異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
 第五章 幸せの形

第三十三話 決意 -1-
←第三十二話++目次++第三十四話→


 蹲ったシエナを宥めることもできず、フォードは外を凝視したまま動かなかった。いや、動けなかったのだ。
 彼の身体は小刻みに震え、足が床に張り付いてしまったように身動ぎすらできない状態だった。立ってはいるものの、シエナとさして変わらない。
 街路に人影が無くなるまで、二人は始終無言だった。
 狂気を孕んだ笑みは網膜に焼き付けられたまま。

「……しっかりして下さい」
 弱々しくフォードが隣の少年の肩を叩いた。
 呪縛から解放されたように、一気に腕が脱力した。どっと押し寄せる疲労感を抱きながら、シエナはのろのろと立ち上がる。
「ご飯、冷めちゃうから食べようか」
 力無く笑い、食事を乗せた盆に近づいた。
 本当ならばすぐにでもフォードに問い詰めたいところなのだが、青褪めたままの優男に聞くのは酷だろうと思った。せめて顔色が正常に戻ってからにしようと、シエナは冷静を努めた。
 気遣いが伝わったのか、フォードも少しだけ笑んでくれる。普段とは程遠いものだったが、十分だった。


 机に椅子を寄せてから、シエナはローレンのベッドへ赴いた。
 かけた毛布の上からでも、痛々しい小さな身体の怯えようは目に見えた。
 先程の会話から、外に何がいたのか分かってしまったのだろう。瞬きもなく開かれたままの双眸が、不安げにシエナを見上げていた。

 異端審問会に突き出されそうになったときのことを思い出したのだろう。
 シエナとフォードでさえこんな状態だ。身に深く刻み込まれた恐怖を、生々しく思い出してしまっても仕方が無い。
 震えるローレンの乾いた髪を見るなり、彼の手は自然と小さな頭へと伸ばされた。
 慰めにもならないことは分かっている。
 それでも、撫でてやらずにはいられなかった。
「平気だから、ね?」
 柔らかく微笑んで、顔を覗き込む。シエナが笑顔を見せてやれば、身体の強張りが若干ながら和らいだ。きつく歪んでいた眉間からも力が抜ける。
 ローレンは小さく頷いた。
 落ち着いてきたことを確認し、シエナはもう一度笑いかけて立ち上がった。


 食事を始めた二人の手は、一向に進む様子が無かった。
 何事かを思案しているフォードの横顔を眺めながら、シエナはぼんやりとスプーンを動かしていた。塩気の多いスープを細々ながら口に流し込む。野宿続きで、普段から満足な食事をしていないのだから食べないわけにもいかなかった。
「何故、今更この町に来たのでしょうね」
 サラダにフォークを突き立て、フォードはうわ言のように呟いた。
 シエナは一旦手を止めた。
「今更? だってこの町――違うな。この地方全域、魔物の伝承が残っている土地でしょう。審問会が来てもおかしくないじゃないか」
 率直な疑問を返してやれば、フォードが緩く首を振った。
「だからですよ。会が発足したのは、西の大地をまとめていた王国が滅んだ後のこと。今も根強く伝承が続くこの地なんて、すぐに取り調べて二度と訪れようとはしませんよ」
 王国の滅亡と聞き、シエナはすぐに何年前のことなのか思い浮かべられなかった。そもそも図書館に通うまでは、国があったことすら知らなかったのだから当たり前だ。

「……ローレンさん、以前も町に審問会が来たことは?」
「フォードっ!」
 無遠慮そのもののフォードの問いに、シエナは思わず声を荒げた。
 先程落ち着いたばかりのローレンに、異端審問会のことを尋ねるなんて信じられなかった。

 目尻をつり上げて自分を睨む少年に気付いていながらも、フォードは言葉を重ねた。
 事は急を要するのだと、シエナはまだ自覚していない。
 異端審問会と対峙したことのあるものだけが知り得る焦り。時を見誤れば、危機は必ず訪れる。安穏とした世界が、一瞬のうちに地獄へ突き落とされるのだ。
 過去、フォードはそれを実感させられた。
 たとえ自分達には直接関係が無くとも、異端審問会は牙を向く。魔物である限り、狙われる可能性は高い。それはシエナにも言えることだ。
 だから無理を承知で、彼はローレンに聞いたのだ。これ以上、大切なものを奪われないためにも。

