震えるが謳う


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 この階にはエレベーターで上ってきたのだが、あの状態の幸村が冷静にエレベーターホールの前で待っていられるとは考え難かったため自然と政宗は外へと繋がる非常口の扉へと足を向ける。
 重苦しい防火用のドアを開いてみれば、案の定殺風景なビルの非常階段が上から下へと続いている。手すりの向こう側にはいつもと変わらぬ駅前の喧噪が広がっていて、向かいのビルの窓に鮮やかな西日が反射していた。
 儚い憂いに呑まれた景色に目を奪われた政宗だったが、少しばかり下の踊り場にうずくまる人影に気付いてゆっくりと階段を下っていく。募っていた焦りは吹き付けてくる少し冷たい風によってか、或いは思いの外に幸村が近くにいたことへの安堵からか、気休め程度には鎮静されていた。
 とはいえ政宗自身の困惑は膨らむ一方であった。
 人がようやく一人通れるくらいの狭い踊り場の隅で幸村は膝を抱え込んでいた。カンカンと非常階段が軋んでも逃げることはなかったが、自分の状態を悟られたくないと言わんばかりに身を竦めて酷く脆い様を見せつけていた。

「……幸村」

 こんな時、どう話しかければいいのか全く分からない。
 元親や慶次であれば気の利いた言葉の一つも投げ掛けられたのだろうけれど、自分のことで精一杯な己には無理な話だ。
 今だって混乱していて、名を呼ぶくらいしかできることが見当たらない。
 幸村があんな風に取り乱すのを間近で見たのは初めてで、戸惑いよりも衝撃の方が意外と大きかったと政宗は改めて気付く。少しだけ客観的に自分の気持ちを見つめられるようになると、その事実に苦々しさまでこみ上げた。
 互いに知り合ってから、常に政宗は幸村の明るい気質に救われてきたと思っている。
 一度は手放した音楽を取り戻すきっかけであった彼の存在は勿論友人となった瞬間から既に他の者とは違う位置にあったのだが、前向きとは言い難い気性であった政宗にとって幸村と過ごしてきた日々はやっと手に入れられた年相応の居場所だった。共にいるからこそ、だんだんと幸村のヴァイオリンの音と自分の才の違いを感じ取ってしまい、最近では比べるばかりの己への自己嫌悪と相成って惨めな気分に浚われそうになったけれども、こんなちっぽけな存在である己を素直に慕って笑顔を浮かべてくる彼を見るたびに沈みかけの感情は容易にすくい上げられていたのは確かなのだ。

 けれども政宗は幸村のことを、本当は何も知らないのだと最近は頓に痛感していた。
 仄かな恋心を抱く元就についての疑念や、幸村と政宗の音楽の色の絶対的な違いの原因など渦巻く複雑な気持ちは多数ある。
 でもその全てから起因する彼と自分の距離感への苛立ちは、つまるところ何も告げてはくれぬ親友への幼い憤りそのものなのだと、政宗自身薄々気がついていた。
 彼の事情を教えてもらえる権利なんてないし、知ろうとする義務もない。
 一貫として他人と自分に明確な線引きをしている政宗は、誰に対してだってそう考えている。身内である小十郎を含む片倉家の人々であっても例外ではないのだから、幸村に対しても政宗はずっとそのように接してきた。
 しかし、かといって無関心でいられるほど彼への情が薄いはずもない。公私を弁えるほどには分別がつくが、成熟しきっていない精神はどうしたって理性と本能を完全に切り離せなかった。

 このままでは嫌だと愚図る子供のような感情は、ずっと前から政宗の内側に存在してる。
 母親に見向きもされなくなった時。非行に走って世間に絶望していた時。幸村の演奏に劣等感を抱き始めた時。元就への片想いを自覚してしまった時。
 直面した現実に向かって、幾度となく吐き捨てたのだ。
 嫌だ、このままでいるなんて嫌だ――と。

 言葉にできないまま膨らみ続けた抗いの心は増す毎に大きくなって、やがては政宗の身体さえ突き動かし始めていた。
 割り切って距離をおいて、そうしてできあがる関係を目の前にすれば重石の如く重圧をかけてきた心痛が減るかといえばそんなはずがないだろう。
 迷いを絶ったふりをするだけで無理矢理の演技を重ねていけば、自分自身をただ徒にすり減らすばかり。辛苦は何も取り除かれずに形を変えて、心身をきつく締め付ける。
 現状に甘んじるというのは加速も後退もしないが、緩やかに精神を腐らせていくだけの停滞に過ぎないのではないだろうか。
 傷つくこと、傷つけることを恐れる余りに視界を狭めて見えないふりをするのは逃げの姿勢であり、高慢な言葉を並べただけの怠惰になるのではないか。
 ――過去を顧みながらそんな風に考えてしまう。

