔を出す元就の姿を幻視した。
この所の妙な燻り。幸村と接する距離が分からなくなっていたあの焦燥。
ジレンマを生み出していたのは政宗からだ。コンサートのあの日から、それ以前まで元就と過ごしていたはずの些細でいて幸福な時間を忘れてしまい、ヴァイオリニストのプライドと幸村の存在を間に差し込んでは繋がる事象の全てを先にフィルター越しで見ていた。
(小十郎の、今回は長いっつー意味を、今になってやっと理解できるなんざ。俺もまだまだだ)
理由は至極明確である。
以前ならばスランプになっても、元就と音楽の話をするだけで十分過ぎるほど下向きだった気持ちが急き立てられた。早く弾きたいと、純粋だった子供の頃のように煽られる。
政宗の想いを小十郎は知らないが、二日三日もあれば癇癪を起こして投げ飛ばした楽譜に一心不乱に書き込みするようになるのが常だったから、彼にとって政宗の落ち込む期間というものはその程度の時間なのだと認識されていたのだ。
元親の言葉は正しかった。歌うという行為はこれほどまでに心を軽くしてくれる。
白昼夢を見ていたような気分で、楽曲の余韻を耳に入れていた政宗は曲の終わりと共にマイクのスイッチを切って顔を上げた。
すっかり自分の世界と向き合ってしまっていたのだが、騒いで聞いていたはずの彼らがいつの間にか静まりかえっていて拙かったかと眉を落とす。
途端、大人しくしていた男子生徒達がわあわあとはしゃいだ声を上げて拍手の雨が降り注いだ。
「すっげぇな政宗! 思わず聞き惚れちまったぜ!」
珍しいものを聞けた一団は熱気に呑まれていたが、彼らの賛美を代表して元親が嬉しそうに語ってくれた。
政宗は呆れた風に肩を竦めて、「そりゃどうも」とだけ返して温くなった飲み物を口に含む。喉を潤す感覚に火照った体が少しでも冷めてくれるようにと願いつつ、ここが薄暗くて良かったと一息ついた。
納得のいく真実をようやく見出したような気分だったから、柄にもなく照れる頬の熱も実はあまり気にならない。
鞄に入ったままの教本は結局一度も開いていなかったのだけど、今では不思議とこの場所へ導いてくれたお守りのようにさえ思える。
早く帰しに行こう。
そうして彼に、元就に正面から会って話をしよう。
あの花について、幸村との関係、廊下での一件――そんなものは後回しにしたって構わなかったのだ。彼と過ごす放課後の図書室の一時が、何よりも大切だったのだから。
圧倒された空気は解かれ、また再び喧騒が室内に戻り出す。
政宗を促した手前、中途半端に席を立てなかったのだろう慶次は軽く言付けをして席を立って出ていく。こうも密集していると暑いので、何度かそうして何人かは出入りを繰り返していた。
「さあ次は誰が歌うんだ?」
「あれの次じゃあちょっと尻込みするよなぁ。あ、そうだ、真田もまだ歌ってないだろ? ほら折角なんだから一曲ぐらい歌ってけよ」
一層騒がしく楽しげな声を上げていた一行は、政宗の隣でぼんやりした様子の幸村に気付くと半ば強引にマイクを手渡した。
政宗の歌の余韻に浸っていたのか、自分の目の前に差し出された物を瞬時に理解できなかったらしく目を何度も瞬かせる。まるで予想もしていなかったという幸村の態度に、マイクを渡してきた男子生徒が困った風に肩を竦めた。
ほらほら、と促す声が辺りから上がる。
急かされるようにしてマイクを受け取ってしまった幸村は、何故か急におどおどとして始めた。先程政宗が周囲に促された状況と何ら変わらないはずなのだが、彼の視線は挙動不審なほどに壁や床や元親達の顔を彷徨って、最後は政宗を縋るように見つめてきた。
少し落とされた照明の中、浮かぶ幸村の少し白い顔色はやはり気になるところだ。
しかし心の奥底にあったしこりが急激に軽くなっていた政宗は、体調不良というわけでもないのにずっとそんな顔をしている幸村の悩みを少しでも自分のように晴らしてほしいと思った。
それがただの気休めだったとしても、今この場で浮いてしまっている状態も緩和できるのではないか。少しでも周りと馴染んで、一緒に騒がずとも楽しんでいってくれれば曇った笑みに太陽が戻るのではないか、と。
「俺にも、お前の歌聞かせろよ。……お前の奏でる音色、嫌いじゃない」
「え?」
「……Nothing. 俺だけってのも不公平だろう。ほら何を歌うんだ?」
語尾を濁した政宗に、戸惑った幸村が首を傾げて聞き返した。
途端に恥ずかしさが込み上げて、目を逸らした政宗は分厚い本を捲りながら幸村の前に差し出した。
あの、だとか、その、だとかが幸村の口から小さく零れ落ちていたが、本気で拒否をするわけでもないので対処に困っているだけだろう。構わず政宗は照れを隠すように幸村に歌う曲を尋ねる。
それに便乗して元親達も興味津々に幸村を見て、囃し立てるように期待の声を上げた。
「……では、これを……」
観念したのか意を決したのか、幸村はページを捲っていた政宗の指を止めて題名の羅列の中から一つだけを選び出した。
読めない題名に一瞬怪訝な顔をした政宗だったが、ヴァイオリンにしか興味のない自分の知らない曲なんてごまんとあるだろうと思い直してその横にある番号を読み上げて元親へ伝える。
伝え終えてから、今まさに自分は幸村の知らない部分を一つ知ったことに気付いたのだった。
流れ始めたイントロはゆったりとしながらも荘厳だ。多分カラオケの機材などでは表現しきれない、生の演奏であればもっともっと美しい響きを持つのだろう。
