異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
第五章 幸せの形
第四十一話 だから僕は
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目の前に青い髪が。その房の奥には、深い色彩を見せる直情的な瞳がある。
――シエナが、そこにいた。
「あ……」
今まで止まっていた呼吸が再び始まったように、フォードは大きく息を吐いた。焦点が合わなかった彼の瞳に、現実が舞い戻ってくる。
聖火が揺れる闇の中。囲む黒装束。自分を見下す冷たい瞳の異端審問官。同じ条件の景色は、決して十年前の北の山ではない。幻のように駆け巡った記憶の中で殺された子供は、もういない。
フォードは幾度か瞬きをし、シエナの存在を認めた。
自分が何をしでかそうとしたのか理解したフォードは、困惑したように視線を落とす。少年は何も言わずに悪戯っ子のような笑みを浮かべ、少し高い位置にあるフォードの肩を軽く叩いた。大丈夫、と言われたような気がした。
そのことで急激にフォードの身体から力が抜けた。魔力の流動も収まり、二枚の翼も姿を消した。
フォードの様子が安定したことを確認し、シエナは笑みを消す。勢いよく振り返り、元凶である者を睨み付けた。
暴走を食い止めたとしても、根本的に解決はしていない。
ローレンはいまだハーヴィの手の内なのだ。
魔物の本性から人間と変わらぬ姿まで戻ってしまったフォードと、彼に言葉を投げかけたシエナ。確かな信頼の形を持つ二人を、ハーヴィは忌々しげに眺めていた。
理性を見失いかけた吸血鬼の前に、怯むことなく両手を広げた少年。彼の真摯な言葉の数々。
信じるということを決して忘れないその行動を目にしたハーヴィは、苦痛にも等しい感情を抱いた。
珍しい青髪は、異端審問会にとって格好の餌食になる要素だ。彼は魔物ではないかとハーヴィは薄々感じている。最も、人間も魔物だとして裁く事のある彼にとってはどちらでも関係がない。
シエナに興味を持ったのも、同じ色彩を宿した髪と目だった。
新たな玩具を見つけたようにハーヴィは内心で喜んだ。
しかし少年の瞳に宿る光を見た瞬間、その気持ちは嫌悪に摩り替わっていた。
子供のような無垢なそれは、単なる無知の愚かさから来るだけのものではない。
誰も見限らない、芯の強い意志があった。
信じること、受け入れることは、異端審問官であるハーヴィにとって相反するものだ。
常に誰かを陥れ、人身御供を差し出すように人心を誘導させ、愉悦と共に断罪の祝詞を口ずさむ。
それが異端審問の司祭の役目であり、誰よりも残虐に実行できる者がハーヴィであった。
仲間内からも恐れられ、遠ざけたいがために僧正に幾度も遠征を命じられている黒の司祭。
だからこそ、シエナに対する嫌悪感は人一倍大きいものだった。
動くことのない表情はそのままに、ハーヴィはぎらついた眼を返した。
シエナは僅かに怯む。けれど威嚇した容相は崩すことがない。
ハーヴィは掴んだまま放置していた手に、勢いよく力を込めようとした。
木偶人形に拘束されたまま抵抗をしていた子供が、再び苦しげに喘ぐ。
「苛々する。折角来たのに、獲物を一匹も殺さずに帰るなんて、滑稽ですよ」
ますます絞まる喉に、ローレンの視界は歪んだ。
痛覚が殆ど麻痺している不死者だが、何しろ声を出すことも出来ない。
叔父に胸を刺されても死ぬことがなかった魔物が、この程度で死ぬはずないだろう。そう考えながらも、ローレンは反射的に気道を潰される恐怖に肩を戦慄かせた。
彼が死因は呼吸困難。
徐々に減っていく空気に、怯えながら死んでいったあの日の記憶を身体ははっきりと覚えていた。
「そこまでにして頂きたい、異端審問官殿」
突然、張り詰めていた広場に凛とした青年の声が響き渡った。
音源はその場にいる者全ての、後方。
介入者の声に、一度は唖然とした面持ちで振り返る。
「お、おじさん!」
「良かったソフィア、無事だったんだな」
そこにいたのは十数人の町人達だった。中にはソフィアの働いている宿の主人や先程の言い争いの場にいた男達、他にも馴染みのある顔が揃っている。
彼等を率いるようにして一歩前に立っている男は、毅然とした様子で聖火が未だに燻る広場の中央を見据えている。
「フリードリヒさん……」
少しばかり縁のあるシエナとフォードは、驚きを隠せないまま彼の名を呟いた。
