異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
第五章 幸せの形
第三十七話 失えない想い
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ソフィアはひたすら走っていた。自分の知りうる限りの道を使い、郊外の広場へと足を進める。
姉貴分のエルの控えめな笑顔が思い浮かび、不安がどんどん押し寄せた。
ソフィアとエルが出会ったのは十年も前のことになる。
父親を海難事故で失い、病気がちだった母親は心労で倒れた。医療費を稼ぐため、ソフィアは働くことになった。面倒見の良かった宿の主人は昔から彼女を可愛がっていたので、住み込みで雇ってくれた。
当時はこの町に、フィル家の恩寵があった。
ソフィアの母は献身的な治療を受けることができたが、元々体が弱かったため間もなく息を引き取った。
何となくそれを感じていたソフィアは、葬儀で泣かなかった。
彼女はそのまま、宿屋に引き取られることになった。
それから数日が過ぎ、町に北方で起こった異端審問の噂話が舞い込んできた頃。
ソフィアは、一軒の店の前に立っていた。
いつから店があったのかとても不思議に思ったソフィアは、躊躇しながら扉を開けた。
温かな世界が、そこには広がっていた。
雑貨屋なんて特に珍しい存在ではない。しかしソフィアはこの空間の中に入り込んだ瞬間から、酷く懐かしい感覚を味わっていた。
奥から出てきた人影に気付き、ソフィアは視線を転じた。
エルはまるで最初からそこにいたかのように、ごく自然に微笑んだ。
それを見た刹那、ソフィアの中でうやむやだった感情が弾けた。
懐かしい感じ。これは、母親の温もりだ。
ソフィアは初めてそこで泣いた。
初対面のはずのエルは、驚きながらも優しく彼女の背中を摩ってくれた。ただ黙って隣についてくれていた。
嗚咽は止まりそうもなかった。
以来、二人は親しい関係となった。
思えばとても不思議な出会いであったが、ソフィアはそれを疑念に変えられるほどの不信感は抱けなかった。
エルは、喪失が生む虚無の悲しみを知っている。
理解しているが故の優しさは、同情や憐れみなどの一方的な感情とは違うものを感じさせた。
そんな風にすぐに好意的に捉えるソフィアに対して、エルは苦笑いを浮かべていた。
惚れっぽいからだと言われたこともあったが、確かにそうなのかもしれない。
ソフィアが想いを寄せた青年もまた、エルのように誰かを失ったことのある悲痛な瞳をしていた。
まるで同類を探すように、ソフィアは惹かれた。
けれど、彼の目は彼女にとって重過ぎるものでもあった。
代わりを探している、綺麗な赤い瞳。
両親を失ったソフィアにとって、宿の主人は新しい家族でもあったが。父と呼ぶのは憚れた。
彼女の父は船乗りであった男であり、どうしても一線をおいてしまう。
一人身のエルも何も言わないが、きっと大事な人を亡くしている。
けれど彼女の場合は、代わりを探すつもりが毛頭無いようだった。むしろ代わりが与えられるわけがないと、最初から知っている。
それは少しだけ哀しいことだったが、割り切ることで心のどこかが軽くなった。
だけどフォードは、まるで頑なな子供のように幻影を追い続けている。
それだけ彼の心の傷は深い。救える者は自分ではないとソフィアに十分知らしめた。
乗り越えるには彼自身が向き合わなければならず、その手伝いは事情を知らないソフィアには決してできないことだ。
そうやって考えているうちに、郊外への門が目に入ってきた。
ソフィアは思わず荒い息を吐いていた口を噤んだ。思い出すのは先程の宿でのこと。
フォードは自分の深いところに係わっていない相手を、自衛のために切り放した。本意ではないことは、辛そうな顔から伝わってきた。
それは自分達が、彼が全力を尽くしても守りたい人ではないことをはっきりと語っていた。
