異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
 第六章 Ten years ago

第四十八話 十年前のあの日 -3-
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 ディラの告げた凶報が侯爵に伝わった時には、すでに麓から押し寄せた人々に屋敷は包囲されていた。
 焦げ臭いと感じたのは、彼らが携えている聖火の松明のせいだった。
 山道を登ってきた際に、草木に火が移ったのだろう。ディラが身を粉にして耕してきたシュタイト山の自然が、見る間に黒い煙に変わっていく。オレンジ色だった空は黒ずんでいった。
 人々を率いている異端審問官は吸血鬼退治を熟知しているのだろう。これでは結界を張られたようなもので、飛んで逃げることも叶わない。

 フォードは窓から見える黒い法衣の異端審問官達が、恐ろしい悪魔のようだと感じた。
 実際、彼らからは生きている気配がしない。ゆらりと影のように立つ姿は、ただ命令されるままに動く木偶人形だ。
 その後ろでいきり立つ村人達は、そんな怖気ましい者にも気付かない。血走った瞳は、獣のように理性を無くしているようにさえ思える。
 中心人物らしき司祭は目深くフードをかぶっていて、異端審問官の中で唯一人間だということが窺えた。覗いている口元は始終笑みを湛えている。青白い肌に浮かぶ紫色のルージュが、不気味につり上がっていた。

 彼らと対峙しているのは、フォードの父と何人かの従者だけだった。
 他の者はフォードと同じく屋敷の中で固唾を呑んで見守っている。侯爵夫人は産後の体調不良のため、フォードの妹と共に寝室にいた。ディラは肩の怪我を手当てするため、居間のソファで横になっている。

「なるほど、奥方。これは確かに始祖の吸血鬼。密告ありがとうございます」
「早く裁いてちょうだい! ディラが喰われてしまうわ!」
 司祭がにたりと笑い、隣にいたディラの妻に告げた。彼女は興奮した様子で、異端審問官に懇願した。それを横目で見る侯爵は忌々しげに眉を寄せている。
 侮蔑を含んだ言葉に控えていた従者が声を荒げた。
「そんなこと! 今までだって我々は決して人を襲ったりしていないではないか!」
「そうやって騙しているだけよ! あんた達に惑わされているディラは私が守るわ!」
 彼女は聞く耳持たず、遮るように言い放った。

 彼女に共感したのか、村人達も口々に吸血鬼を罵った。
「司祭様! こんな化け物がいつまでも居座っちゃ、俺達も安心して暮らせねぇ! 早く退治しましょう!」
「化け物め! 今日こそは山から追い出してやる!」
 石を投げる者もおり、侯爵や従者達の端整な顔にいくつもぶつかる。
 その度に屋敷にいる者達は、目を伏せた。彼らの痛みは自分達と同じなのだ。長い年月の中、ようやく得た安住の地がこんな形で終わりを告げるのだという絶望を感じながら。

 フォードは外の様子を見ていられず、顔を背けた。
 壁に背中を預け、そのままずるずると床に座り込んだ。
 罵倒する人々はディラと同じ人間なのに、まるで違う生物のように恐ろしく醜く感じられた。

「皆、止めてくれ!」
 聞き慣れた声にはっとし、フォードは再び窓辺に近づいた。
 居間にいるはずのディラが、吸血鬼と異端審問会の間に割って入っていた。
 肩には包帯が巻かれていたが、止血して間もなく動いたためかじんわりと血が滲み始めていた。
「彼らは何もしていない! 吸血鬼は確かに血を吸うが、決して命まで奪わない。互いに誠実さを失わなければ、私達は必ず共存できる。隣人として共に生きていけるはずだ!」
 激昂して叫ぶディラを始めて見たフォードは、じっと彼を凝視していた。
 今までにない鋭い口調は、吸血鬼達への真摯な気持ちが込められている。
 穏やかに過ごせた日々のことをどれほど誇りに思っているのかは、言葉の端々から伝わってきた。

 両手を広げて阻む青年に、村人はざわめいた。惑わされていると聞かされていたディラの目には曇り一つ無い。彼らは困惑したように、司祭の指示を仰ぐ。
「おやおや、これはいけませんねぇ。奥方、彼は完全に虜となっていますよ。早いうちに刑を処さねば、完全に吸血鬼となってしまうでしょうねぇ」
 縋るような彼らの視線を受け、司祭は嘲るように笑った。
 ディラは信じられないとばかりに目を見開いた。後ろにいた侯爵達もまた、ありもしない狂言に驚きを隠せない。
 たとえ始祖の吸血鬼に噛まれたとしても、生きている人間が吸血鬼化するはずはない。それは人間の世界でも知られていることだ。
 しかし、煽られている村人達には冷静な判断がつかないらしい。
 ハーヴィの一言で、彼らはディラを仇のように睨み付けた。