(ならば俺は)

 政宗は一度だけ握り込んだ掌に溜まった汗の感触を確かめた。
 ヴァイオリンという、無機物の前に戻ってきた時に自らの両手両足は竦んで仕方がなかったのを鮮明に覚えている。今一度、音楽を奏でたいと小十郎に訴えたときでさえ、声が震えていないだろうかと思考の隅で思ってしまったくらいだ。
 久方ぶりに戻ってきた弓と弦の感触は、まだ温かかった記憶の中と何一つ変わっていなかった。政宗をありのまま受け止めて気高き音色を奏で、再び世界に色を灯してくれた。
 今目の前にいるのは、そのきっかけとなってくれた幸村。
 彼は物言わぬ無機物でも弾き手によって表情を変える楽器でもなく、一人の意思ある人間だ。
 投げ掛けた言葉に返ってくるのは心地良いばかりの響きではなく、時として残酷な刃になる。信じた分だけ裏切られて、縋ろうとすればするほど絶望に叩きのめされる痛みは大きくなる。
 歩み寄るにはきっと、再びヴァイオリンに手を伸ばしたあの時よりも盛大な勇気が必要だろう。

 それでも――。
 この怯えてしまう心が自身の内側に存在し続けていようとも、政宗はそれ以上に真摯な気持ちでこの大切な友人の力になってやりたいと今なら素直に思えた。
 仮に何の力にもなれなくとも、自分だけは変わらないまま幸村の隣で友として好敵手としてヴァイオリンを弾き続けていこう。相談や悩みを打ち明けられることは他の人間でも代わりはいるが、それだけは絶対に政宗にしかできない事のはずだから。


 幸村に訳を問い詰めたい気持ちをぐっとこらえて、とにかく彼の傍にいてやれと言われたままに無言で隣に近付く。
 丸まっている背中は先程の恐慌状態よりは治まっていたものの、震えが止まらずにびくついている。恐々と同じようにしゃがんでみると、町の喧噪に紛れてはっきりと嗚咽が聞こえていた。
 幸村が泣いているのだと認識した途端、胸がぎゅっとわし掴まれたかのような明確な痛みが政宗を襲った。
 そうして今まで自分が、幸村の笑顔ばかりを見てきたことに気がついてしまう。
 泣きそうになったのはつい先程の学校での一件くらいではないだろうか。自分を責めてばかりいた彼を思い返し、逆に誰に対しても怒りや嫉みなど一切向けた事はなかったと記憶を確かめてみる。
 幸村は真っ直ぐで優しい、今時珍しい部類の少年だ。
 けれど垢抜けない笑顔の後ろ側ではこんな風に蹲っていた夜があったのかもしれないと考えてしまうと、政宗は堪らない気持ちになった。

「……具合とか、悪いのか? 身体は平気か?」
「……」

 労わる言葉を小声でつっかえながらも囁くと、幸村は嗚咽を食い縛りながら僅かに頷いたのが分かった。
 拒絶はされていないと政宗はほっとした。
 躊躇していた一歩を踏み出して、しゃがみ込んでいる幸村の隣へぶっきらぼうな仕草で座り込むとそのまま丸まった背中をぽんぽんと静かに摩ってやった。