 シエナの懸念に対して、ローレンは淡々と答えてきた。感情の薄い痩せた顔が、青年の方に向き直った。
「審問会が不可侵協定を認めてからは、一度も」
 町ぐるみの裁判は、既に終わっているのだ。何故、再び異端審問会が来たのか。その意味は、ただ一つしか存在しない。

 フォードは唇を強く噛み締めた。犬歯が口元で見え隠れし、薄い皮の上に血液が滲んだ。
「奴等は、わざわざ裁判しに来たわけですね。この町で見つけた、特定の誰かを」
 語尾には思いのほか怒気が篭っていたようで、シエナが身を竦ませた気配が伝わってきた。
 下ろされたフォークが、皿とぶつかり硬質な音を立てた。


 沈黙が幾許か続く中、不意に廊下の方が騒がしくなってきた。
 重苦しい空気を振り払うように、シエナは扉に歩み寄った。フォードもまた気掛かりだったのか、無言でついてきた。
 僅かに開けた隙間から窺ってみると、他の宿泊客が足早に自分達の部屋へと駆け込んできている。耳を澄ませば、足音の煩さだけではなく、階下から聞こえてくる騒ぎも聞こえた。

 逃げ帰る客の一人を捕まえ、シエナは何があったのか尋ねた。
「審問会が、町の女の子を郊外に連れてってしまったらしい! 俺達も見つかったらどうなるか分かりゃしないから、部屋で大人しくしてな!」
 商人らしき風貌の男は捲くし立てるように言い放ち、慌てて奥の部屋へと走り去った。
 シエナとフォードは顔を見合わせた。
 それと同時に、一階から少女の悲鳴じみた叫びが耳に入った。


 階段を早足で駆け下りていく最中に、少女の声ははっきりと聞こえてきた。二人には聞き覚えがある。ソフィアだ。
「放して下さい! あたしが行くから!」
「止めな、殺されるぞソフィア!」
 さっきよりも閑散とした広間には、それでも十数人の客が残っていた。宿の客は部屋に引っ込んでしまっているので、彼等は町の住人だ。
 彼等は冷や冷やしながら成り行きを見守っていた。視線の先には、ソフィアと宿の主人が押し問答を繰り返している。

 まるで泣いているようなソフィアの嘆願を、宿の主人は必死の形相で留めている。知り合いらしい客達も、何とかソフィアを宥めようと声をかけていた。
「じゃあ見殺しにしろっていうの! あたしの大事な友達を!」
 訴え続ける少女の言葉に、大人達は耐えるように顔を伏せる。
 異端審問会の非道な行いを彼らは知っているのだろう。知っているからこそ、口出しができない。自分にも火の粉が降りかかるかもしれないからだ。
「エルは何にも悪いことしていないじゃない!」
 黙り込む彼等を悔しそうに見渡してソフィアは激昂した。
 その時、彼女は階段の側にいる人物に気付いた。


 フォードは赤い眼を見開き、呆然と立ち竦んだ。
「エルさんが……?」
 何事にもさっぱりとした受け答えをしてくれた同年代の女性の顔立ちが、霞のように蘇っていくる。懐には、昼間に貰った包みが入ったままだ。

 不思議な物言いを残した彼女は、フォードの何かを知っていた。フォードもまたエルに対して何かを感じていた。漠然としていたが、あの会合は確実に心に波紋を描いていた。
 その、エルが異端審問会にかかるというのだ。
「フォード?」
 ソフィアを凝視したままのフォードを見上げ、シエナは弱々しく声をかけた。

 エルのことも彼はフォードから聞いている。雑貨屋の女性の話をしたときのフォードの表情は、少しだけ違って見えたから気にはなっていた。
 シエナ以外には一向に線引きをしてしまう彼が、ようやく壁を薄くして接することのできる人間が現れたのかと期待した。
(それがこんなことになるなんて)
 途方に暮れたように目を伏せて、シエナも再び前を向いた。




第三十三話:決意 -1- …END
←第三十二話++目次++第三十四話→


Home Back
-- Copyright (C) Sinobu Satuki, All rights reserved. --