 ディラの妻は司祭に縋り、金切り声を上げた。
「ハーヴィ様、どうすればいいのですか! ディラがあんな化け物と同じになってしまうのは耐えられないわ!」
 泣き出しそうな彼女に、ディラは悲しげな視線を送る。
 彼女は彼女なりにディラを大切に思っているのだろう。けれどそれは一方的な価値観が押し付けられている形でしかない。ディラという男の本質を認めず、ましてや見ようともせずにただ排斥しようとしている。
 そんな考え方しかできず、暮らしの中でも変われることのなかった彼女が哀れに思えた。

 司祭のハーヴィはフードを微かに上げ、感情を宿さぬ目を細めた。
 それを見た者達は、背筋に寒気が走ったことを感じていた。
「簡単なことです。清めた銀で射殺せばいい。――この吸血鬼のようにねぇ?」


 戦慄が、息苦しい空気の中を駆け抜けた。
 状況を窺っていた全ての吸血鬼は、呼吸も瞬きも忘れてしまったかのように目の前の現状をただ呆然と視界に納めていた。
 フォードは迫り上がってくる悲鳴の塊に、気管が塞がれた感覚を味わった。

 木材で組まれた磔柱が、村人の波間から立ち上がった。
 だらりと弛緩した手足を柱に括り付けられた者が誰なのか、遠目から分かってしまった。
 ぼろぼろの翼を縫い付けられ、侯爵の長子イルムは胸に白木の杭を打ち込まれていた。

「貴様ぁぁっ!」
 今まで冷静を保とうとしていた侯爵が、ついに逆上してハーヴィの元へと飛びかかっていった。周りにいた従者も、屋敷で見ていた使用人達も一斉に異端審問官達へと強襲を仕掛けた。
「ほぅら、これが吸血鬼の本性さ!」
 ハーヴィは怒り狂う彼らの様を嘲り笑い、他の黒服達に弓を引かせた。
 降り注ぐ銀の矢じりの雨が合図となり、恐慌する村人達も武器を持って一斉に動き出した。囲まれていた屋敷には、間もなく聖火が放たれた。



 フォードはがむしゃらに廊下を走っていた。
 牧草も屋敷も火の手があっという間に広がり、こじ開けた通用口から人間達が侵入してきている。悲鳴と怒声、そして大勢の足音が色々な場所から響き渡っていた。

 今、何が起こっているのか。少年には到底理解し切れなかった。
 兄は死んだ。父はあの司祭と戦っている。家は燃える。人間は自分達を殺そうとしている。
 次々と襲い掛かる日常とかけ離れた事態に、フォードはただ恐怖した。

 涙で滲む視界を拭いながら、フォードは角を曲がった。
 その時、足元を小さな影がすり抜けた。
「エルヴィーナ?」
 煤で汚れた毛並みの猫が、首の鈴を鳴らして奥の部屋に駆けて行った。尾が二つに分かれているあの猫は、侯爵夫人の従属だ。
 いつもはおしとやかに歩く彼女が、あれほど急いでいるとなると母の身にも何かあっただろう。
 何より、エルヴィーナが飛び込んだ部屋は侯爵夫妻の寝室だ。
 フォードは真っ青になって、開きっ放しの扉へ走り込んだ。

 シルクのベッドは赤黒く染まっていた。
 人間の男達が、その中心で倒れている女性に杭を打ち込んでいる。抵抗にあったのか、何人かは壁に打ち付けられたまま動かなくなっていた。揺り篭の中では、生まれたばかりの赤子が胸を杭で打たれ絶命していた。
 エルヴィーナが激しく威嚇している。男達がフォードに気付き、ゆっくりと顔を上げた。
 そのどれもが現実味を持たず、フォードは女性と赤子を凝視した。
「母上……イウィリ……」
 大好きなディラが名付けた妹の名を、逃げ出すことも叶わず殺された母親を、フォードは震える声で呼んだ。

「化け物め! まだいたのか!」
 無防備に立ち竦むフォードに、男達は槍を構えた。エルヴィーナはフォードを促すように、彼の足元に身体をぶつけた。
 フォードは弾かれるように部屋を出た。迫り来る銀の刃を間一髪で避け、今来た道を戻った。
 逆側の階段からは、今の怒声に気付いた他の人間達が上がってきていたのだ。
 必死で角まで走り抜けようとしたフォードは、突然背中に複数の衝撃を受けた。そのまま、彼は廊下の角へと押し出された。
 焼け付くような痛みが、そこから全身に回る。
 けれど、足を止めるわけにはいけなかった。捕まれば殺される。母のように、兄のように――。




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