異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
 第六章 Ten years ago

第四十六話 十年前のあの日 -1-
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 シュタイト山と名付けられたその山は、いまだに地元の者には北の山という別称で呼ばれ続けている。
 元は魔物の住む山として恐れられていたが、ここで暮らしていた吸血鬼の貴族達は部族間の争いのために長らく不在していた。
 その間に王国の土地として組み込まれ、領地として貰い受けたのがシュタイト伯爵一族であった。王国の崩壊と一族の没落の中で、生き残った少年をディラといった。
 彼は戻ってきた吸血鬼と和解し、何年もの間彼らと共に過ごしていた。
 それから時は過ぎ――。


 フォードはとたとたと危なっかしい足取りで廊下を走っていた。使用人に見つかればはしたないと小言を食らうため、曲がり角ではさも今まで歩いていたように静かな足取りに直していた。
 誰にも止められることなく目的地に着いたフォードは、まだ小さい拳を扉に向かって軽く振り下ろした。

 広い屋敷の客室の中でも、こじんまりとしているこの場所がディラの私室だった。
 昔、一人で住んでいた頃は階下の広間で寝起きしていたディラは、侯爵から正式にこの部屋を貰い受けた。本当ならもっと豪華な部屋を提供されたのだが、彼は丁重に断った。
 ディラは机と本棚、それからベッドがあるだけで構わなかった。根っからの学者肌の彼としては、研究に熱中できる環境があればそれで良かったのだ。
 自分が生まれる前にあった詳しい経緯をフォードは知らない。けれど古めかしい紙とインクの匂いで満たされているこの空間が、何だかディラらしくて気に入っていた。

 ディラから軽い返答を受け、フォードは扉を開いた。
「おやフォード。どうしました?」
 小さな訪問者にも笑顔を向けて、ディラが振り向く。彼はどうやら何処かに出かけるようで、よそ行きの礼服を着込んでいた。
「花冠がね、うまくできたんだ。ディラにあげたかったんだけど……」
 忙しそうに鞄に荷物を詰めている青年に、おずおずと話しかけた。

 屋敷の周りには牧草が豊かに生えていて、財産を一切持っていなかったディラは以前から山羊の放牧を行っている。裏の庭園には及ばないが、高原の草原にも小さな花々が幾つも咲いていた。
 それを使ってフォードは、兄から習った花細工を何度も作っていた。ディラにこうして見せに来たということは、自信作が出来上がったのだろう。
「うまくなりましたね」
「でしょう! もう兄上に不器用だなんて言われないよ」
 ディラはくすくすと含み笑いを浮かべた。聞きながらも作業を続け、長い金髪を一つに結って黒い外套を羽織った。

 その時、突然女の高い声が遮った。フォードは途端に口を噤み、弾んでいた会話を止めた。無意識に緊張する。
「ディラ、遅いわ。早く行きましょうよ」
 気位の高さがよく分かる、高圧的な喋り方にフォードは背中を畏縮させた。
 開きっぱなしだった扉から顔を覗かせた女性に、ディラは曖昧な笑みを送った。それから申し訳なさそうにフォードの頭を撫でる。
 振り向かなくても誰がいるのかは分かる。少年は、この女性が苦手でしょうがなかった。
 そしてディラもそのことを承知しているようで、毎回二人が鉢合わせるたびに困ったように笑うのだ。


 彼女は、先日婚姻したディラの妻だった。
 シュタイト家と懇意にあった元貴族の娘で、やはり彼女の家も取り潰されており庶民と同じ暮らしをしていた。
 ディラが所用で山から下りていた際に偶然再会して、彼女の方から求婚したらしい。
 詳しいことをフォードは知らないのだが、急に一緒に住むようになった女性に不安を抱いたのは確かだ。
 侯爵も夫人も婚姻を祝福したが、フォードの兄は断固として反対していた。フォードにも何となく、兄の気持ちは分かっていた。

 彼女が吸血鬼の自分を見る目が、恐ろしいのだ。
 ディラは結婚する返事をする際に、自分が今どんな暮らしをしているのか彼女にきちんと話していた。
 だから、承知の上でこの屋敷に来たはずだ。それなのに彼女は時折、侮蔑の目で自分達を見た。

 怖くなって父と母にも相談した。二人ともそれに対して懸念はしていたが、誰しも最初からディラのように受け入れてはくれないのだとフォードを諭した。
 徐々に彼女も自分達を受け入れてくれるだろう、と侯爵夫人は言った。
 けれども湧き上がる不安は拭いきれず、フォードは今日まで過ごしていた。


 シュタイト夫人は毎月麓の村の教会へ礼拝に行くのが習慣だった。
 女性一人で山道を歩かせるわけにも行かず、ディラもまた共に下山していた。
 今日もその用事なのだろう。

