異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
第五章 幸せの形
第三十九話 君を知る
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町で唯一の医者であるフリードリヒは、馴染みの薬師から薬を受け取ったその足でいくつかの宿を回っていた。
旅行者や旅人への往診もしている彼は、こうして呼ばれなくとも定期的に顔を出している。
夜の帳にすっかり覆われた町を見渡し、フリードリヒは怪訝に思った。
常ならば静かな宵の時間が流れるはずの町中が、今夜は何故か騒然としている。
不安そうな顔付きの人々が、揃って外に出て近所の者達と会話していた。
異端審問会がやって来たことは、フリードリヒの耳にも入っていた。
けれど何をしに来たのか、単にこの町を通っただけなのか、明確な情報はなかった。
審問官が噂の黒の司祭だということは、誰もが口々に言っていたが。
「先生!」
宿の前に訪れたフリードリヒに気付き、出入り口付近に溜まっていた人並みが呼びかけてきた。
先の当主が亡くなってから、彼の一族は没落した。
しかしただ一人町で医者を続けることを選んだフリードリヒは、人々からフィル家の良心だと愛されていた。
隠蔽された自分の罪を抱えている彼にとって、その呼ばれ方は自嘲をもよおしたが。
元々フィル家はこの町の長のような存在だった。
前当主がろくでもない父であったものの、実子であるフリードリヒが現在の当主にあたる。そのためいくら市井で質素な暮らしをしている彼であっても、町を引っ張れるほどの発言権を持っていた。
本来ならば辞退したいところなのだが、世間的にはそうもいかなかった。
フィル家の権限を有している自分の力が、必要になるのかもしれない。町の人を、孤児達を守るためにも。
そう考えたフリードリヒは、意を決して何があったのかと尋ねた。
+ + + + + +
エルは否定もせずに、静かな瞳でソフィアを見つめていた。
二人の様子を悔しげに見ながら、シエナはもがく腕の力を強めた。火の手は刻々と広がり、硬直したままのソフィアを心配している場合ではない。
この状態が続けば、確実にエルは命を落とすだろう。
ちらりと隣の小さな身体を見やれば、ローレンはさほど表情を変えずにいた。
ソフィアほど衝撃を受けなかったのか、または自分が魔物だから割り切ってしまったのか。
どちらにせよ、こういった形で正体を知っても、彼はあまり気にしないように感じた。
(……人事じゃないね)
自分達もまた、他人に明かされる可能性は十分ある。それを知った時の子供の反応が少しだけ怖く思える。
そしてシエナは、それを乗り越えたいと心の底から願っていた。
だからこそこのままエルが死んでいくことのには耐えられない。助けて、ソフィアと二人できちんと話しをして欲しかった。
このまま諦めることなんて、無理だ。
地獄絵図のような光景ともたらされた真実に、フォードは言葉を失いかけていた。
何気なく手を胸元に押し付ければ、硬い何かの感触。
微かに瞠目したフォードは、瞼を閉じる。ゆっくり引き下ろされた手元は、静かに腰元に伸びていった。
再び開いた彼の赤い眼には、一切の迷いが消えていた。
エルから託された、あの種子が持つ意味。
彼女が何故それを持っていたのか。何故自分を、知っていたのか。
そして、エルがハーヴィに狙われた理由。
既に一つの答えを導き出したフォードにとって、意味も理由も明白に感じていた。
恐怖は残る。しかしやらなくてはならないという義務感と、何より彼を突き動かす情愛が、フォードを駆り立てた。
風向きが変わった魔力に、シエナは背筋を震わせる。
まさか、と思った瞬間、横薙ぎの風が通り過ぎた。
突然自分達を押さえ込んでいた影達が倒れこみ、無機質な音が響いた。
衝撃と突風で黒いフードが脱げた。明かされたその顔は、何もないのっぺりした木目だった。
シエナは、ハーヴィが号令をかけた時に感じた違和感の正体を瞬時に悟った。
