震えるが謳う


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 真田幸村は天才だった。
 本人は否定をするが少なくとも政宗はその話を信じていた。
 どんなに練習を重ねていても、演奏に没頭していても、そうして積み重ねた政宗の努力を幸村は軽々と飛び越えていくのだ。
 自分は幸村よりも早く楽器に触れていたというのに、時間も経験も何もかも関係ない神様から与えられた才能というものを持つ者は確かにいるのだと、幸村と比較されるたびに政宗は酷く荒んだ気持ちになった。
 そしてその鬱々とした心は音楽に顕著なほどよく表れてしまう。
 自然と教師から注意を受け易くなり、さらに苛立ちが募っていた。

「……今日はこの辺で止めておきましょう」
「え? だってまだ一時間しか――」

 溜息交じりで告げられ、政宗はふいっと時計を見上げてみた。熱中している間は時間など気にしないのだが、自分で確かめる仕草をしたことからどれだけ意識が散漫だったのか気付き政宗は黙り込む。
 手元にある楽譜はまだ一度も最後まで弾かれていない。
 もう一ヶ月を切ったというのに、練習にこれほど身が入らないのも初めてだった。
 ナーバスになっている政宗に気付いているのだろう。小十郎はさっさと自分の荷物を纏めて、政宗のヴァイオリンケースを取り出した。

「今回は長いですね。先日のコンサートを聴いてからずっと音が死んでいらっしゃる」

 普段は大人びている政宗だが、些細な切っ掛けで急に癇癪を起こすことがあるのは昔からの付き合いである小十郎は無論知っていた。
 溜め込む気質であるが幼い頃とは違って、今ではきちんと発散できているから注意することは無い。
 けれど真田幸村が絡むと別だった。
 いや彼自身とは親しい友人と呼べるほど仲が良いし、政宗だって向こうを気に入っているのは本人も自覚している。旧家の御曹子の政宗はその立場上昔から友達を作ることが難しかったから、教師である小十郎の立場から見ても大切にしているだろうことは察せた。
 ――だからこそ、政宗は余計に幸村を意識するのだということも。

 幸村は政宗と同じヴァイオリニストだった。
 政宗が歩いてきた華々しい優勝歴に引けを取らない成績を収めており、最近では拮抗し過ぎていて同じコンテストに出場してしまうと審査でもめることが度々合ったから、幸村は政宗の出る大会にはあまり姿を見せなかった。
 最初の内は幸村の優勝を聞けば政宗も我が身のように喜んでいたが、幸村の演奏を耳にするたび段々と焦りを感じるようになってからは演奏会に誘われることさえも苦痛だった。

「……小十郎だって思っただろう。あいつの弾き方は、俺には真似できない代物だ」

 ケースの蓋をぱたりと閉めてしまうと、防音されている部屋は静寂に包まれる。
 辛うじて開かれていた窓辺からは、放課後の喧騒が遠くに聞こえてくる。
 当の幸村は今頃校内で部活に勤しんでいるはずだ。
 政宗がこうしてひっそりと練習を重ねている間にも、彼は音楽とはまるで縁の無いような顔をして運動に汗を流しているのだろう。
 実際幸村がヴァイオリンを弾いている場面など、舞台上か政宗の家に来た時一緒にセッションした時くらいしか見たことがない。
 そもそも幸村がどういう環境で練習しているのかも政宗は知らなかった。
 知ったとして、相手と自分の溝が縮まるわけもないと分かっていたが。
 そうぼやいてみせると小十郎は呆れたような顔をする。

「貴方と真田では、まるで違うタイプだというのは分かりきった話でしょう? 今更気にされても、だからといって弾き方を変えられるわけではないのですよ」
「うっ……そりゃあ俺だって、そのくらい分かっているぜ」