彼だけではない。宿にいた人々も異端審問会に手を出すことが怖くて、ソフィアの声に顔を背けた。
あの時は微かに絶望を味わったが、こうして走っているとソフィアもまた怖くて足を止めそうになった。
本当なら、行きたくない。
だけどあそこにはエルがいるのだ。
皆が自分達を見放してでも守りたいものがあるように、ソフィアにとって彼女がそうなのだから。
晩夏の涼しげな風が、噴き出す汗を冷やしていく。
相反する気持ちを抑えながら、ソフィアは一気に門をくぐっていった。
助け方なんて分からないけれど、後悔だけは絶対にしたくないと心に決めて。
街を出れば、灯り一つ無い闇の世界がそこには広がっているはずだった。
しかし、ソフィアの目に入ってきた光景は予想を裏切る。
大きな円を描くように地面を整備されている広場の上には、赤々と燃える炎が幾つも揺れている。
黒い集団が篝火を持って、中央を囲むように並んでいるのだ。
その不気味な光景に気圧されながらも、ソフィアは視線を広場の中へと向けた。
「エルっ!」
彼女は思わず叫んでしまった。
エルは、確かにそこにいた。
広場の真ん中に立つ、十字架を象ったように交差した棒に括り付けられて。
エルは声の響いた方向を凝視してしまった。
何故ソフィアがここにいるのかと問うよりも、早く彼女を逃がさなければという思いの方が上回った。
「ソフィ! 来ないで! 早く戻りなさい!」
切羽詰ったエルの言葉に、ソフィアの肩が強張った。
悲痛な色の濃いそれは初めて聞くもので、それほど切迫した状態なのだとソフィアに教えた。
戸惑って足を止めてしまったソフィアは、括り付けられているエルの影から誰かが現れたことに気付いた。
周りにいる者と同じく真っ黒な服を着た、異端審問官。
「おや……お友達の方から来てしまうなんて、良かったですねぇ? 一人で逝くのは寂しいでしょう?」
「ソフィアは関係ないわ! 止めてハーヴィ!」
全身が総毛立つような喋り方に、ソフィアの顔から血の気が退いた。
ハーヴィと呼ばれたあの司祭こそが、街の人達が恐れていた黒の司祭だということは瞬時に理解できた。
泣き出しそうに顔を歪めるエルは、身動きがとれない中でもがき出した。
自分だけならともかく、ソフィアを巻き込むわけにはいかない。
「ソフィ、お願いだから逃げてぇ!」
そんな叫びも物ともせず、ハーヴィはフードの下で笑みを浮かべたままソフィアに近づいていく。
足を縫いとめられたように、ソフィアの身体は動かなかった。
逃げ出したい恐怖と、エルを助け出したい気持ち。
相反する二つの心がソフィアを揺さぶった。
けれど、それは広場に来る前に何度も考えたことだった。答えは、既に出ている。
「エルを、エルを返しなさい! あたしの親友に何する気よ!」
威嚇するように、ソフィアは毅然とハーヴィを睨み付けた。
ハーヴィはさも可笑しそうに声を立てて笑った。
「キミも愚かなお嬢さんだ。審問官を前に堂々と魔物が友達です、なんてね? お前達、彼女も捕らえなさい」
そう告げるなり、篝火を持っていなかった黒服達が一斉に動き出した。
彼らは一直線にソフィアの元へと向かってくる。
慌てて後退るものの、人数が多い。ソフィアはあっという間に囲まれ、退路すら絶たれた。
幾つも伸びてくる黒い腕に、彼女は反射的に眼を瞑った。
しかし、いつまで待っても衝撃は襲ってこない。
恐る恐る瞼を引き上げたソフィアは、呆然と目の前を見た。
そこにはやはり黒い服がある。けれど、自分に背を向けてまるで守るかのよう立ちはだかっているのだ。
「無事、ですね?」
この場にそぐわないほど、穏やかな低い声。
銀髪の彼は、安心させるようにソフィアに笑いかけてくれた。
第三十七話:失えない想い…END
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