 帽子を被った彼は、居心地が悪げに俯いているフォードに笑いかけた。
「では行ってきますね。きちんと勉強をするのですよ」
「待ってディラ!」
 踵を返そうとした青年を慌てて追い縋り、フォードは手元の花冠から一本引き抜いた。
 それは珍しい四つ葉の白詰草だった。
「おや、幸運の象徴ですね。自分で持っていなくていいのですか?」
「最初からディラにあげるつもりだったから。お守りだから、持ってて」
 ディラは小さな掌からそれを恭しく受け取り、優しくハンカチの中にしまい込んだ。
 そうして、少しだけ子供っぽく微笑んだ。
「大切にしますね」
 行ってらっしゃいと呟いたフォードをもう一度撫でてやり、彼は部屋を出て行った。



 吸血鬼だけとなった屋敷の中を、再びフォードは急いでいた。
 花冠を見せようとして探していた兄が、自室にいなかったのだ。周りの使用人も行き先を知らない。
 それを聞いたフォードは、大体の見当がついていた。家の者に何も告げない兄が行く所は、今のところたった一つだ。

「兄上、やっぱりここに来ていたんだね」
 息を切らせて階段を上りきると、珍しく穏やかな様子の兄の姿があった。
 フォードに気付いた彼は、にやりと質の悪い笑みを浮かべる。
「お前、もうちょっと体力つけた方がいいんじゃねぇか?」
「うるさいなぁ。僕は勉強の方が好きなんだよ」
 貴族にしては口の悪い兄に今更ながら呆れ、フォードは舞い上がった埃に咳き込んだ。

 屋敷の屋根裏は二人にとって共通の秘密基地だった。煌びやかな階下を思わせない、古臭くて薄暗い空間。けれどそこには誰もこない。
 兄のイルムがこんな口調で話しても、フォードがそんな年長者に口答えをしても誰も怒らない。特にイルムは、厳しい父親に会いたくない時はここに入り浸っている。

 フォードは兄に花冠を差し出して、見せてみた。イルムは弟と同じ赤い瞳を見開き、感心したような声を上げた。
「うまいじゃんか。地味な練習したんだな」
 いちいち突っ掛かるような言い草にむっとしたが、天邪鬼な兄の褒め言葉がそれよりも嬉しかった。
 受け取った冠を検分していたイルムは、不意にそこから白詰草の花を一つ摘んだ。
 それくらいでは壊れないのだが、フォードは慌てて兄から花冠を引っ手繰った。ディラに上げる約束をしているのだ。毟り取られてはかなわない。

 一本くらいケチるな、とイルムは弟に笑った。彼は座ったまま、側にあった屋根裏の奥の納戸に腕を伸ばす。取り付けられている小窓に、袖が乱れるのも構わず花を持っていた方の腕を突っ込んだ。
「ほれ、エンド。これが白い花だぞー?」
 楽しげにイルムは目尻を細める。先程までのどことなく意地悪げだった様子は一変し、彼は優しげな面差しを浮かべた。
 小窓の中で白詰草を微かに揺らしてみれば、納戸の向こうから病的なほど白い小さな手がそれを掴んだ。
「……はな? ……きれいだね」
 受け取った幼いその手を思わせる、か細い声が返事を返した。
 フォードはそれを確認し、安堵の息を吐き出した。


 打ち捨てられたような屋根裏。鍵がかかった納戸。こんな暗くて寂しい場所が屋敷の中にあることをフォードは知らなかった。
 ある日、イルムが誰にも――ディラにも話さないという条件でここに連れてきた。
 そこで出会ったのがこの、納戸の向こうの住人であるエンドだった。
 初めて会った時のエンドは人の気配に酷く怯え、なかなか声を発することはなかった。それ故にイルムとフォードに慣れた今でさえ物静かで、時折そこにいるのかフォードは不安を覚えることがあった。

 イルムが父を嫌っている理由の最たるは、この子供が原因なのだろうとフォードは察していた。
 エンドは二人にとっての異母弟にあたるのだ。
 無論、大人達の事情に疎いフォードはエンドの母親が誰なのか、どうして腹違いの弟がいるのか、父が何故その事実を隠しているのか、よくは分からなかった。
 けれど生来呑気なイルムが、本気で激昂している姿を見てしまったからには嘘だとは思えない。

 何らかの不幸が重なり、エンドはこうして閉じ込められている。閉じ込めた相手は自分の父であり、兄はそれをとても怒っているのだ。

 理解ができたのはそのくらいで、幼いフォードは突然弟ができたことを無邪気に喜んだ。
 父と母は生まれたての実妹に、ディラは彼の妻に取られてしまっている今では、イルムと共にこうして三人で秘密の話をするのが日課だった。




第四十六話:十年前のあの日 -1- …END
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