 小さい時から音楽の面倒を見てくれている小十郎は、政宗の親戚だったため昔から家族ぐるみの付き合いをしている。それこそ教育係のように音楽だけではなく色々なことを教わったから、今でも隠し事はできなかったし頭も上がらない。
 政宗が音楽を始めたのは弟が生まれる少し前だったろうか。
 母親がクラシックを好んでいて子供に習わせたかったらしい。らしい、というのは政宗が物心ついた時にはもう彼女は息子に関心を向けなくなっていたからだ。
 どうにか彼女に気にかけて欲しくて必死で続けていたのだが、最優秀賞を取ってもトロフィーを授かっても、褒めてくれたのは父親や小十郎ばかりだった。
 友達もいなかったその頃の政宗は、どんなに頑張っても母がこちらを向くことがないと知ってしまい。本当はもうヴァイオリンを弾くことが嫌で嫌でしょうがなかった。
 けれど非行に走ってみたり、登校拒否して家に篭ったりしても、結局は暇になると音楽のことばかりを考えているのだ。ヴァイオリンを叩き壊そうと掲げてみても、そのままのろのろと腕を下ろすことに終わっていた。
 父とその後きちんと話し合い、母の居る実家では息が詰まるだろうと小十郎の家に居候させてもらうことが決まった。
 ヴァイオリンとは距離を取った方がと勧められ、音楽と触れ合わない生活を送りながら学校へと通い出したのだが、どうしても執着が消え去ることはなかった。

 幸村と出会ったのはそんな時だ。
 何でも良いから聞きたいと、こっそり一人で出向いた町の小さな演奏会の舞台上だった。
 昔から続けている政宗とは技術の差があったが、幸村は本当に楽しそうに演奏をしていた。
 好きで始めたと笑っていた彼が政宗には不思議で仕方なかったと覚えている。
 しかし同世代の男と交わした久方ぶりのヴァイオリンの話に、政宗は不思議と以前のような暗い気持ちは湧き上らなかった。正直言えば、楽しかったのだ。
 まるで本当の趣味のように話せる日が来るなんで思ってもみず、その夜政宗は再びヴァイオリンを手にしていた。
 弦の音色に心が痺れたのはきっとあれが初めてだったに違いない。
 二人の親交はそこから始まり、今に至る。
 あの時は学校が違ったが進学先は同じだったらしく、新入生の顔合わせの際に見つけた時は驚いたものだった。
 そんな出会いをした幸村が、今ではこんなにも政宗の脅威となっていることが皮肉だった。
 事情を知っている小十郎は俯く政宗の心中を感じながらも、同情するわけにはいかず叱咤をかけた。

「貴方は真田を意識し過ぎている。もう少し肩の力を抜き成され」

 再びヴァイオリンを始めた時に政宗は言ったのだ。
 母親は関係ない。自分がしたいから、一人前になりたいから、だからどうか俺にもう一度――。
 自尊心の塊ともいえる政宗が両親以外に頭を垂れたのを小十郎は始めてみた。親戚筋とはいえ教鞭を取っていたのは小十郎だったから師弟の間柄である。政宗の頼む態度は決して間違っていないのだが、幼少時は世話係でもあったためか今ですら敬語の抜けない小十郎は驚きよりも慌ててしまったものだ。
 顔を上げて下さい、と焦っていた小十郎が見たのは、隻眼となってもなお他人を威圧するような真剣な瞳。

 腹を括るのは自分の方かと、あの時小十郎もまた決意を固めた。
 政宗とは一蓮托生。彼がこの道を自分と共に歩むというのならば、何処までも付き合ってやろうと。

「Ah……all right」

 諭すような教師の言葉に政宗は少しだけささくれ立っていた気持ちが和らぐような気がした。
 二人して第二音楽室を出てから、小十郎とは階段の前で別れた。
 今日は当直だから夜まで学校にいるのだ。別れ際には散々今日はとにかく気晴らしをしなさいと口を酸っぱく言われたことを思い出し、廊下を歩きながら笑ってしまった。

