異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
 第五章 幸せの形

第三十五話 the Inquisition
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 人影が失せた街角を、黒い一団はぞろぞろと歩いていた。
 誰もがその全身を闇と同化させていたが、風貌の異なった者が二人だけ混ざっていた。
 一人は同じく黒い服装。僧侶や司祭の法衣によく似た形のもので、口元だけがフードと襟の間から覗いていた。白い肌の真ん中には、弧を描いたルージュが見える。
 その隣を女性が歩いていた。重苦しい足取りだったが、毅然と面を上げたまま前を向いている。
「で、どこまで連れて行くのかしら。町外れ?」
「口の減らないお嬢さんだねぇ」
 冷笑を浮かべ、女性――エルは横目をずらす。
 司祭はそれに対して、心底おもしろそうに嘲り笑う。侮られていることに、エルは苦い顔をした。



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 エルが審問会の拘束を受けたのは、午前のことだった。
 裁判は基本的に夕方から夜にかけて行われるため、彼女は自分の家に軟禁されていた。
 司祭の命令しか聞かない黒装束達に囲まれ、彼女は消えていく夕焼けをぼんやり眺めていた。
 考えるのは、親友といっても差し支えの無い少女のこと。
 自分が抵抗を示せば、ソフィアはおろか、彼女の周りの人間にまで被害は及ぶだろう。
 相変わらず下劣なやり方だと、エルはきつい眼差しを窓硝子に投げかけた。

 エルは不意に、目元から力を抜いた。
 赤らんだ西の空が徐々に閉ざされていく。
 切ないほどの紅色は、今朝現れた青年の瞳を思い出させた。
『……まさか、会えるなんて思ってもみなかったわね』

 長い銀髪と黒い外套を翻した、背の高い優男。彼を一目見た瞬間、エルは呼吸を忘れてしまうほど驚愕した。
 何よりも印象的な、あの双眸。
 名前とそれを確認した時、エルの中で不鮮明になりかけていた過去の記憶が蘇った。
 埃をかぶっていた箱の中にしまわれていたあの包みは、悲しい思い出の象徴ともいえるものだった。だからこそ彼女は、今日まで忘れたように放置していた。
 だけどそれも、彼に出会ったときに終わりを迎えた。
 渡さなくてはと、使命感にも似たような焦燥がエルの中を駆け抜けていた。
 そして彼は受け取った。
 同時に、自分の中でも区切りがつけた。
 異端審問会にさしたる抵抗を見せなかったのは――もちろん友人のこともあったが――諦念を抱いていたからかもしれない。
 自嘲しながらエルは頭を垂れた。
 憔悴しきった顔からは、何年も生きて続けてきた老女のような倦怠感が醸し出されていた。


 外の街灯が灯ろうとした頃、司祭はやってきた。
 不気味な微笑みは、生理的嫌悪感を浮かばせる。
『さぁて、時間だ』
 呼びかけに答える形で黒装束達が動き出す。
 後ろ手をロープで縛られたエルは、開かれた玄関の向こうの夕闇を睨んだ。
『おやおや、エスコート役がワタシでご不満ですか』
 肩を竦めて笑う司祭を一瞥し、エルは歩き出す。扉をくぐってしまえば引き返せないだろうと、感じていた。
 握られた拳をしっとりと濡らす冷や汗に気付き、司祭は耳障りな笑い声をたてる。
 エルはぐっと眼を瞑った。
 怒りや悔しさを耐えるように。



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「黒の司祭とあろう方が、小娘一人にこんなところまで遠征とはね。審問会は随分臆病になったのね」
 エルは言葉を止めなかった。
 彼女は元々お喋りな性格ではないが、自分が理不尽な立場に追いやられただけで口を噤むような女ではないと自覚している。何より、今話すことを止めてしまえば途端に恐怖が襲ってくることを承知していた。

 司祭はエルに、気が強い者は嫌いなじゃないですよ、とおどけてながら言った。
「ワタシだからだと、聡いキミなら勘付いているだろう?」
 軽い挑発もすぐに受け流され、エルは機械的に動かしている足が鉛のように重くなっていくことを感じた。
 身体が勝手に、生きることを放棄したがっているようだ。
 無意識のそれに気付きながらも、エルは虚勢を消すことはできなかった。
「本当に嫌な気配。変わらなくて何よりね、ハーヴィ」
 仕返しにと言わんばかりに吐き捨てるエルを、司祭は楽しげに眺めていた。

 黒の司祭の忌み名は、どんなに田舎であっても西の大地の中では知らない者がいないほど陰惨な意味を持つ。
 この審問官に捕まってしまえば、生きて帰ることは叶わない。稀に命があったとしても、到底五体満足ではいられない。
 その毒牙は、魔物にも人間にも平等にかけられる。
 忌み名だけがそうやって一人歩きをし、今では審問会の中でも司祭の名を知る者はごく僅かとなった。

 しかし、エルは司祭の名を一字一句間違えずに発音できた。
 彼女がハーヴィを忘れることなど、もはや不可能に近かったのだ。
「僧正様が煩くてねぇ。不安な芽はさっさと潰さないと、ワタシも立場が危ういですから」
 ハーヴィは言葉とは反対に、ルージュを弧の形に歪める。
 男とも女ともいえない不思議な音程を聞きながら、エルは眉を顰める。この声が彼女は大嫌いだ。
「嘘吐きね。だってあんた、十年前に何をしたのかよく覚えているでしょう? 今更僧正ぐらいがあんたを排除できるわけないじゃない」
 エルの言葉に反応したのか、ハーヴィが足を止めた。つられて黒の集団も全て動きを止める。
 道に反響していた足音が、突然消え失せた。

「ふ、ふふ……そうですよね。キミは、十年前の当時をよく知っている」
 肩を微かに震わせて、ハーヴィは高笑いを上げた。
 エルの背筋が強張った。
「ワタシもきちんと調べてから行きましたから、キミのことを知っていますよ」
 すっかり硬くなったエルの身体を見つめ、ハーヴィはおもむろに彼女の顎を指ですくい上げた。
 反射的に首を振られたため、手元がぶれる。振動で目深く黒いフードがずれた。そのまま重力に従って肩まで下りる。
 中から現れたのは、中途半端に伸びた髪と性別の曖昧な顔立ち。鮮烈な印象を残す、能面のように感情の無い目。

 エルは戦慄く唇を必死に圧し留め、自分より少しだけ背の高いハーヴィを睨む。
 感情の無い瞳がすっと細められ、禍々しい色を塗りたくった口元が恐ろしいほど艶やかだった。蝋人形のような生気の無いそれらは、人工物特有の冷たさを感じる。
「エルさん……いえ、エルヴィーナさん? 仲間を捨てて逃げたこの年月は、どれほど幸せでしたか?」
 ハーヴィは再び微笑む。
 エルの中に恐怖を植えつけたその日と同じように、残忍で冷酷な虚無の仮面が貼り付いていた。




第三十五話:the Inquisition…END
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