「……Sorry. 俺、ずっと幸村の様子がおかしいってことに気付いていた。でもお前が言わないから大丈夫って、心の何処かでそんな風に思っていたんだろうな」

 幸村は愚直な性格そのままに、嘘や隠し事など全くしなかった。自分を誤魔化すような真似はしたくないと言っていたから、答えが存在しているのに偽ったりはできないのだろう。
 白黒はっきりしている幸村だから、嫌であればはっきり告げてくると高を括っていたのだ。それは信頼からの安心と言えば聞こえはよいのかもしれないが、気遣いを疎かにした怠慢と紙一重である。
 体育の怪我の鈍痛はいまだに続いていて、それを幸村は何度も気に留めていてくれていた。あんな風に口に出して真っ向から問い質すなりすれば良かったのだと、後から後悔ばかりが押し寄せてならない。
 それでも過ぎ去った時間は取り戻せないのだから、これからどうすればいいのか政宗は考え始めた。
 部屋を出た時には幸村を探さなくてはと背中を押されるがまま出てきてしまったが、見つかった後の事までは頭が回っていなかった。
 幸村は泣きっ放しで顔を伏せている。言葉も出ないのだからまだ落ち着くまで相当時間がかかるだろう。何も無かった事にしてもう一度皆の所へ引き返せるはずもない。
 背後の暮れる空は随分と藍色に染まり出している。先程よりも向かい側のビルからの照り返しが弱くなっているから、日が暮れるのもさほど時間はかからないだろう。
 週末の夕暮れ。外の喧騒は大きく、駅前の繁華街や公共機関もそろそろ人出が多くなる頃合いだ。
 いつまでも此処にいるわけにもいかないので帰宅も視野に入れてみるが、そんな道程を幸村一人で帰らせるわけも行かないのは分かりきっている。
 しかし政宗が送るにしても、人混みの中でこんな状態の幸村を歩かせながら道案内させるという酷な真似はしたくなかった。
 ならば選ぶべきなのは一択のみとなる。

「幸村、送っていってやるから今日は帰ろうぜ。な?」

 膝からようやく少しだけ顔を覗かせた幸村は、泣き腫らして真っ赤になっている眼差しで政宗を一瞥すると再び小さく首を振った。
 帰りたくないのか、送ってもらわなくてよいという意味なのか、政宗はあまり考えないようにした。
 間近で見ると一層痛々しい泣き顔が歪んだ目元と唇を震わせている。
 それを宥めようとしながらまた背中を撫でてやる。空気を吸ってばかりいるから過呼吸になりかねないため、落ち着かせながら呼吸を促す意味もあった。
 多分、察してくれているのだろう。
 幸村は掠れた声で何事か礼を述べたような気がしたが、それもすぐさま再び喉元へと込み上げてきた嗚咽と涙の奔流に覆われて確かめることはできなかった。

 左手で幸村に触れながら、政宗は逆の手でポケットを弄った。
 携帯電話を取り出すと短縮ボタンを手早く押して、コール音が鳴り響く受話器を耳元へと押し当てる。
 今の時間帯ならば小十郎の勤務時間は終了しているはずだ。学校にまだいればいいのだが、万が一家に帰った後だとしても車を出してもらえるのならば問題はない。強面だが彼も一教師である。生徒を一人家へ送るぐらい了承してもらわなければ困る。
 こんな時ばかり、昔の主従関係を持ち出すのは狡いとは思うが彼ならば理解してくれるだろうと信じて、政宗は向こう側から聞こえてきた男の声に唾を飲み込んだ。

『はい』
「あ、俺だ。小十郎はまだ学校にいるのか?」
『政宗様! 何処にいる、というか一体誰といるのです』

 怪訝な声色をしていたから真っ先に聞かれるだろうことは承知していたものの、説明をする前からこうも簡単に状況を察せられては思わず二の句が告げなくなってしまう。
 隣の幸村を見つめながらしばらく逡巡した政宗は、とにかく駅前まで迎えに来てもらおうと交渉してみる。

「元親達と駅前のカラオケに行ったんだが、ちょっと問題があって先に帰ることになってな。お前、どうせこっち方面を通るだろう? だからついでに車で拾ってくれないか?」
『まだバスの本数は残っているでしょうに。今度は何をしでかしたのですか』

 咎めるような電話口の小十郎に形ばかりの謝罪を繰り返しつつも、どう説明すべきか一応ゆっくりと言葉を選びながら発言していくが、泣き止まない幸村が肩を怯えたように引き攣らせたのに気付いて政宗は眉を寄せた。
 大方迷惑をかけていると自己嫌悪しているのだろう。
 これは政宗の独断で、したいことをしているだけだ。だから気にする必要はないと再び背中を叩き、今度こそきちんと声にして伝えながら電話を早口で続ける。

「とにかく来れるんだったらさっさと来いよ! 駅通りから一本逸れた横道の店だ。分からなきゃまた電話しろ!」

 一方的に捲し立てると相手の返答も聞かずに電話を切った。
 家に帰ったら小言の一つくらいは覚悟しておかねばならないだろうが、そんなもの今はどうだってよかった。

「小十郎が迎えに来る。家まで車で連れてってやるから大丈夫だ。週末なんだしゆっくり休めばいいさ」
「……さ、む……殿」

 そこで初めて幸村が名前を呼んだ。
 驚いた政宗だったが、聞き逃さないように滲んで掠れた声音に耳を慎重に傾ける。
 喉の震えも鼻を啜るのも止まらなかったが、しゃくり上げながら幸村は懸命に言葉を発した。

