異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
 第五章 幸せの形

第三十四話 決意 -2-
←第三十三話++目次++第三十五話→


 眉をつり上げ、顔を紅潮させていたソフィアは、フォードの姿を見止めた途端に今まで耐えていたものが溢れ出してしまった。
 うっすら浮かんでいた涙をぼろぼろと零し出し、声音に嗚咽が混ざった。
「フォード、さんっ……エルが、エルが……」
「異端審問会、ですか」
 宿の主人に肩を支えられながら、ソフィアは泣き崩れるように俯いた。
 すっかり消沈している周りの者も、やり切れない気持ちがあるのか複雑そうな表情を浮かべていた。
「旅人さん、そんなことだからしばらく部屋で静かにしていて下さいな」
 主人は申し訳無さそうに額の汗を拭いた。顔を両手で覆ったソフィアの背中を何度か摩ってやっている。

 シエナは彼女をじっと見ていた。そして少しだけ怪訝な顔をして、客や従業員の姿を順に眺めていく。
 諦める顔。仕方がないのだと決め付ける者。そして、それを否定したくなる気持ち。
 目の前の光景を、どこかで見たことがあることを思い出した。


 運河の町で育んだ、最も大切な思い出が脳裏に過ぎる。
 魔物だと知られて、ひっそりと町を後にしようとした自分。恐れられるのは当たり前だと、諦めて――それでも懐かしい場所を巡り歩くことをせずにはいられなかった。

 ありのままの自分を受け入れてくれた少女。時間をくれと。待っているから帰ってこいと。そう言って、笑顔で見送ってくれた。本当は怖いだろうに、頭ごなしに否定することを彼女は嫌った。
 最初から駄目だと決め付けて、仕方がないという言葉を免罪符にしていた自分よりも、彼女の方がよっぽど強かった。


(サラだったら、やっぱりソフィアさんと同じことを言うだろうな)
 比べることは悪いだろうが、シエナの口元に微かな笑みが零れた。
 震えながら本を差し出してくれたサラも、助けに行くのだと言いながら涙を流しているソフィアも、きっと根底は同じものだ。
 ただ友達を想う心。それだけで、あんなに怒ったり泣いたり、笑顔を浮かべてくれたりできるのだろう。

「分かりました」
 宿の主人の言葉に、間をおいてフォードが答えた。
 物思いに耽っていたシエナは、驚きの声をあげて振り返った。
 一瞬だけ視線がかち合ったが、フォードは苦悶の表情を見せただけで何も言わない。
 彼はまた、保身のために危険な係わりを切り捨てることを選択したのだ。
 どこまでも第三者を保とうとするフォードに、シエナは悲しく思う間もなく怒りが込み上げてきた。
 たとえ一時であっても、言葉を交わして温かく接してくれた人を見捨てることなんて、シエナにはできない。
 それでも頭の中には冷静な部分は残っていて、衝動をどうにか抑えてくれた。

 フォードの言葉を聞いたソフィアは、背筋を強張らせた。
 のろのろと上げられた顔には涙の痕が幾筋も残され、憔悴しきっている。
 彼女は心のどこかで、フォードならば助けてくれると希望を持っていたのだろう。無残に打ち砕いた彼自身の言葉に、踏ん切りがついたようだった。
 泣いて赤くなった瞳は、真っ直ぐとしていた。
「やっぱり、あたし、行く」
 途切れ途切れの小さな言葉に、再び周りの人々がぎょっとした。
「ソフィア!」
「止めないで下さい! 皆が行けないなら、あたしだけで何とかしますから」
 大人達の制止の声を振り切り、ソフィアは一層足早に出口へと向かった。
 最後に宿の主人から悲痛な懇願が贈られた。住み込みで働いているソフィアは、彼にとって娘にも等しい存在なのだ。
 それを十分知っているソフィアは、一度だけ顔を向けた。足は止めなかった。
「おじさんが連れて行かれても、あたしは同じ選択をするわ。大事な人を奪われることを、黙ってなんて見ていられないもの」
 安心させるように彼女は笑んだ。
 扉に取り付けられている軽いベルが荒々しく鳴り響き、大きな音を立てて閉まった。


 ソフィアが外に消えたとき、シエナの足は自然と動いていた。
 踵を返そうとしていたフォードが、慌てて少年の肩を掴む。
「シエナさん。また、馬鹿なこと考えているのでは」
「馬鹿なことだろうね。会ったこともない人を、助けたいなんて思うことはさ」
 フォードが息を飲んだ気配がした。シエナは笑んだまま、振り返る。
「大丈夫だよ。君が係わりたくなければ、それでいい。僕は僕自身の意思で、行きたいと思っているんだよ」
「ですが!」
 言い募るフォードを見て、耐えていたものが喉元まで込み上げた。

