異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
 第五章 幸せの形

第四十話 狂気の矛先
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 ソフィアは親友の憔悴した顔を見下ろした。
 先程から自身の身体が強張り安堵の息さえ吐けずにいる彼女に、エルは微笑しただけで何も言わなかった。
 横たわる魔物の少女は、いつものエルと何ら変わらない。
 変わってしまったのは彼女に対する自分の気持ちなのかと、ソフィアは得体の知れない恐怖を感じた。

 傍らに膝を付いている端麗な青年にも、同じことが言えた。
 シエナから返してもらった焦げた外套を腕にかけ、フォードはほっとしたような柔らかな笑みを浮かべている。昼間に彼が見せてくれたものと全く同様の、寂しくも優しい気配が漂っていた。

 ソフィアの困惑を感じ取ったのか、シエナが少しだけ哀しそうに口の端を下ろした。目の前にいるエルに、フォードに、青い瞳が彷徨う。そして最後に青年の後方に立っているローレンを見た。
 その刹那、シエナの顔色が一気に青褪めたことにフォードは気づいた。
「ローレンっ!」

 どちらが先に叫んだのか。
 唖然とした様子で顔を上げたローレンの足元が宙に浮く。痛覚の鈍い不死者の身体に、ぎりりと締め付けられるような痛みの疼きが走った。
 彼が自分の状態を初めて認識できたのは、すぐ近くで獣の舌なめずりのような音を聞いた時だった。

 驚愕に目を見開いて首をずらせば、無を映したような濁った双眸とぶつかり合う。
 これは誰だと思う間もなく、痩せ細った首を乱暴に掴まれた。


 子供の呻くか細い声に、フォードの視界は怒りで真っ赤に染まる。つり上げられた鋭い視線は、ローレンを拘束している木偶人形と彼の喉を無理やり持ち上げている司祭に突き刺さっていた。
 白い貌が憎しみで歪む様子に、ハーヴィはけたたましく笑い声を上げた。
「心地良い目ですねぇ。お前達はそうやって呪いの言葉を吐きながら狩られるのがお似合いだ」
 止めろ、と反論を叫んだのはシエナだった。
 全く表情の見えない瞳に背筋が薄ら寒くなっていたが、今口を閉ざしてしまえば後はもう怯えることしかできなくなるのではと思い、怖かったのだ。

 珍しい青い髪と眼を見て、ハーヴィは興味深げに笑みを深くした。しかし真っ直ぐな光を灯すシエナの空気には眉を顰め、すぐさまフォードの方へと向き直る。
 ハーヴィは憎しみと嫌悪、そして恐怖に彩られた赤い瞳を満足そうに眺めた。

 再び、シエナの背中に戦慄が走る。
 冷や汗がどっと噴き出し、痺れたように両足が動かなくなる。それは宿の部屋からハーヴィを見た時と同じ症状だった。
 シエナは理解した。あの時、ルージュが弧を描いたのは偶然なんかではない。確実に、自分達の視線に――フォードの存在に気付いていたためなのだと。



 フォードは募る憤りを内へ内へと溜め、唇を強く噛み締めていた。鋭い犬歯が柔らかな肌を裂き、少しずつ血が滲んでいる。
 青白い指の手が掴んでいるローレンの首には今朝シエナがきちりと巻いた包帯がある。その清楚な白い布には皺が寄り始めていた。徐々に力が加えられているのは明白だ。
 睨みを利かせるものの、それすらも楽しげに受け止めるハーヴィに苛立ちが込み上げる。


 十年前も、そうだった。
 逃げ惑う同胞達を残虐な方法で殺し、生まれたばかりの妹も、身体の弱かった母も、一族の皆を守ろうとした父も、黒の司祭の号令で屠られた。
 あの場で唯一の人間であったはずのディラにでさえ、何の躊躇も見せずに処刑を命じた。
 全てハーヴィの言葉で動かされ、盲信者達が実行されていたため、幼かったフォードは当時何も分からなかった。ただ追われ、逃がされ、ひたすら走った。

 それでも鮮明に、少年の脳裏には司祭の姿が刻まれている。
 生気のない青白い手が、哀れなほど痩せ細った子供の身体を瓦礫の下から引き摺り出した。
 ぼんやりと虚空を見つめるその子を嘲り、ハーヴィは――。



「その子を放せ」
 地を這うような声音が、フォードから発せられた。
 それは対峙した時とはまるで違う、負の感情だけで形作られたものなのだとシエナにも伝わった。
 温和な青年からは到底想像もできない低さに、彼の今の表情がどのようなものなのか考えたくもなかった。