「あり……とうございます……」
「心配するのは当然だろうが。お前だって体育の時にあんなに……That reminds me, 返すのを忘れていたな。ほら、ちょっと濡れてるけど顔拭いとけよ」

 政宗は折り畳んだまま鞄に入れていたタオルを取り出すと、俯く幸村の膝元に置いてやった。
 洗ったため少し湿っているそれは、学校で幸村が政宗の頭に当てさせていたタオルだ。借りたまま放課後を迎えてしまったのをちょうど良く思い出したので、返すついでにぐしゃぐしゃになった顔を拭くよう勧めてみる。
 泣いていると思考回路が涙腺に直撃するようで、またしても幸村は大きな眼に涙を浮かべてタオルに顔を押し付けながら泣き出してしまった。
 けれど先程よりも精彩を帯びてきている横顔に、政宗はようやく安堵の息を吐き出したのだった。



 非常階段でしばらく静かに座っていた二人だったが、見下ろした地上の道路に見慣れた色の車が入ってくるのが見えた。電話してから十分少ししか経っていないが、多分小十郎だろう。
 案の定、車は店の路肩に止められた。ボンネットが夕日でかちりと光っている。
 幸村を促して立たせると、政宗はそのまま非常階段から一階まで降りて受付カウンターを緊張気味で通り過ぎていく。店員は忙しなく受話器に向かっていたが、ちらりとこちらを向いただけで何も言わなかったためそのまま二人はビルを出た。
 硝子扉を抜けて先程駐車していた方向へ歩き出すと、すぐさま目的の車は見つかった。
 運転席の窓が開いて強面の教師が顔を覗かせている。手を上げて近付いていくと彼は胡乱気な表情で、困り顔の政宗と俯いてしゃくり上げている幸村を交互に見やった。

「……とりあえずいつまでもここに駐車しとくわけにもいきません。お乗りになって下さい」

 どうやら許可は出たらしい。
 後部座席のドアを開いて戸惑う幸村を押し込めて、逆のドアから政宗が乗り込んだ。手早くシートベルトを締めさせてから、シートから身を乗り出して普段あまり使用されていないカーナビを勝手に起動させる。

「幸村を送っていって欲しい。お前なら家も知ってるだろ?」
「勝手に弄らないで下さいよ。……仕方ない。武田先生に緊急連絡先として教えてもらった物がこの辺に――」

 呆れた溜息を付きながらも、ミラー越しに泣いている幸村を確認して小十郎は仕事用の鞄から手帳を取り出した。
 担任の暑苦しい男とそういうやり取りをする程度の交友関係があったのかと政宗は一人で意外に思っていたが、すいすいと打ち込まれていく画面を見ていくうちに少しだけ焦っていた心が落ち着いてきたことに気付いた。
 やはり信用ある大人の小十郎がいてくれると安心できるらしい。
 ようやく肩から力を抜いた政宗は、発進する車の振動に身を任せて背凭れに寄りかかる。隣の幸村はまだ真っ赤な目と頬をしていたが、鼻を啜る音も先程よりずっと小さくなっていたので撫でようとしていた手を止めて代わりに明るく話し掛けた。

「小十郎の運転は荒いからな。舌噛まねぇように気を付けろよ」

 冗談交じりでそう言うと、幸村は弱々しくも微笑んでくれたのが分かった。
 勿論、生徒を乗せている小十郎は普段よりもずっと気を使って運転してくれたのだが、アスファルトの歪みを通るたびに跳ねる車体で二人は忍び笑いを漏らすのだった。


 * * *


 やがて見慣れぬ風景が車窓を流れ始める。
 政宗の住んでいる片倉家のある住宅街とはまた違った雰囲気の、庭付きの一戸建てばかりが軒を連ねている長閑な街並みだった。
 小十郎は初めて通る場所ながらも、住宅地での運転は毎日の事なので慣れた様子でハンドルを捌いていく。
 辺りは坂道が多くて、毎朝夕この傾斜を上り下りするのは大変だろう。自転車を懸命に扱ぐ幸村の姿は想像しやすく、思わず政宗は口の端を綻ばせてしまった。
 一番長い坂を上りきると遠目から見えていた緑地がもう目の前に広がっていて、白壁の家々と木々のコントラストが見事な光と影を生み出している。
 なかなか良い処に住んでいるという感想が零れそうになったが、さっきまで泣いていた幸村を下手に刺激するのもどうかと思い心の中だけで留めておく。私生活の事を何も知らない自分が口にしてもよいものか、まだ判断は付かないのだ。

