異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
 第五章 幸せの形

第四十三話 長い夜が終わる -2-
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 診療所へ運ばれたエルは、麻痺していた痛覚が徐々に蘇ってくる感覚を味わっていた。
 診察台の上でもがくように身を振るわせる。
 手元にあった布の感触に気付き、反射的にそれを握り締める。奥歯を食い縛る頬に、脂汗が滲んでいた。

 彼女の辛そうな表情を見ながら、ソフィアはもまた耐えるような顔つきで側の長椅子に腰掛けていた。
 治療が終わったフリードリヒは幾度か逡巡し、それからエルを見た。
 波のように襲ってきた感覚にも慣れたのか、彼女は眉を顰めながらもしっかりと目を開けている。

「あまり深くは訊きません。貴方が魔物だとしても、町の人に危害を加えたことは一度もないのでしょう?」
 その言葉にソフィアの肩が震えたが、エルは満足気に微笑んで深く頷いた。
「ええ。だってこの町は、友達のいる大切な場所だわ」
 ソフィアは弾かれたように顔を上げた。診察台のエルと、視線が交わる。
 いつものお姉さんぶった親友が、そこにいた。

 察したフリードリヒは席を外そうと立ち上がった。
 古い木目の扉を引けば、きしりと蝶番が音を立てる。ノブを持ったまま、彼は一度振り返った。
「その気持ち、よく分かります。種族が違えど、忌まわしい思い出があろうと、得た居場所はすぐに捨られるものではありませんからね」
 フリードリヒはそう言いながら、過去を思い出す。


 病魔から救えなかった母。優しかった伯父と伯母。
 彼等は、フリードリヒに温かいものを確かに残した。欲望で穢された一族の名前を捨てきれずに、孤児達を守りながら医者を続けているのは、生きられなかったその人達を忘れられないからだ。

 それから魔物となった――自分がそうさせてしまった少年の姿が浮かぶ。
 生きているはずがない身体を持ちながらも、彼の性根は何も変わらずにいた。
 何も、変わらないでいてくれた。


「失ってから気付くのは、遅いんだ」
 自分に言い聞かせるように呟いたそれは、静かな部屋によく響いた。
 フリードリヒは微かに笑んで、今度こそ診察室から出て行った。



「ねぇ……エル」
 エルはしばらく扉の方を眺めていた。
 そこへ、ソフィアは小声で語りかけた。
「エルが魔物だって今でも考えると少し怖い。でも、何か納得しちゃった」
「納得?」
 照れるように苦笑いを浮かべるソフィア。彼女の聞き捨てなら無い言葉に、エルは瞠目する。
 魔物だと悟られたことは一度も無いはずだった。彼女自身、魔物であった自分の姿を忘れかけてしまっているのだから。

 ソフィアは頷き、昔を懐かしむように目を細めた。
「エルは魔法の国からやってきた女の子なんだって、初めて会ったとき思っちゃったからさ」
 思わずエルは吹き出した。
 両親を失った悲しみを押し殺していたソフィアが、そんなことを思っていたとは意外だ。
 くすくすと笑い続ける親友を、ソフィアは横目で眺めながら自分でも笑った。

「わたしの本当の名前はエルヴィーナ。可憐な猫、という意味なのよ」
 エルは診察台から上半身を起こし上げ、祈るように腹の上で両手を組んだ。
 そうして温かに微笑むと、本当に母親のように見える。魔物である彼女は、きっと見た目よりも随分歳を食っているのだろうとソフィアは感じた。
「可憐な猫? 何処の言葉? エルの生まれた場所?」
 興味深々と質問を並べるソフィアに、エルは困ったような笑顔を浮かべる。
 その表情は、今朝名前の意味を尋ねた時のフォードと重なった。

 ソフィアは声を失う。
 フォードは彼自身の名前の意味を知っていたのだ。けれど教えられなかった。エルと、同じ理由で。


「エルヴィーナ、というのはね、ソフィ。吸血鬼の言葉なの」


 ――彼の名前も、吸血鬼の言葉だったからだ。



 エルは哀しげに目を伏せてしまったソフィアの髪を撫でながら、様々なことを語ってくれた。

 親とはぐれた化け猫が、エルヴィーナと名付けられたこと。
 拾ってくれた主が吸血鬼の女性で、彼女の従属としてずっと一緒にいたということ。
 その人が、北の山で先程の異端審問官に殺されてしまったこと。

