異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
 第六章 Ten years ago

第四十九話 十年前のあの日 -4-
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「フォードっ! 無事でしたか」
 霞み出した視界の中、フォードは凭れていた壁から顔を上げた。
 煤と火傷、それに大怪我をこさえたディラが覗き込んできていた。彼も呼吸を乱していたが、その青い瞳はきちんと開かれている。
 彼はまだ生きているのだと思うと、フォードは耐えていた嗚咽をとうとう漏らしてしまった。
「母上も、イウィリも、あいつらにっ……何にもしてないのにどうして?」
 崩れ落ち始めた天井に気を配りながら、ディラはフォードの嘆きをただ受け止めていた。

 咄嗟に逃げ込んだ屋根裏に続く階段は、外の喧騒とは裏腹に静かだった。
 響く少年の泣き声と、自分の乱れた息を聞きながら、ディラは何かを決意したように立ち上がった。
「良く聞いて下さいフォード。侯爵も、亡くなりました」
 泣きじゃくる子供の表情が凍ったことを痛々しく思いながら、ディラは口調を緩めなかった。
「でも貴方はまだ生きています。だから、まだ生き残ることを手放してはいけません。分かりますね?」
 一言ずつ諭すように、ディラは語りかけた。
 それが昨日の勉強を見てもらっていた時と何ら変わらない響きで、フォードは再び涙を流した。

「いたぞ! こっちだ!」
 誰かがディラを見つけたようで、長い階段に足音が聞こえ始める。
 ディラはフォードの身体を起し上げて、手を引いた。しかし、先程から続いている痛みのせいなのか全く足に力が入っていない。
「フォード、貴方背中を」
「さっきからずっと痛いんだ。頭も、くらくらする」
 訝しげにディラはフォードの背を見た。小さな身体に刺さっている数本の矢を見止め、そこから信じられないくらいの血が溢れていることに気付く。
 自分もまた満身創痍であるディラは、それでもフォードを必死に支え上げて階段を登り始めた。
 疲労と失血、そして燃えている炎のせいで酸素がうまく取り込めない。頭がうまく働かず、手足が痺れてきた。
 それでも、ディラは輝きを失わない瞳で前だけを見つめて進み続けた。


 屋根裏に辿り着いたディラは肩から崩れ落ちた。成人男性の体重を支えきれず、フォードも共に床に倒れ込む。
 ディラは這い蹲り、小さな納戸の扉を開く。
 そこに有無を言わせず、フォードを押し込んだ。
「開けて、開けてよディラ!」
 固く閉じられた扉を叩き、フォードは小窓を見上げた。ディラが寄りかかっているため、納戸はびくともしない。
「こっちだ! お前で最後だ、異端者め!」
 階段を駆け上がる複数の足音は、すぐ側までやって来た。
 小窓とディラの背中の隙間から、ぎらついた目をした人間達の顔が見える。フォードは無意識に喉を引き攣らせ、握っていた拳を震わせた。
 彼らはフォードのいる納戸に気付くことなく、手こずらされた鬱憤を晴らすように有りっ丈の罵声をディラに浴びせた。

 怖くて全身が竦む。
 けれど、縋るように見上げたディラの横顔は決して臆することなく、それどころかゆるりと笑んだ。
「生きて。貴方だけでも、幸せを探して――」
 鈍い音がすぐ側で響き、青年の身体を貫通した槍が、納戸の扉にまで突き刺さった。
 フォードは瞬きもできず、目を限界まで見開いた。叫びたいのに喉がからからで、泣き出したいのに涙は全く出なくなっていた。

 ディラはぼんやりと窓から見える、燃えていく山の自然を眺めていた。
 そして、込み上げてくる血塊を吐き出しながら呻く。
「綺麗なあの白い花も……もう見れないんだね……」
 瞼を閉ざして、彼はそれっきり動かなくなった。


 階下で柱が燃えたのか、屋根裏部屋が急に傾いた。そこにいた人間達は慌てた様子で階段へと戻っていく。
 フォードは襲い来る浮遊感と空虚感を同時に感じていた。
 間もなく屋根が崩れ落ち、空が見えた。夜の訪れと共に、雨が降り始めていたのだろう。浄化の雨により聖火の火の手が抑えられ、家屋は殆ど崩れずにいた。
 屋根の倒壊と共に雨が内部に侵入し、やがて炎は鎮火していった。

「おや、こんなところにまだ杭を刺していない子がいますね?」
 呆然と納戸の中で座り込んでいたフォードは、耳障りな声に顔を上げた。
 真っ黒な司祭が、正面の屋根が潰れた場所を覗き込んでいた。フォードの入っている納戸の対がそこにあったはずだった。