「……? 目的地はこの辺りのはずだが」

 しばらく柵で囲われた私有地らしき林の側を走っていた小十郎は、ゆるゆると徐行して道路脇に車を止めると周りを見渡し始めた。
 ナビには到着と出ているので、住所の入力さえ間違っていなければ付近に幸村の家があるはずだ。
 しかし、広い一本道の片側に連なっている家には真田という表札が見当たらない。逆側は木々と草花が揺れているばかりで、少々錆びている金属製の柵が道路の奥までずっと続いていた。

「幸村、この道分かるか? ここからなら歩けるか?」

 運転席から降りた小十郎を見習って外へと出て、反対側のドアを開けてやりながら訊ねた。
 もう夕食の買い出しの時間帯であるはずなのだが、住宅地に入ってから殆ど人影を見ていない。これなら泣いた顔で歩いていても変な目で見られることもないだろうと思い、思い切って幸村を車から出させる。
 政宗の問い掛けにこくりと頷いた幸村は、痒くなってきた目元を何度も擦って肩掛け鞄を抱え直した。

「へ……き、でござる。政宗殿も、片倉先生も、ありがとう、ございます」

 小十郎に深々と礼をした幸村は、ゆっくりと歩き出した。
 足取りも何処となく疎かで、一応最後まで見送らないと心配になる。政宗と小十郎はお互いの顔を見合わせてそれから幸村の背中を視線で追おうとした。
 だが不思議なことに幸村は道路を伝って真っ直ぐには進まず、そのまま道路を渡って柵の方へと歩み寄った。
 慌てて二人が車道を確認しながら同じように横断すると、幸村は林の向こう側へとじっと視線を凝らしてから握っていた家の鍵らしき物でおもむろに柵を叩いて音を数回鳴らす。
 不思議な行動に疑問を覚える間もなく、誰もいないと思っていた柵の反対側から軽い調子で若い男の声が響いてきた。

「はいはいどなたですか〜? 俺様は手が放せないんでご用件をどうぞ〜」

 政宗が幸村を倣って柵に顔を近付けて見ると、今立っている道路の幅ほど離れた場所に誰かいるのが確かに分かる。
 深緑の作業服を着ているので周りと同化していて判別し難いが、梯子の上で何かをしている様子から庭師の類だろう。私有地なのだから当然管理者がいてもおかしくない。
 幸村はもう一度柵を、今度は二回だけ叩く。
 すると手元を見てばかりいた声の主が心底驚いた様子で突然振り返った。

「若旦那!? 一体どうしたんです!」

 赤く腫れた幸村の顔を見るなり、血相を変えて庭師の男が梯子から飛び降りた。素早くはさみを腰にぶら下げた作業ポーチの中へしまい込みながら足早に柵まで歩み寄ってくる。
 身のこなしは玄人のそれだったが、慌ただしく近付いてきた彼の容貌は随分と若く見える。きっと町中で出会えば大学生だと間違うだろう。
 そんな幸村と三つ四つほどしか違わないはずの青年が、彼を若旦那などと尊称をつけて敬語を話した。実家が旧家であった政宗にはそれだけで二人の間に主従じみた関係が存在するのだと分かってしまう。教師と生徒という間柄になったというのに、いまだに教育係の時の癖から敬語の抜けない小十郎も同様であるから。
 ではそうなると、この敷地は幸村の家の物ということになるのだろう、と少々感嘆めいた驚きに二人が目配せをした。
 見知った身内に会えたので気が緩んだのか、幸村は再び顔を崩してしゃくりあげる。そんな彼を心配そうに見ていた青年は状況の説明を求めるように、眉を八の字にしながら困り顔で一番年長である小十郎を仰ぎ見てきた。

「いやすまない。真田君の高校の教師の片倉だが、担任の武田先生にこちらの住所を教えて頂いていて……申し訳ないが、真田幸村君のお宅で間違いないだろうか?」

 慌てて居住まいを正しながら名乗った小十郎は、手元にある手帳に書かれている住所を庭師に差し出しながら確認した。
 相手はじろじろと小十郎の顔を眺め、それから幸村を支えるようにして立っていた制服姿の政宗へと視線を転じ、何事かを考えながらも恐々と頷いてみせる。
 堅気に見えない小十郎の風貌には誰だって聖職者だと思いも寄らないだろうから、観察するように見られても仕方がないだろう。
 そうはいっても若干傷ついた小十郎は、いかにもわざとらしい咳払いしてみせた。