 とはいえ、先日のチャリティコンサートで受けた衝撃をすぐには忘れられない。
 政宗はこの手の演奏会にはあまり出たがらないのだが、逆に幸村は頻繁に出演している。そういえば彼と出会ったのも町の演奏会だったから、大会にあまり出ないのは元々だったのかもしれない。
 コンサートの主催楽団とは知り合いらしく、オーケストラのヴァイオリンを務めていた幸村は最後のアンコールの際にソロで弾いていた。
 それが政宗のヴァイオリニストとしての矜持を激しく揺さぶった。
 業界内で密かに幸村の才能は天からの授かり物ではないかと噂されていたのは知っていたし、政宗も薄っすらと感じ始めて焦っていたが、やはりそれは真実だと演奏を聴いて確信すら思い浮かんでしまった自分に激しく嫌悪を覚えた記憶がある。
 言葉にはできない。
 だが幸村が一人舞台で弓を構えた瞬間、周りの空気が一気に変わったことは本能的に感じた。嗜む程度の者であれば圧倒され、ある程度弾ける奏者であれば総毛立つような――。

 脳裏にこびり付いているあの光景が蘇り、政宗は思わずヴァイオリンケースを握る手に力を篭めた。
 あんなもの見たことが無い。幸村の舞台は何度も見てきたが、あれほど畏怖を感じ取ったのは初めてだった。
 一体いつから化けたのだろうか皆目検討も付かず、出てくるのは溜息ばかりだ。このままでは幸村に越えられるばかりか、引き離されてしまうのは目に見えている。
 ――それは、ヴァイオリンに限らないから余計に。

「政宗殿ー!」

 ぶらぶらと渡り廊下を歩いていると、体育館から帰って来た幸村と鉢合わせしてしまい政宗はぎくりと背中を強張らせた。
 政宗の様子にも気付かず、ジャージの裾を捲り上げた腕を大きく振って幸村が駆け寄ってきた。

「これからお帰りですか? 部活終わったから一緒に帰りましょう!」
「……お前って奴は本当に、悩みなんか全然なさそうで良いよなぁ」

 幸村に非があるわけではないのだが、こうもにこにこといつも通り笑いかけられると何とも居心地が悪い。
 ぼやきも理解できていないのか幸村は首を傾げたが、約束は了承されたと思ったらしく昇降口でと言い残し、さっさと着替えに行ってしまった。
 それを何ともいえない気分で見送り、再び政宗は歩き出す。
 向かう先は図書室だった。



「……閉館時間だが」
「明日じゃ返却期限切れ。アンタ怒るだろ」
「毛利ー、茶葉がねぇぞ」

 鍵がかかってないことをいいことに、閉館という札を無視して図書室に入るとカウンターで貸し出しカードを数えている司書と目が合った。
 途端に注意を受けるが、いつものことなので政宗はさっさと鞄から本を取り出して机の上に置いた。
 奥の準備室から呑気な声が聞こえたが、司書は気にせず仕事を続ける。

「うお、ポットも空になっちまった。給湯室行ってくらー」
「貴様は寛いでいないでさっさと課題を終わらせて去れ!」

 いつもの喧嘩に、何故か政宗はほっとした。
 彼等は政宗がこの学校に入学した時から、いつも図書室で出会う奇妙な二人組みだった。
 片方は同級生の元親で、本当は年上らしいのだが色々あって留年したため現在も政宗の隣のクラスで兄貴風を吹かせている。仲間内から慕われる元親の性格は政宗も好ましく思っていて、今では幸村とは違う形で親友である。
 課題を溜めるくせがあるのか、教室以外の場所――保健室だとか事務員室だとか図書準備室だとか寛げる所を選んでいるのが気になるが――で会うとプリントと睨めっこしている。今日もやはり課題が出ているらしく、毎度政宗は留年だけは嫌だなと思っていたりする。