「十年前のあの事件で、なのね」
「そう。だからハーヴィは逃したわたしの探していた。けれど本当は、違うはずよ」
 真剣な顔付きになったエルは、膝掛けをぐっと握り締める。
 まるで威嚇する猫のように。
 彼女の言葉が奇妙に思え、ソフィアは聞き返した。
 エルは、静かな怒りを灯しながら声を一呼吸後に絞り出した。
「わたしを使って、吸血鬼を燻り出そうと考えていたはずよ」

 途端にソフィアの背中が強張ったことを、エルは感じていた。
 それを和らげるように、彼女は溜息をゆっくりと吐いた。
「店に来た時ね、フォードさんが何者なのか、わたしは分かっていたわ」
 怯えている心を解き解すように、エルは一言一言間を開けて丁寧に話した。

 自分が魔物だと知っても、親友と呼んでくれる人間の少女。
 彼女には、せめて理解して欲しかった。


 エルはソフィアが彼に向けている視線の意図を良く知っていた。
 惚れっぽい性格である少女は、寂しさを埋めるように宿に訪れる旅人に昔からそんな目を向けていた。
 羨望のような憧憬のような、曖昧な気持ち。それがフォードに対して、輪郭を伴い明確な形を得た。
 彼女が彼の何に同調したのか、側に――ソフィアの側は勿論、フォードの側にも――いたエルには痛いほど伝わった。
 それ故に青年の闇に立ち入ってはいけないと、無言でソフィアを牽制した。

 吸血鬼の傍に人間がいれば、双方に不幸が降りかかる。
 そういった現実を見てきたエルは、二人がたとえ結ばれようとも幸せになれるはずがないと思い知っていた。
 ソフィアにも、フォードにも、同じ轍を踏んで欲しくは無かった。

 けれど、とエルは続けた。
「今はそれが違うようにも思える。触れないことが、傷つけ合わないことだとは限らないんだって」
 彼女の言葉が指し示しているであろう人物を、ソフィアは鮮明に思い出せた。

 不思議な空気を纏う、青髪の少年。
 彼が臆することなく放った言葉の数々。行動を伴うことで、宿の人々やフリードリヒを動かした事実。
 自分が直接聞いた声の真剣さと、後から聞いた宿でのシエナの発言にソフィアは心底驚いていた。
 何より、あの青い眼差しが脳裏に焼きついて離れなかった。

 シエナは体現しているのだ。
 踏み出す勇気のあり方を。


 エルは手を元の位置に戻した。
「ソフィア。失ってからじゃ遅いのは、あんたが一番知っているでしょう。きっと後悔するわ」
 常に愛称で呼ぶ彼女に、正式な――知識という意味の名前で呼ばれ、ソフィアは戸惑ったように顔を上げる。
 フリードリヒの呟きを繰り返し、エルは言う。寂しそうな笑顔を湛えながら。
「わたしはいつも後悔だらけだった。泣いていた彼を、一人ぼっちにさせてしまって……」
「エル?」
 怪訝な顔をしたソフィアに慌てて首を振り、エルは彼女の背中を思い切り叩いた。
 いきなりのことで驚いたソフィアは、憤慨したように立ち上がる。
 エルは声を上げて笑った。

「ソフィがわたしのこと少し怖いと思うのはね、あんたの方が線を引いているせいよ」
 確信めいた物言いに、ソフィアはどきりとする。振り上げかけていた手が、うろうろと彷徨う。
 先程の広場で、エルが魔物だと知らされたときに感じた得体の知れない恐怖の正体。変わってしまうのは自分の心。それが、一番怖かった。

「でもあんたはわたしを受け入れてくれた。それは、どうして?」
 笑いながら見上げてくるエルと視線を合わせられず、ソフィアは見当違いの場所を眺めた。
 少しだけ震える声音で、恐る恐る答える。
「エルが魔物でも、エルはエルなんでしょ?」
 普段から抑揚のある喋り方をするソフィアの、珍しい子供っぽい言い回しが、彼女の気持ちを最もよく表していた。
 それが嬉しくて、エルは破顔した。
「だから、そういうことよ」

 きょとんとするソフィアとは対照的に、エルは茶目っ気たっぷりに片目を瞑った。
「フォードさんを好きになった理由って、種族が前提じゃないでしょう?」
 頬を赤く染めた親友の姿に、エルは再び笑い声を上げる。
 目の端に涙が浮かんだ。
 想いを伝える権利などのない薄情な自分よりも、素直に感情を表す彼女が少しだけ羨ましく思えた。




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