「それより若旦那、どうして泣いているのさ。車で送ってもらってきたみたいだし」
「うっく……佐助ぇ!」
「ちょっと作業服に鼻水とか勘弁してくれますー? ほら大丈夫だから、泣かない泣かない」

 改めて話しかけてきた青年に安堵し、治まりかけていた涙が再びこみ上げてしまった幸村は柵越しにしがみつくなり嗚咽を漏らし出した。大声を出せたのならば幼子のようにわんわんと泣きじゃくっただろうが、小さな慟哭は肩を戦慄かせて庭師の草色のつなぎにすがりつくだけに留まる。
 本来ならばきっと、幸村は感情の波をそのまま体現するような泣き方をする少年なのだろう。でも非常階段で膝を抱えていた彼は、全部を身の内に押し込めてじっと通り過ぎるのを待つように縮こまっていた。
 歌っていた最中に唐突に声が出なくなったことが幸村を泣かせた原因なのだろう事は重々察している。飛び出した幸村に気が動転していたから考えなかったことだが、落ち着きを取り戻した今ならばあの状態になるのが幸村にとって初めてではないのは一目瞭然だ。
 思い起こせば、日常の中で彼が叫んだ姿を不思議なほど政宗は見た覚えがなかった。先の体育の授業での事故の際も、注意の声量がもっとあればと幸村自身から大げさな謝罪まで貰っているのだから自覚した上で制限しているのだろう。
 政宗はそんな幸村の傍にずっといたというのに、今まで何一つ疑問に思わなかったのだ。

 ――あんなに苦しそうな幸村の姿を見たのでさえ、初めてだった。

 丸まった背中を呆然と眺めたまま動けない政宗を、そっと横目で見ていた小十郎は密かに眉を寄せる。だがそれもすぐさま解いて佐助と呼ばれた庭師の青年へと幸村をお願いするなり、背後に止めてあった車の後部座席を空けて政宗を押し込んだ。
 その暴挙には政宗も流石に正気を取り戻し、慌てて抵抗を示すものの振り返った先にいた小十郎の目が至極真剣なことに気付いて思わず手が止まってしまった。

「真田君をよろしくお願いする。自転車は学校へと置いてきたらしいので……では」
「……ありがとうございました、片倉先生」

 しっかりと頭を下げて運転席へと向かおうとした小十郎に、まだ涙声の幸村のお礼が再び響く。
 小十郎はほんの少しだけ微笑んで、幸村と佐助に会釈を返した。
 幸村の声を耳にした政宗は何か言わなくてはと急に焦燥に駆られてしまったが、口を開いてみても結局は複雑に絡んだ思いが音になることはなく、ただ無言のままこちらを向いている幸村へと視線を返すだけとなる。
 彼もこちらへかける言葉が見つからないのだろう。何度か吐息を飲み込むような仕草を繰り返した後、結局はまともな言葉一つ思い浮かばずにぎこちなく微笑む。

「ありがとうございました、政宗殿」

 いつもよりも寂しげな眼差しは、一層切なくなるような悲愴感を称えていた。
 胸を突かれる衝動が政宗の内側を鋭く駆け抜けていったが、彼もまた頷くくらいしかできることは見当たらなかったのであった。
 車の扉が閉まる音だけがやけに耳につく。悄然としていた政宗の視界はゆっくりと動き出し、幸村と庭師の青年を残して景色が前へと進み始めた。長く続く鉄柵が代わる代わる目の前を通り過ぎ、見る間に二人の姿が遠のいていく。
 はっとして車窓に飛びついた政宗だったが、既に柵に覆われた庭先は目視することは叶わず、ただ遠目にこんもりと広がっている緑色の小さな森が自分達のいた場所なのだと知らしめるだけであった。

「このまま家に帰りますよ。……貴方も酷い顔をしている」

 バックミラー越しに小十郎が険しい顔をしているのが見えた。
 それ以上に、鏡の向こう側で視線を交わした己の虚像のみっともない姿を曝け出していて、自分の双肩に覆いかぶさっているものが疲労感なのだと自覚したのだった。



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(2012/1/28)


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