「おう政宗。また本を借りに来たのか。熱心だねえ」
「うるせえ」

 準備室から大きな身体を覗かせた元親は、空っぽのポットを担いでにんまりと笑うと、そのまま給湯室へと行ってしまった。
 軽口の挨拶はいつも通りだったが、最後の一言で図星を指されてしまった気分になる。単にあまり読書が得意ではない元親から見れば、よくもまあ本など好き好んで読めるものだという意味なのだろうが、政宗としてはそれだけが理由で無いから何となく後ろめたくなる。

「ほれ、さっさと棚に戻してくるが良い。どうせまた借りるのだろう」

 返却完了の判子が押された貸し出しカードを本に差し込み、司書が政宗に差し出した。
 一瞬まごついた政宗だったが意を決し、手を伸ばす。
 受け渡しする時に、指先が彼の手をほんの少し掠めた。それだけで自分の体温が上昇するのを顕著に感じてしまい、政宗は奪い取るように本を取ると奥の棚の群れへと足早に隠れた。
 音楽関連書がカウンターから遠くて良かった、と思うのはいつもこんな時だ。
 ちらりと振り向けば、閉館間際だから慌てているのだと勘違いしているのか、司書はおかしげに口の端を歪めていた。
 図書室を自分の部屋のように使う元親といつも喧嘩している、司書の元就。
 司書というには若すぎるような気もするが、実際元親や他の生徒が彼を先生などと呼んだことはないから司書になったばかりなのかもしれない。
 元親と知り合ってから自然と話すことが多くなり、元々勉強熱心ではあるがそれを周りに悟られるのが嫌いな政宗は、放課後の全く人気の無い時間を狙って図書室へと赴いていたから元就と二人きりという場面が何度もある。
 音楽の本ばかりを借りていく政宗に、楽器をやっているのかと話しかけたのは元就の方だった。
 元親との会話から分かるように、気難しい元就はあまり人と交流を持つ方ではなかった。自分のテリトリーに踏み入れられることを嫌い、元親のようにずかずかと入ろうと思わなければ認識すらしないこともざらだ。
 職務については真面目だが、何を考えているのかいまいち分からないのだと小十郎も愚痴っていた。
 そんな彼から、天敵である元親の友人である自分に話しかけてくるなんて想像すらしていなかったから正直驚愕した。
 元就は固まってしまった政宗を気にした様子もなく、馴れた手付きで貸し出しカードの日付を書いていた。その隣には、伊達政宗、と見た目に反して整った字とよく言われる見慣れた自分の筆跡で書かれている。
 そういえば名前を名乗ったこともない。けれど元就は、確かにその時政宗の名前を呼んで話しかけてきたのだ。
 ――覚えてくれていたのか。
 込み上げてくる奇妙な感情に戸惑いながら、政宗は元就の問いに頷いて、そこから初めて会話らしい会話をしたのだった。

 話してみると元就は意外と普通だ。
 仕事の邪魔をしなければ政宗の話にも相槌を返してくれたし、図書室の規則に則っているのなら要らぬ干渉もしてこない。
 癖のある性格なのは確かだが、彼と一緒にいる図書室独特の静寂は嫌いではなく寧ろ安らぐことさえあった。
 最初の問いかけから何となく気付いていたが、元就は音楽を嗜むらしく特に器楽曲を好んで聞くようだ。何故かと訊けば、声が入ると本に集中できないから、という何とも司書らしい答えが返ってきた。
 学校内では幸村以外に言わずにいたヴァイオリンをやっていることも、すんなりと言い出せたのはそんな元就だったからだろう。
 今では学校に持ち込んでくるくらいに大っぴらでいられるのも、元就とヴァイオリンの話をしていたところを元親に知られて、そこから遠巻きであった同級生や先輩達にも凄い凄いと歓迎されたおかげだ。
 ほいほい喋る元親も元親なのだが、元就が受け入れてくれなければ以後絶対に誰にも教える気にはならなかっただろう。
 元就の存在は、そう思えるくらいに政宗の中で大きくなっていた。
 毎週二回だけ、図書委員のいない閉館間際に本を借りに行くのがバイオリンを弾く日課の中に加わり、気付けば目的が手段に摩り替わっていたことに気付いたのは自分の中の想いを知ってから。
 元就に会うために借り続けたから、もうすぐ楽器の関連書の棚は制覇しそうだった。

