異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
 第六章 Ten years ago

第四十七話 十年前のあの日 -2-
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 一頻りお喋りに興じていたフォードは、天窓から差し込む斜陽の光に気付いた。
 それを見たイルムは、不意に立ち上がった。裾についていた埃が衝撃で舞い上がり、光の中できらきらと反射した。

「にいさま、いっちゃうの?」
 納戸の小窓からエンドが泣き出しそうな声を上げた。
 薄暗い隅も、夕日が差し込むと昼間よりも明るくなる。橙色の光がエンドの持つ色素の薄い金髪を輝かせ、この時間帯だけはフォードはエンドの姿を見ることができた。
 不安そうな金色の双眸を捉えたフォードは、困ったように兄に振り返る。

 イルムは険しい表情を浮かべていたが、二人の弟の視線を受けて、安心させるように少しだけ強張りを溶かした。
 だが、それでも眉は吊り上がったままで眉間には皺が刻まれたままだった。
「ごめんな、エンド。もうすぐ出してやれそうだから、それまで我慢してくれよ」
 良い子だから、とあやすように言えば、聞き分けの良いエンドは伸ばしていた手をすごすごと納戸の奥へしまい込んだ。
 そしてフォードは、イルムに促されるまま屋根裏部屋を後にした。何度も振り返りながら。


 階段を下がりながら、固い声音でフォードは兄に尋ねた。
「兄上はエンドを連れて家を出るの?」
 前方を行く長身の男は、無言で頷いた。
 嫡子である彼が家を出ることは、両親が共に許さないだろう。けれど自由奔放で曲がった事が大嫌いなイルムのことだ。勘当されることも構わないのだろう。
 そこまでの覚悟を、彼は決めている。
 フォードは何も言えずに押し黙った。

 しばらく沈黙が続いたが、階下が見えてきた頃にイルムが口を開いた。
「すまない。この家の重みをお前に背負わせてしまうな」
 聞いたことのない兄の真摯な言葉に、フォードはただ首を振る。
 この生活は苦ではない。むしろ気に入っている方だ。イルムが気に病むことは何もないのだと、フォードは兄に伝えた。
 ほんの少しイルムが笑ったような気がした。


 階下に辿り着き、イルムは廊下の窓辺に寄った。
 フォードが夕日に気付いた先程から、何かを感じているようで外を気にしている。
 成人していないフォードに吸血鬼の魔力は備わっておらず、大人達のように何かの異変を感知することはできない。けれど、この時ばかりはイルムが気にしている存在をフォードは察知できた。
 ディラと夫人がまだ屋敷に帰ってきていない。
 夜の山道は危険なため、彼らはいつも日の沈まないうちに帰ってきている。それが、今日はまだ見下ろす山道にすら姿が無かった
「嫌な予感がするな。俺は少し見てくる」
「あ、兄上! でも……」
 露台に上がり麓を見下ろしていたイルムは、無造作に手摺りに足をかけた。
 兄の行動に驚いたフォードは一瞬止めようとしたが、ディラが心配なのは自分も同じだ。困ったようにうろうろと視線を彷徨わせながら、少年はイルムを見上げた。
「心配するなって。その代わり、こっちで何かあったらエンドのこと頼むな?」
 くしゃりと頭を撫でられ、フォードはおずおずと頷いた。
 イルムは紅い翼を広げ、たちこめてきた雲の間に消えていった。その背中をフォードは不安げに見送る。持ったままの花冠は、無意識の内に強く握り込まれていた。



 徐々に薄れていく西日に、心を覆う焦燥感が募る。
 あれから半刻しか経っていないが、兄の翼では麓まで行くには十分な時間だ。
 父や母も帰りを心配していたが、イルムが様子を見に行ったことを伝えると少しは気が落ち着いたらしく、今は居間で待っている。

 フォードは一人、玄関前の廊下をうろついていた。手の中の花冠はすっかりくたびれている。
 「フォード様、そんなに力を込めては萎れてしまいますよ」
 見かねた使用人に言われ、フォードは項垂れた。
 いつも通りの時間にディラが帰ってきていたのならば、もう少しましな状態だったはずだ。これではプレゼントするにはみっともない。
 これもあの夫人のせいだ、と子供らしい八つ当たりを心中でしながら、フォードは暮れる空を見上げる。
 優しい青年に渡したあの幸運の証が、役に立ちますようにと彼は願った。


 しかしそんな少年の祈りも通じることなく、事態は急変した。

 突然、玄関の扉に鈍い衝突音が響いた。
 フォードは慌ててそちらに視線を転じた。何事かと使用人が数人集まってきている。彼らは困惑した様子で、ゆっくりと重厚な扉を開いた。
 途端に鼻についたのは、草木の焼ける煙の臭い。
 内側に開く扉には、荒い息を吐いているディラが寄りかかっていた。
「ディラ様、お怪我を? 一体何があったのですか」
「侯爵に知らせてくれ! 麓の村人達が異端審問会を連れてここに来る!」
 切羽詰ったディラの言葉に、使用人達の顔色が一気に青褪めた。一人が居間に駆け出し、残った者達はディラを担ぎこむなり慌しく扉を閉めて錠をかけた。
「ディラっ!」
 整わない呼吸をそのままに、片膝をついているディラの側にフォードは走り寄った。
 細い金糸が汗で顔に貼り付き、左手で押さえている右肩は赤く滲んでいる。破けた服の中には酷い傷があるのだろう。

 フォードは始めて見た血に、息を呑んだ。
 吸血鬼は成人する時に初めて人間の血液を飲む。魔力を作り出す儀式の一種であるため、いくら年齢が成人まで達していようとも血を飲んだことのない吸血鬼は単に翼ある魔物でしかない。
 しかし身体の小さいうちは別の血が体内に入ることに拒否反応を起すことがあるので、侯爵の息子であるフォードは渇望を覚えないよう一度も他人の血を見たことがなかった。

 そのため、この時突然湧き上がった奇妙な感覚に戸惑いを感じた。
 飲みたい。
 衝動的に浮かんだ欲求に、フォードは戦慄を覚え
 目の前で痛い思いをしているディラに対して、そんなことを考えてしまう自分が恐ろしく思えた。

 よろめきながらディラは立ち上がり、フォードの頭を撫でた。
 いつもなら優しく微笑んでくれる青い瞳が、哀しげに細められた。
「ごめんなさい、フォード。やはりあの人は我々を理解しようとしなかった。共にいればいつかは変われると信じていたけれど、私が浅はかでした」
 酷く辛そうに、懺悔するかのようにディラは震える声を絞り出した。
 その言葉にフォードは辺りを見回した。ディラがこんな状態だというのに、あの人――彼の妻の姿が、何処にもない。

 ディラはフォードに何度も謝った。
 そこに含まれているのは、妻の裏切りに対しての嘆きではないことを感じた。
 もっと重い感情が、彼を支配している。フォードに謝りきれないことを承知しているような、後ろめたい気持ちが言葉の中に渦巻いている。
 帰ってきたディラの代わりに、彼を探しに行ったまま帰って来ない青年の後姿がフォードの脳裏に過ぎった。
「兄上は?」
 漠然とした不安が、急速に形を成していく。
「……私を庇って、逃がすために向こうに残りました」
 ディラは耐えていたものを吐き出すように、静かな涙を一滴流した。綺麗な雫は白い肌を滑り落ちて、フォードの服を濡らす。
 子供の手から、萎れた花冠はするりと落とされた。




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