「聞こえないのか。その子を、放せ」
 フォードは淡々と同じ言葉を繰り返す。
 聖火を照り返す血色の双眸は、飢えた獣のように凶暴な色を帯び始める。渦巻く魔力の呼応は激しさを増すばかりで、周りの者を拒み出す。


 変化に気付き、瞼を落としたハーヴィは口の端をつり上げた。
 吸血鬼の理性がもうすぐ焼き切れる。
 辺り一帯を赤い海に変えるまで、理知的な魔性の化身はただの化け物に成り下がる。さすれば町は恐慌に陥るだろう。
 そして、異端審問会が裁判にやってくる。虐殺が再びこの忌むべき地で行われるのだ。

 ハーヴィはおかしくてしょうがなかった。
 国が滅び、審問会から集中的に攻撃をくらったこの土地は、冬を乗り越え自治を得た。不可侵条約まで結ばれ、いくら魔物の伝説が縁深い場所だといっても手出しはできずにいた。
 それを、たまたま見つけた殺し損ねのおかげで全て壊せる。
 他人の持つ負の感情とは何と心地良いことか。ハーヴィは見開き、紅の翼を広げた魔物の暴走を今かと待ち望んだ。



 荒れ狂う風に気圧され、固まっていた足元が地面を擦って後退した。
 また勝手に足が逃げ出したがっている、とシエナは複雑な表情を浮かべた。

 フォードの纏っていた空気が完全に変わりつつあった。
 かつてシエナが住んでいた運河の母が、意味も無く人間に襲い掛かった時に感じる感情の高ぶり。川の氾濫という形で現れていた彼女の暴走と、雰囲気が似通っている。
 無差別的に、目の前にいる対象物を食い荒らすような。
「っ! 駄目だ、フォード!」
 恐ろしい予想をしてしまったシエナは、声を張り上げた。
 フォードは何の反応も返さない。吸血鬼の耳で聞こえていないはずはない。シエナの言葉を大事にする彼が、無視をするわけもない。

 ならば何故届かないのか。
 それはもう、感情が沸点を越えて周りの音が彼の中に入らなくなっている状態なのだと示したことになる。
 このままでは、ローレンを助けるどころではなくなる。巻き添えを食らって彼をも殺しかねない。
 最悪の場合、辺りの人々を全て喰らい尽くすまで狂気に歯止めがつかなくなる。



 そして、最後に一人残ったフォードがまた泣き叫ぶのだろう。
 家族を失った十年前と同じように孤独になって。彼の屋敷で見たような、迷子の子供のような顔をして。
 今度は自分が奪ったのだと、嘆きながら。



 シエナは渦巻く空気の障壁を一歩一歩踏み越えた。諦めずに、何度もフォードに声をかける。
「止めるんだ、フォード。一番悲しむのは君だろう!」
 揺れる銀髪に追い縋り、長身の身体に手を伸ばす。無骨な翼が邪魔で、黒い背中が見えにくい。
 シエナは前進するたびにかかる圧力にも、目を逸らすことはなかった。


 ただ一途な青い瞳に、ハーヴィが嫌悪を示した。
「無駄さ。吸血鬼は本能的に血を好む。キミがいくら呼んでも化け物に届くわけが」
「うるさい黙れ! 僕はフォードに話しかけているんだ!」
 耳障りな司祭の声に、シエナは初めて剣呑な声で荒げた。先程の虚勢の言葉よりも、さらに刺々しい響きを含んでいた。
 これにはハーヴィも驚き、思わず言葉を止める。向こう側にいたローレンも、後ろのソフィアも瞠目していた。

 発した言葉の調子を一度区切り、足を動かしたシエナはとうとうフォードの隣に辿り着いた。
 正気を失いかけている野生の眼光にシエナは怯まなかった。
「……悲しかったり悔しかったりした気持ちを、怒りに変えているだけじゃ何も生まないって、君は言っていただろう」
 真剣な眼差しを溶かし、今度はゆっくりと微笑みの形を作る。

 いっそ優しすぎるほどのそれを正面から見ていたローレンは、呼吸にも似た嘆息を吐いた。
 何もかも無条件で受け入れてくれるような、シエナの不思議な笑みはまるで洞窟の中に差し込む光のようだ。迷い人をただ導くため、希望を捨てさせないためにある灯火にも似た。
 彼の言葉は光の中に響く歌声。荒々しく心に踏み込むことなく、必要な者の元へとゆっくり浸透するように伝わる。

「僕はもう、泣いている君の影を見たくないよ」
 それはきっと、紅の翼を頂く青年の元にも正しく届くはず。




第四十話:狂気の矛先…END
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