 今日はとりあえず気分転換だと言い聞かせ、本を戻した政宗はそのまま視線を隣へ投げてみる。
 発声練習とか腹式呼吸だとかいうタイトルが目に入る。この辺りは芸術関連だから、歌唱や演劇の本などが陳列されているのだろう。
 先輩後輩同級生問わず人気者の元親に、カラオケなんか行ったことがないと正直に言ったら「人生損している!」と言われたことを思い出す。一回一緒に行こうとそういえば前々から約束されていた。
 ストレス発散にいいのだと彼は言っていたから、これも気分転換になるのだろうかと発声練習の本を手に取りながら思案する。
 今日は特に借りる物がなかったし、何も持たずにカウンターへ向かうのは気恥ずかしかったからこれでいいやと踵を返した。
 振り向いて目に入るのは、元就の座る指定席。――その奥に飾られている花瓶。
 図書室に入った時気付けなかったが、素っ気なく飾られているその花に政宗は硬直してしまう。
 折角忘れかけていたというのに、幸村と会った時に浮かんでいたわだかまりが唐突に戻ってきてしまった。

 あの花は。
 あの花は――。

 アンコールの演奏の後、静まり返っていた聴衆。
 一瞬の間が開いてからホール全体が揺れるような溢れんばかりの拍手が湧き上がり、スタンディングオベーションの波が取り残された政宗を呑み込む。
 呆然と座ったまま舞台を凝視していた彼は、人々の腕の合間から美しい花束を見た。
 演奏中は表情を失くしていた幸村がはにかみ、舞台上にやって来た花束を真っ赤になりながら手に取る。常と違った礼服に着飾った幸村が屈みこみ花束を受け取る姿は妙に様になっていて、作法に順ずる礼の仕方はまるで中世の騎士の如く。
 そうして渡された花束の贈り主を何となく見た政宗は、もう一度暗い穴底へ放り出される感覚を味わった。

 本当は信じたくなんかなかった。見間違いだと叫びたかった。
 だが花瓶に飾られている物が現実を見ろというように、政宗の逃げ道を塞ぐ。
 あの時の花束と同じ彩が風に揺れている。――元就が、幸村に贈った花束と同じ花が。

「どうした、借りていかないのか? そろそろ本当に鍵を閉めるぞ」

 足を不自然に止めた政宗に気付き、元就が声をかけた。
 金縛りから解けたようにはっと瞬きをした政宗は、元就の顔もまともに見られないままカウンターへ本を差し出した。自分の手が震えていないだろうか心配になる。
 先程とは違う様子だと流石に元就には悟られたようで、窺うように見られているのを感じた。
 こんな本初めて借りたから珍しいと思われているのかもしれない。
 いやそうであって欲しい。
 一刻も早く出て行きたいと気ばかりが急いで、元就と二人きりだというのにいつもの浮つく気持ちは浮かばない。カウンターへ目をやればあの花が否応なく視界に飛び込んでくるから、心配そうな元就に顔を合わせることもできなかった。

「伊達?」
「ごめん、毛利さん。待ち合わせしてるから急ぐな。See you later……」

 図書室から飛び出して昇降口へと駆けて行く政宗に呆気を取られ、戻ってきていた元親は開きっ放しの扉を恐々覗き込んだ。

「何だよ虐めたのか? 悪ぶってるけど繊細なんだぜ、あいつ」
「……長曾我部、茶を淹れろ。右の戸棚の一番上だ」

 カウンターから立ち上がった元就は、元親を一瞥すると準備室へ消えた。
 元親は一度政宗の去っていった方向を見たが、がらんとした廊下が続くばかりでもう誰の影も見当たらない。仕方なく後ろ手で鍵を閉め、図書室の電灯を落としてから自分も準備室へと入る。
 黄昏に沈む暗い部屋の中、カーテンと大輪の花弁が寂しげにそよいでいた。