生き物の気配がなかったのだ。この、木偶人形達から。
「本当に、趣味が悪い」
すぐ側から聞こえた侮蔑の声に、シエナは恐る恐る視線を投げた。
黒い裾を翻し、長い銀髪をなびかせるフォードが悠然と立っている。
しかしシエナは、零れた笑みをすぐさま硬直させた。
すらりとした背中には、血で濡れたような紅い、紅い翼が一対。
後ろでソフィアが悲鳴を抑える気配がした。隣のローレンもまた、息を呑んでいた。
フォードは三人の周りにいた人形達を倒すと、レイピアを抜いてエルの元へ跳んだ。
異端審問会の使う炎は聖火と呼ばれ、聖水と同じ効力がある。よって触れれば純銀に触れた時のように、浸食される様な痛みを伴う。
けれどすぐには、消滅に至らない。
この炎で火刑される魔物は、まるで拷問を味わうように死に向かうのだ。
その責め苦から一刻も早くエルを助け出したい一心で、迷わずフォードは燃える十字架に突っ込んだ。
見開いたエルと視線を交差させた瞬間、フォードはレイピアを捌いた。
彼女を吊るしていた縄を引き裂き、火の手が燃え移りかけていた十字の棒を切り刻む。
一連の動作を一気に行い、倒れこんできたエルを抱きかかえる。
そしてフォードは、上空に舞い上がった。
ハーヴィは風圧で捲れ上がったフードを気にすることも無く、その動作を追って空を見上げた。
その表情は恍惚とした笑みを貼り付け、一層深くなった。
狩るべき獲物を見つけた獣のように。
生気の宿らぬハーヴィの双眸を睨みつけながら、フォードは失速して地面に向かって降り立った。
衣服にまで引火してしまい、いまだ苦痛に呻くエルを冷たい土の上に横たえる。彼の腕もまた焼け焦げていたが、すぐに火は消えた。
側にはシエナが焦ったように駆け寄ってきていた。その隣を、恐る恐るソフィアが付いてきる。
フォードは彼女と視線を交わしたが、すぐさま逸らした。
「このマントで火を」
首元で結わえていた外套を脱ぎ、シエナに手渡した。
シエナは意図を理解し、すぐさまそれを使って火を消しにかかった。
エルを抱えていたフォードの腕の皮膚は爛れていた。ただの火傷ではないことは、一目で分かる。
ローレンは二人を交互に眺め、眉を顰めた。
その表情をそれとなく見てしまったフォードは、不覚にも震えた肩に苦笑を浮かべる。
ソフィアはまだ混乱から脱していないため、感情と思考が追い付いていない。それが分かっているから、まだ――落ち着いた後、どうなるかは想像もしたくなかった――平気だったのだ。
けれどローレンの様子は、明らかに冷静さを取り戻している。
理解させるはずがないと諦めていた自分自身が、彼の表情に怯えたことをフォードは笑いたかった。
「ローレン、近づいちゃ駄目だ!」
突如耳に入ったシエナの懇願に、自意識に沈んでいたフォードは顔を上げた。
ローレンの表情は依然として険しかった。シエナの言葉に、踏み出された一歩が留められる。
一瞬見えた揺れる眼に、嫌悪の色は微塵も窺えなかった。
「でも、火傷が」
ぽつりと漏らされた音に、フォードは赤い瞳を大きく見開いた。
つり上がった眉は、容態の重さを察してのこと。
ローレンの視線の先にあった者は、魔物という対象ではなく、ただの怪我人だと認識されていたのだ。
思えばシエナを追うことに恐れを感じていたあの時も、ローレンは気まずい間柄のままだったフォードに対して手を差し伸べた。行きたい気持ちと行きたくない気持ちがせめぎあっていた彼に、子供自身が怖がっていたはずの異端審問会の元へ、行こうと。
ローレンは無意識で、それを行う。
偽ることに慣れてしまった自分にとって眩しいほど、ありのままに。
大丈夫だと言ったシエナの微笑みを思い返す。
半信半疑どころではなく、端から期待も何もしていなかったフォードは、その時確かにローレンという少年を見たような気がした。
第三十九話:君を知る…END
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