異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
 第七章 王国の守護獣

第五十三話 夜半
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 夕餉代わりに市場で購入したオレンジを齧っていたシエナは、昼間の成果をローレンに語った。
「グリフォンか。ぼくも伝承しか聞いたことなかったし、信じていなかったからあんまり知らない」
 渡された辞典を軽く捲りながら、ローレンは呟いた。
 この本を手にするのはこれで二度目だった。
 最初は自分が不死者だという事実を告げられた後。その項目をシエナに見せてもらった。きちんと突きつけられたことがそれなりにショックだったようで、ローレンはその時のことをよく覚えていなかった。
「信じていなかった? だってあの街は魔物と密接な関係があったはずでは」
 怪訝そうに尋ねたフォードに、子供は苦笑を禁じえなかった。
「現れもしない守護獣よりも、孤児院の院長先生やお義父さん達の方がぼくにとっては信じられる人だったから」
 二人は一瞬暗い顔を浮かべる。それを見るのが嫌で、ローレンは彼らしくない明るい口調で話を戻した。
「昔は魔物なんて御伽噺でしか知らなかったからね。でもシエナ、東に行くと言っても目的地は決まっているのかい?」
 シエナは言葉に詰まり、ばつが悪そうに視線を床へと下ろした。
 水差しに布を浸しながらそれを見ていたローレンは首を傾げる。答えを求めるため隣のフォードを見やると、彼は器用にオレンジの皮を剥きながら笑っていた。困ったような、それでいておかしさを耐えているような微妙な表情だ。
「ほら私の言った通りになったでしょう。東、とだけではローレンは納得しませんよ」
 くし型に切ったオレンジを皿に盛り付けながら、フォードは言った。
 その言葉だけで合点がいったローレンは、呆れたような溜息を吐き出した。誤魔化すようなシエナの乾いた笑いが虚しい。
「本当に朝から進展していないんだね」
 落胆めいた子供の高い声に、シエナはがくりと頭を垂れた。


 明日には宿を引き払うということになり、今夜はもう就寝につくこととなった。
 買ってきた薬を整理しているローレンは、一心不乱に鞄と向かい合っている。
 不死者に睡眠欲はないとはいえ、眠れないわけではない。今の彼は人間だった時と変わらない生活をしているため、一時でも静かな安らぎは必要だろう。
 夜行性のはずの吸血鬼であるフォードが、日中の活動に慣れ、夜に眠るように。
 そんなことを思いながらまどろんでいたシエナは、小さな背中を見つめていた。
「ローレン、終わったら火を消しておいてね」
 包帯で隠された横顔が了承を示したことを確認し、シエナは毛布を引き寄せて寝返りをうった。
 奥にいるフォードに挨拶をし、少年は瞼をそっと引き下ろした。

 数分でシエナの寝息が聞こえ始めた。いつもながら寝つきが良いと感心しながらフォードは上着を椅子にかけた。
 二つしかない照明だけでは薄暗い部屋を照らしきれず、特に四隅は夜闇に溶け込んでしまっている。
 シエナを挟んで向こう側に、ぽつんと浮かび上がるローレンの背中。
 それを視界に入れたフォードは何となく寂しさを感じる。同時に、過去で味わった苦い後悔の念も湧き上がった。

 少し前までは思いも寄らなかった表情を見せてくれるようになったローレン。けれどこうして彼が背を向けて一人きりでいる姿を見ると、歯痒い思いが湧き上がる。
 救ってくれない守護獣よりも、短くとも温かな思い出をくれた人々の方が信じられると言い切った子供。
 それは、兄との小さな約束だけが支えだっただろう、己が見殺しにした弟を思い出させた。
 外の世界を知ることも無く死んでしまったあの小さな子は、狭い納戸の中を一人きりで幾夜過ごしたことだろう。

 フォードは緩やかに眼を瞑り、横になった。
 身代わりにするつもりはない。何度も自分に言い聞かせていた。
 それでもローレンを弟の二の舞にはしたくないと彼は思う。
 身勝手な利己主義だと、実際家の気があるローレンには嘲笑されてしまうかもしれない。
 その様子がありありと目に浮かび、フォードは小さく笑んだ。
「何だか昔の私とシエナさんみたいですね」
 屋敷で衝突した会話を思い浮かべ、彼はそっと零した。
「あまり遅くならないように。おやすみなさい」
 まるっきり保護者のような言葉に、ローレンが苦笑した気配が伝わった。


 それから、どのくらい時が過ぎただろう。
 ふとシエナは、眠気で歪む青い瞳をそっと開いた。
 何か音のようなものが聞こえたような気がしたのだ。それも、喋り声のようだった。
 シエナはいつの間にかうつ伏せになっていたため、開いた視界は真っ暗だった。僅かに枕と毛布の隙間から部屋を見てみたが、灯りはとうに消えているため明るさは何も変わらない。
 徐々に暗さに慣れたのか、ぼんやりと部屋の構造が見えた。薄布の向こうにある窓はまだ闇に染まっている。早く寝付いたため途中で起きてしまったのだろうとシエナは思った。ならばまだ時刻は真夜中なのだろう。
 もう一度寝てしまおうとシエナは体勢を僅かに変えた。
「……だ」
 その時、静寂の中でシエナは何かを聞いた。
 霧がかったような鈍い思考の中、蚊の鳴くようなその音はすぐに空気に溶けてしまった。
 聞き間違えではないだろうかと、薄目のまま何となくそちらを向いてみる。
「……ね……」
 小さな背中が微かに見えた。寝る前と同じ場所に座り込む、子供の影。
 シエナは睡魔に襲われながらも、その姿を確かに見た。
 まだ起きていたのだろうかと僅かばかりの疑問が浮いたが、不死者である彼が睡眠を必要としていない事実を思い返した。
 今夜は別に眠くないのだろうと一人で判断し、シエナは再び瞼を閉じた。
 さざ波のような呟きがしばらく耳に入ってきたが、それもすぐに聞こえなくなった。




第五十三話:夜半…END
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