 彼は不意に思い出した。
 この納戸の反対側に、イルムが守ってくれといっていた弟がいたのだ。この現状のことを何も知らずに、震えながら一人ぼっちで。
 あまりの恐怖で忘れてしまっていた。その事実がフォードを酷く責め立てた。
 人に頼ろうとしない兄が、唯一くれたフォードとの約束。なのに今目の前で、守るべきはずだった弟は異端審問官に引き摺り出されている。

 制止の声を上げたかった。けれど、声を上げてしまえば自分の存在にも気付かれてしまう。
 そして、自分もまた皆と同じように殺されるのだろう。
 そう思ってしまうと、身体が鉛のように硬直して動かなくなってしまう。

 エンドはすでに仮死状態だった。あの狭い納戸では屋根の重さに耐え切れず、押し潰されたのだろう。
 始めて見る弟の全身は、枯れ枝のように痩せ細っていた。日の光も、まともな食事も、運動もできなかったのだから当たり前だ。
 掴み上げている木偶人形の太い手と比べると、一層哀れだった。
「杭を打って向こうに並べなさい。吸血鬼は全員八つ裂きにしなければ、生き返りますからねぇ」
「ハーヴィ様。こいつはどうします?」
 木槌を持った男が、ハーヴィに向かって尋ねた。指差した方向には、ディラの死体があった。
 ハーヴィはその姿を嘲笑い、楽しげな口調で答える。
「放っておきなさい。ただの人間がこの状態で生きてるわけがないですからねぇ」
 確信めいた口調に、男は首を傾げながらも従った。
 ハーヴィはディラが単なる普通の人間だと知っていたのだと、虚ろな思考の中でフォードは思った。



 込み上げてくるものは一体何なのか。
 フォードは、幽鬼のような顔付きでふらふらと扉を開けた。
 もうここには誰もいない。ただ静かに、雨が降り落ちるだけ。
 屋敷の前では何十人もの吸血鬼の死体が並んでいるだろう。首と胴体を切り離され、人々の怒りの矛先を向けられて体中に銀製の武器が刺さっていることだろう。

 扉を開けた拍子に倒れたディラの遺体を、フォードは無表情に見下ろした。
 背中の痛みはすでに麻痺している。今彼の中にあるのは、混沌ばかりだった。
 フォードは無言で座り込み、足元の血溜まりに手を伸ばす。指先についた他人の血を見つめ、それを舐める。
 受け入れたくない、と身体は正直に訴えた。嘔吐感が迫ったが、フォードはそれを無視した。
 ディラの身体を仰向けにし、槍を外す。
 途端に血が溢れ出したが、フォードは汚れることも構わず傷口に両手を差し入れた。傷口を無理やり広げ、顔を近付けた。

 ごくり。

 一口。二口。
 陰惨で生々しい音を立てながら、フォードは夢中で赤い液体を貪った。

 ごくりごくりごくりごくり。

 吸血行為が綺麗なものだなんて、人間は勝手に想像しているけれど。
 では、今の自分は何なのかと問いたかった。
 恩師の腸を裂いて、本能の赴くままに血を飲み干す。理性を失くした、獣のような自分は。


 背中の傷が塞がっていくことを感じて、フォードは顔を上げた。魔力が帯びたため、回復力が飛躍したのだ。
 硬い音を立てて落ちる銀の矢に視線を這わせる。すると、ディラの胸元から血塗れのハンカチが出ていることに気付く。
 そこからはみ出している、血で光る四葉にも――。
「何が、幸福の守りだ!」
 空っぽだったフォードの中に、憤怒と自責と激しい憎悪が燃え上がった。
 彼は四葉を掴み上げ、自分の手で握り潰した。
 こんな何の役にも立たないものが幸せの象徴のわけがない。そんなものを信じていた自分が、なんて愚かだったことだろう。

「幸せなんて探せないよ、ディラ」
 フォードは無邪気に思えるほどの笑みを浮かべた。
 幼い顔に貼り付けた、世界中の全てを見下したような嘲笑。紅の瞳は、獲物を探すかのようにぎらついていた。
「だってこいつの花言葉には、復讐という意味もあるじゃないか!」
 闇の満ちていく北の山で、子供が狂ったように笑い声を上げる。
 知らずに流していた涙は顔に付着していた血痕と混ざり合い、不死者の流す血の涙を彷彿させた。


 そして、五年後。
 成人を迎えたフォードは、復讐劇の幕を開けた。




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