今まで自分達には極力係わらないよう努めていた人々が現れたことに、ハーヴィは微かに笑った。
予想の範疇だったのだろう。悔しげな表情ではなかった。
「無粋ですねぇ。何か御用でしょうか?」
先程までの苛立ちを微塵も見せることなく、ハーヴィは口端をつり上げる。
「お、俺達の町に何の用だ! この子達が何したって言うんだ」
「そうだ! ソフィアちゃんもエルちゃんも、町の仲間だ」
寒気のする笑みに後退りするものの、町人は強い調子で黒ずくめ達に言い放った。
ハーヴィに食って掛かる人々を宥め、フリードリヒは臆する素振りを見せることなく何かの証書を突き付けた。
あちらこちらが擦り切れている羊皮紙には流麗な古文書体が並んでいる。
暗闇の中、遠目にはその紙が何を意味するのか常人ならば知ることはなかった。だがハーヴィは、小さく舌打ちした。
「これは貴殿の属す審問会との正式な証文。この地が不可侵であることは、貴殿も承知の上のはず」
「フィル家は解体したと思っていたが、未だそれを管理する者がいたか」
厄介な男が現れたと、愚痴りながらハーヴィはフードをかぶり直した。
ハーヴィの意識が逸れている間、フリードリヒが率いてきた人々がソフィアとエルに駆け寄った。
火傷を負って倒れたままのエルを支えるソフィアは、突然の展開に呆然としていた。
「大丈夫か、ソフィア、エル」
「こりゃ酷い……あとで先生に診てもらった方がいい」
ソフィアは困惑したように、心配そうに声をかけてくる皆の顔を見渡した。
あの時突き放されたはずだったのに。こうして温かい手が、励ましの言葉を投げかけてくれる。事態についていけてない彼女は、おろおろと首を巡らせた。
ふと、ソフィアは視線を下ろす。
エルの意識をはっきりしていた。彼女はじっとソフィアを見守っている。偽りのない柔らかな微笑みと共に。
その笑顔を見た途端、押し上げてくる熱い衝動が堰切った。
ソフィアはぼろりと雫を一粒膝の上に落とした。雨の様に、次々と涙が流れた。
「あ、あたしっ……本当は、怖くて……おじさんっ……」
「大丈夫だよソフィア。エルちゃんだって生きている。先生を信じるんだ」
力強い手が彼女の肩を叩く。ソフィアはしっかりと頷いた。
正体の分からない恐怖は、霧散する。
もうエルが魔物だろうが何だろうが構わないと、彼女はこの時本気でそう思った。
エルがいて、親切なおじさんや町の人達が駆けつけてきてくれた。それだけで彼女は十分嬉しかった。
自分は、一人じゃないのだと思えたから。
決して数は多くはなかったが、人々は自分が裁判にかけられるかもしれないという恐怖を前にしても、逃げ出さずにここまで来たのだ。
シエナは、瞬きすら忘れて人々の姿を見た。
宿では自分以外ソフィアを追おうとした者はいなかった。けれど、こうして救おうと立ち上がる人もまたいるのだと思うと、ふいに胸の奥が突かれたようにじんと熱くなった。
人間に害されたフォードは、未だに人に対して警戒を怠らない。シエナもまたそんな彼の話を聞く度に人間は怖い存在だと認識せざるおえなかった。
そうしながらも他人を受け入れる寛容を見せる少年に、フォードがやきもきしていた事実もシエナは分かっている。
それでも、とシエナは眩しそうに目を細めた。
「ね、フォード。僕は人間のこんな所が一番嫌いになれない理由なんだよ」
怖くても逃げ出さない勇気を持てる人もいるから希望を捨てられないのだと、そうシエナは言う。
「……そう、ですね」
まるで一人言のような小さな応答が返った。歯切れの悪いそれとは反対に、フォードに笑みが零れていた。
シエナのことを怖がりながらも待っていると言ってくれた少女サラ。吸血鬼の一族を真正面から受け止めたフォードの恩師ディラ。異端審問会に無力であっても立ち向かおうとする町の人達――。
どんなに絶望を知ろうとも彼等の存在に出会ってしまったのならば、全てを拒絶することはできない。
「だから僕は、信じようって思える。いくら僕だって全部否定されてしまったら少しくらいは泣きたくなるさ」
「それでも少しなんですね」
何故だか急に緊張感が途切れ、軽口も飛び出した。
きっと大丈夫だと、確信めいた予感が二人にはあった。
第四十一話:だから僕は…END
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