途端にしんと静まる周囲に目もくれず、幸村は先程の政宗を習うようにして画面を見つめた。
そうして、一節目が流れ出す。
幸村の手はいつの間にか汗ばんでいた。画面の光が照らし出す輪郭は、奇妙なくらいに切羽詰まった表情を滲ませている。
震えそうなほど恐々と開かれた唇から、大きな怒声一つ叫んだことのない幸村の声が拡声器によって普段よりもずっと伸びやかに鼓膜へと運ばれてきた。
なんだ、上手いじゃないか。
あからさまにほっとして政宗は力の入っていた肩を撫で下ろす。まさか幸村が音痴のわけないとは信じていたが、自信なさ気な様子につい心配になってしまったらしい。
むしろさらりとした幸村の声音は聞き心地が良い方だ。
ただ、何語で歌っているのか残念ながらこの場にいる面子では誰一人理解できていないだろう。
政宗にだって多分ヨーロッパの何処か、くらいにしか分からない。音楽用語は向こうの言葉を多く使うから必要最低限は嗜んでいるものの、どちらかというと昔に英才教育で教えられていた英語の方が得意なのだ。
古めかしい言葉使いをする幸村の口から、流暢な異国語の歌詞が飛び出してくるなどと誰が想像できるだろう。
呆気に取られている周囲を余所に、幸村は場違いなほど必死な形相で息を吸った。もうすぐ音程が急激に変わる箇所に当たるのだろうと、政宗は純粋に楽しむ気持ちで瞼を少し閉じた。
――だが、声は続かなかった。
ひゅっと息を零したような不格好な空気音がマイクで響き、それに伴って発せられるはずだった幸村の声は霧散したまま紡がれない。
政宗が慌てて目を開ければ、隣の幸村が呆然とその場で佇んだまま俯いていた。
横顔から覗く頬は真っ青で、見開かれた双眸を隠そうとする前髪が小刻みに震えている。
その震えはいつの間にか彼の全身を戦慄かせ、拳からするりと重たいマイクが抜け落ちてしまった。
鈍い衝撃音が室内に響いたが、誰一人気に留める者はいない。この場にいる全員の視線は豹変した幸村へと、驚愕や戸惑いを隠すことなく注がれている。
やがて心配する言葉があちこちから投げかけられたが、幸村にはそれさえも鋭利な刃物のような圧力のように感じているようだ。
苦痛を耐えるように歪んでいく横顔。悲しいくらいに噛み締められた口元。微かに辺りを見回した焦げ茶色の瞳は、泣き出す直前の歪んだ形に変わっていた。
手を伸ばしかけていた政宗は、幸村の表情に思わず硬直してしまう。
見知らぬ誰かに声をかけるのを躊躇するような、そんな気分だ。
ここで一体自分は何と声をかけて、どうすればいいというのだろうと湧き上がる無力感。目の前にいるのは親友といって相応しい相手のはずなのに、絶望に打ちひしがれて丸まった背中を初めて見てしまった政宗にはするべき行動が先にさえ不安感が過ぎる。
「あれ? どうしたんだよ?」
ある種の緊張感に溢れていた室内に新しい風を吹き込んだのは戻ってきた慶次だった。
半開きにされた扉から注ぎ込む廊下の冷たい空気が気持ち良い。
誰かが嘆息を吐き出した。事態を理解していない暢気な言葉が、逆に緊張を緩ませてくれたために出た安堵の息だったのだろう。
だが幸村にとっては違った。
弾かれたように顔を上げた幸村は、開いていた扉へと駆け出して立っていた慶次に少々ぶつかったことさえ気付かずに廊下へ走り去ってしまった。
政宗は思わず腰を上げたが、先程の躊躇が再び身体をこの場に留めてしまう。
胸に沁み渡るのは後悔の念。
やはり連れてこない方がよかったのだ。幸村はずっと様子がおかしかったと自分は気付いていたはずだったのに、こんな結果を生み出してしまうなんて――。
「っおい、政宗! ぼさっとしてないで幸村のことを追いな!」
「……慶次」
後ろめたい気持ちを抱えていると、幸村の背を探して廊下を覗いていた慶次が珍しいほど声を荒げて政宗に告げた。
思わぬ鋭さに驚くと、酷く真剣な眼差しと出会う。
「歌ったんだろ、幸村。ならその信頼に応えてやれよ、親友だろ?」
いまだに流れっ放しの画面を睨み付けた後で慶次は不意に笑った。
言葉の真意を読み取れずに困惑していると、そのままぐいぐいと外へと出されそうになった。
幸村はもう外に出てしまったかもしれないので探しに行くとなると今日はこれで帰ることとなる。誘ってもらった手前であるし、この場の支払いなどもどうすればいいか分からず戸惑っていると見兼ねた元親からも声がかかる。
「こっちはこっちで何とかするから早く行ってやれよ。今日はありがとな。幸村によろしく伝えてくれ」
「元親」
「いいから、ほら行った行った!」
元親と慶次に促されるがまま廊下に出た政宗の背後で、個室の扉が閉まる。
一度振り返ってみると、硝子越しにこちらを見ている慶次が幸村の走って行った方向を指差した。緩く頷いて見せると彼は満足そうに再び笑い、それから席に戻って行った。
まだ困惑していた面子をどうにか収めて、後腐れがないよう根回ししてくれるのだろう。
心の中で感謝を呟きながら、政宗は尻込みしていた己に喝を入れるべく頬を両手で軽く叩いた。
(弱気になるな、伊達政宗。俺は、俺のしたいことにさえ迷うような男だったか)
違うだろう、と己で答えを反芻させ、政宗は似たような扉の続く狭い廊下を歩き出した。
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(2011/7/1〜2011/10/6)
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