 一階まで一気に階段を降りて、ようやく歩調を緩める。
 残ったのは軽い疲労感と、もやもやと募る苛立ちのような焦燥感ばかりだ。
 まだ鞄にも入れていなかった本を無理やりつっこむ。あれだけ混乱した状態で飛び出してきたというのに、ヴァイオリンケースは放さなかった自分の貪欲さが滑稽に思えた。
 のろのろと昇降口へと向かえば、とっくの昔に着替え終わっていたのだろう幸村が所在無さげに下駄箱に寄り掛かって外を眺めていた。
 今会うのはタイミングが悪過ぎる。
 そう思うものの、約束は約束だ。それに幸村の側を通らなければ帰るどころか靴だって取れない。律儀に自分の靴箱の前で待つ幸村を苦々しく眺めていた政宗は埒が明かないと、なるべく棘の出ないよう気をつけながら声をかけた。

「おい、退けよ幸村」
「政宗殿。今日は随分とゆっくりでしたな」

 ぼんやりと暗くなってく正門を見ていた幸村だったが、慌てて身体を起こすと横にずれた。
 ロッカーから履き潰したローファーを取り出しながら、何となしに幸村の足元を見ると運動部らしく飾り気もない運動靴が目に入った。
 辛うじてスニーカーは見たことがあったが、舞台上に立つ時以外はやはり革靴など履いているところを見たことがない。政宗の家――といっても正確には小十郎の家なのだが――に来た時も、丁寧に磨かれた靴が並んでいる様子に玄関口からして幸村は物珍しそうに眺めていた。
 小十郎の実家は一階が音楽教室だから防音設備が完備されていて、それをまるで初めて見るように彼がはしゃいでもいたことを思い出し、ますます幸村がいつ練習しているのか政宗は気にかかった。
 ――それから、元就の事も。
 多分前のコンサートで一番自分が衝撃を受けたのは、幸村の演奏などではなくて彼の存在があったからなのかもしれない。
 花瓶に飾られていた花如きでこれほど狼狽するなんて思ってもみなかった。
 幸村に訊いてみようか、とも考えたが、顔を上げた先にいる友人が楽しげに早く早くと急かす姿を見て、急に罪悪感のようなものが浮かび上がり口を噤んでしまう。
 勝手に嫉妬しているのは政宗の方だ。
 純粋に自分を一番の友達だと言ってくれる幸村に対して、自分はどうしてこんなに皮肉れてしまうのだろう。負けたくない、なんて何遍も思ったけれど、ずるい、だなんて思うのはお門違いだ。

 自分は幸村のことを知らない。
 元就のことも、知らない。
 汚い感情を覚える前に、真実を知らなければ非難なんてする権利などないのだ。

「……幸村、前から思っていたんだが、お前どうして運動部入ったんだ? 拘束時間長いし、指を怪我したらヤバイだろ」
「ああ、指は気を付けておりますよ。でも健康な身体が若者の資本だと先生も仰ってますから!」

 幸村がこの場合指す先生というのはクラス担任のことだ。
 これがまた暑苦しい、と毎度ホームルームのたびに政宗はげんなりしている。
 名前順に机を並べているため幸村とは去年も隣同士であったが、同じように去年から一緒の担任の真ん前であるというのが憂鬱だった。早く席替えしろと心の中で念じてはいるが、どうやら来年もこのままらしい。
 ともかく担任の信玄は幸村の部活の顧問でもあるから、幸村は随分と慕っているようだった。