 出会った時から自分の心に縛り付けられて、頑固なまでに人を認めようとはしないフォード。その姿は、置いていかないでと嘆き悲しむ子供のまま。
 けれど彼はもう無力なだけの幼子ではないのだ。
 過去と決別をしたといっても、依存の対象が代わっただけだということをシエナは感じていた。
 フォードは自分で築き上げた壁を、今度こそ乗り越えられなくてはいけないのだ。
 恐れることに恐れては何にもならない。


 ぱちん、と振り払われた手に、フォードは目を丸くした。
 まさか拒絶されるとは思っていなかったのだろう。自分の手と、掴んでいた場所を見比べている。
「僕も、大切な人が急にいなくなったら嫌だよ。友達や家族だったら尚更さ!」
 吐き捨てるようにシエナは言い放つ。
 珍しい青髪に興味を惹かれていた客達は、突然の少年の怒声に目を瞠っている。
「でも、フォードが恐れていることと、ソフィアさんがエルさんを助けたいと思う気持ちに、何の違いがあるんだよ?」
 同じじゃないか、と擦れた声音が語尾に取り付いた。
 異端審問会が恐ろしくないはずがない。シエナもソフィアも、直接の係わりはしたことはないが、確かに怖いと思っていた。
 けれどそれ以上に、誰かを思う気持ちが上回っていた。
「思うからこそ、止める。思うからこそ、助けたい。どっちも同じ動機だよ」
 一息ついたシエナは微笑んだ。ソフィアと同様に、吹っ切れた笑顔で。

 周りの人間達は困惑したように互いを見合わせていた。
 死にに行くようなものなのに、何故少女も少年も笑えるのだろうかと。
 立ち竦んだままのフォードには、シエナが笑った意味がはっきりと伝わっていた。
 シエナは嬉しかった。人も魔物も、思い思われる気持ちに何のずれもないのだと分かったことが。だから自分の思いにも裏切りたくはないのだ。
「だって……貴方がそうすることに、何の利益があるというのですか」
 絶句したままのフォードが、ゆっくりと口を開いた。弱々しい反論が零れる。
 シエナは、相変わらず穢れのない青い瞳で青年を見据えていた。
「自己満足かもしれないけれどね。君を助けたように、絶望の淵に立たされた人の手助けをしたいだけだよ」


『貴方を助けたいと思うことは、結局は自己満足かもしれませんけれど』

『生きて欲しいから』


 少年と、記憶の中の投影がだぶった。
 フォードは瞠目し、過去の産物である柔らかな微笑を湛えて逝った恩師を思い出す。
「僕は行くね。ローレンをよろしく」
 言い残して、シエナは宿の扉を開け放した。
 真っ暗な街路の中へとその身を翻し、彼は行ってしまった。


 再び広間にざわつきが戻ってきた。
 呆然としたまま、フォードは出口を見つめていた。
「……シエナは?」
 声をかけられ、彼は正気を取り戻す。それから自分の足元に視線を転じた。
 いつの間に降りて来たのか、フォードを見上げていたのはローレンだった。
「異端審問会のところへ。無鉄砲、ですよね」
 言葉を投げかければ、僅かに眉が寄せられた。心細いのだろうかと思い、細められた緑色の瞳を覗き込む。
「あんたは、行かないの」
 皺の寄った眉間は、不安からではない。何故ついていかないのかと問う、無言の非難だったようだ。
 刺々しいそれに、フォードは呼吸を止める。
 本当は行かなくてはならない。
 彼は十分理解していた。逃げるなと、シエナに叱咤されたことを。

「ぼくも、行くから」
 か細い吐息に混じり込み、ローレンは静かに告げた。骨ばった身体を少しだけ揺らし、子供は小さな頭を垂れた。
「一人じゃ怖いでしょう。……ぼく達はシエナみたいに、強くないから」
 おずおずとフォードの外套の端を掴み、ローレンは続けた。
 包帯に巻かれた細い腕と、手袋に覆われた小さな手が、自分を守ってやろうとしている。
 それはフォードの記憶をまたしても揺さぶり、不覚にも涙腺が熱くなった。ローレンと初めて出会った時のように、いつも記憶の片隅に残されている気掛かりな子供を思い返してしまった。
 最後に守られているのは、いつも自分だ。
「……ます」
「え?」
 ふとローレンは顔を上げた。
 その先には、苦しそうに――それでも決意を明らかにして笑うフォードの姿があった。
「私も、行きます」

 彼は床に縫い付けられていた足を前進させた。
 裾に縋っていたローレンの冷たい手をしっかりと取り、震える拳と共に握り締めた。
 目の前には、深い夜の闇が横たわっている。




第三十四話:決意 -2- …END
←第三十三話++目次++第三十五話→


Home Back
-- Copyright (C) Sinobu Satuki, All rights reserved. --