 けれど政宗が前述したように、ヴァイオリニストは勿論奏者にとって指は大げさだが命の次というくらいに大事なものだった。
 運動部にいれば付き指など日常茶飯事だろう。だがその小さな違和感だけで旋律は色を変えるのだ。
 片目を失ってから一時期バイオリンを弾くことが困難であった政宗は、それが原因の一つで母親が顔を背けたのだと知っていたから、余計に自分の身体には気を付けてきている。呪縛から少しだけ解かれた今でもその習慣はなくならず、寧ろ前よりもヴァイオリンに執着したからこそ慎重になった。
 幸村がその事を軽視しているわけではないと分かるが、朝連から始まり帰るのは下校時間ぎりぎりだ。家に帰ればもう夜で、朝が早いからすぐ寝ているだろう。そんな中でどうヴァイオリンの時間を捻出するというのか。
 疑問を口にすれば、あっさりと幸村は答えてくれた。

「別に毎日あるわけじゃございませんよ。大会前は忙しいですが、先生のご都合もありますし、大体週に三日か四日か……そんなものです」
「そうだったのか」
「はい。政宗殿は本当に部活動に興味が無いのですね。部活用黒板に書かれていますぞ。見たことありませぬか?」

 そんなものもあったような、なかったようなと政宗は頭を掻いた。
 知らなかったけれど、それはやはり知ろうとしていなかったのだと嘆息が自然と零れてしまった。
 対して幸村が自分のことを結構良く知っているのは、向こうは知ろうと努力した結果なのだろう。

「俺ってお前のこと知った気でいたが、全然まだ分かっていないな。お前の家も知らねぇし」
「年賀状頂きましたよ?」
「そりゃ住所だけだろ。最寄り駅が何処だかも知らないぜ?」

 学校から近い駅の側でいつも別れるから当然だろう。
 政宗はそこからバスで住宅街の方へと帰るが、幸村はいつも元気に自転車通学である。逆方向というのは漠然と知っていたけれど、違う区の見知らぬ町の名前を聞いてもどこら辺なのかいまいちピンとこない。
 自転車を横にして歩く幸村と、何だか今更な話を続けながら新しい発見を見つけていくのは案外楽しかった。
 こうしていると先程まで小十郎に注意を受けていたのが嘘のようで――突然出て行ったことは今度元就に謝らなければならないなと、心が痛んだ。
 ヴァイオリンのことがなければ知り合わなかったろうが、ヴァイオリンを挟んでいるからこそ葛藤を覚える。普通の友達であれば感じないだろうその矛盾が歯痒い。

「政宗殿、鞄が開いている」
「Oh! 借りた本落としたらまずい!」

 しばらく歩いてから幸村に指摘を受け、慌てて鞄の口から半分飛び出してしまっている本をしまう。さっきはそれどころじゃなかったから閉め忘れたのだろう。
 本を失くせば本格的に元就に嫌われる。
 立ち止まってから題目を検めてきちんとあることを確かめてから、ほっと政宗は蓋を閉めた。
 礼しようと顔を上げた政宗だったが、幸村の様子がおかしいことに気付き眉を顰めた。
 じっと注がれる視線の先には今しがた閉めたばかりの鞄がある。
 見慣れているそれを凝視するわけもなく、彼は多分本を見ていたのではないかと推測し、政宗は緊張感を覚えた。
 脳裏に過ぎるのはコンサートの幕が下りる少し前の、あの光景。
 お前はあの人の何なのだと食って掛かりたい気持ちも湧き上ったが、顔を白くした幸村にそんなこと言えるはずもない。

「おい幸村、具合でも悪いのか?」

 柄にもなく気遣ってみると、幸村がはっと目を瞬かせた。
 慌てて謝られて再び歩き出すが、その横顔はやはり優れない。

「図書室に行かれたのですか」

 幸村の声が固い。
 やはり何かあるのだと感じながら、それを知るにはまだ早いと政宗は前を見たまま頷いた。

「政宗殿が楽器じゃなくて、発声練習なんて持っていたからびっくりしてしまいましたよ」

 はは、と軽く笑う幸村が、まるで舞台上にいる時のようにやけに遠くに感じられたのは気のせいじゃないだろう。
 そのまま駅に着いた政宗と幸村は、ぎくしゃくした空気の中で別れた。
 幸村と下校してこんなに心苦しかったのは初めての事だった。



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(2009/5/28〜6/03)


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