異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
 第五章 幸せの形

第三十二話 黒い行列
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 部屋に戻ったシエナは、夜の冷え込みとは違う冷気を感じ取っていた。
 ただいまと呼びかけようとしていた口を閉ざし、空気ごと生唾を嚥下してしまう。
 張り詰めた空間に振動を与えぬよう、扉をゆっくりと閉める。
 シエナは食器を鳴らさないように慎重に歩き出した。部屋の廊下は五歩も歩けばすぐに終わるが、この時ばかりはひどく長く感じられた。


 彼は以前にも同じ空気を味わったことがあった。
 フォードの屋敷に泊まったあの夜と同じ、殺気の余波で感じる緊張感が充満している。
 始めてそれをシエナに教えてくれた青年は今、窓辺を向いていた。
 黒い背中から感じられるのは、激しい憎悪と怒り。迸る感情を内に圧し留めながら、彼は息を殺して外の様子を見ている。

 机の上に盆を置いたシエナは、思い出したように慌てて周りを見渡した。
 フォードはローレンと二人きりで残されることを渋っていた。この状態の青年が近くにいれば、ただでは済まされないかもしれないと焦りが生まれる。
「シエ、ナ」
 掠れた声に気付き、すぐさまそちらを向く。
 部屋を出たときと同じく、隅のベッドの上でローレンは静かにしていた。
 血気の戻ることのない顔色から判断はできないのだが、朝よりは随分具合が良さそうに見える。
 彼は困惑しているのか、縋るようにシエナを見つめてきた。緑の瞳には僅かに怯えの色が含まれている。
「外」
 一言だけ言い残し、ローレンはフォードを顎で示した。
 研ぎ澄まされている青年の耳には、か細いその声音も届いたらしい。視線だけをシエナに向け、すぐに窓の外へと戻される。
 訝しく思い、ローレンの身体からずり下がった毛布をかけ直してやってからシエナも窓辺へと近づいた。

 外は暗かった。曇っているのか、星空の様子も伺えない。風が吹けば、怯えるように傍の木がざわざわと喚いた。
 窓にはカーテンが二枚ついている。厚手の日差し避け用と、現在閉められている白いレース状の薄生地である。これは外部から屋内を見難くするための隔たりだった。
 部屋は二階にある。そのため、滅多なことでは薄地のカーテンを引くことはない。よほど向こうに気付かれたくない者を見ているということなのだろうか。

「あまり近づかないように。覗くのなら、少しだけ屈んで下さいね」
 隣まで歩み寄ったシエナに、フォードは小さく注意する。
 よく見れば窓と微妙に間隔をとって様子を窺っている。
 しかし赤い眼は忌々しげにつり上がり、唇は強く噛み締められていた。


 フォードの視線を辿ると、宿と庭を囲む石細工の壁にぶつかった。
 その向こうはすぐに街路だ。薄暗い道を街灯が照らし、向かいの建物の形も見て取れる。
 元々それほど大通りに近いわけでもなく、宿屋の前の道は閑散としていた。夕食時でもあるから、一層人通りは少ない。
 そんな通りの真ん中を、見慣れない黒い影が何人かうろついていた。
 彼らはフォードと似たような外套を着ている。微かに覗く靴も手袋も全て漆黒に染まっている。その上フードも目深く被り、口元を隠すように襟を引き上げていた。
 シエナは「真っ黒だ」と小さく零した。他の喩えが思いつかない。

「どうもきな臭いと思って警戒していたのですが……」
 彼等の一挙一動を見逃さないように窓を向いたまま、フォードは固い口調で言った。努めて冷静になろうとしているのがありありと伝わってくる。
「まさか、あれが?」
 シエナは隣の白い顔を見上げた。あの影達が何者なのか、徐々に輪郭を帯びて確信が形作られていく。
 普段は温和で事を荒立てることが嫌いな青年が、これほどまでの憎しみの念を向ける相手。彼から、家族と師を奪った者。
 そしてシエナ自身が疑問を持ち、謎を追っていた存在。

「ええ……異端審問会です」

 風が強くなってきたのだろう、木々のざわめきが騒がしい。
 窓は頻繁にカタカタと鳴り出している。
 それなのに、静かな男の台詞だけははっきりと耳に入ってきた。


 外の影達はしばらくその通りにいた。
 何かを探しているのか、街角や路地裏を出たり入ったり繰り返していた。
 人数はいつの間にか増えて、足を止めて周りを見渡している。
 何をしているのか、二人には検討も付かなかった。どうせろくな事ではないだろうと、眉を顰めながら見張った。
 すると、影達が同じ方向に一斉に歩き出した。
 驚いたシエナは、フォードの方を見た。彼も予想していなかったのか、難しい顔付きになっている。
「移動し始めたということは……まさか……」
 握り締めていた拳に冷や汗が伝う。呟くように搾り出した声は、震えていた。

 影の姿はますます増えていた。凱旋式のように一つの列が通りにできていた。
 黒い集団達は真っ直ぐに町外れの方へと歩いていく。皆一様に同じ格好をしているものなので、まるで葬列のようにも見えた。
 いや、まさにあれは葬列なのだ。
 命を絶ちに行くための行進。拷問という名の制裁で、己の正義ばかりを押し付けるための。
 不気味な黒い姿は、執行服であり同時に喪服なのだろう。
 魔物だろうが人間だろうが。罪があろうがなかろうが。彼らが無慈悲に行う行為の象徴。

 愕然としたシエナを嘲笑うように、行列の中から誰かがこちらを見た。
 気付かれたのかと、二人の間に緊張が走る。息を殺すように窓辺の際に立ち、必要最小限の視界で様子を窺う。
 見上げてきた者は、他の影とは若干違った服を着ていた。
 集団の中でも一回り細い体躯は、闇色の僧服で覆われている。フードは深くかぶられているものの、口元は露わになっている。緩い輪郭を描く顎の肌は、非常に際立っていた。
 この距離で口だと確認できたのは、塗られたルージュのせいだった。珍しい鮮やかな紫。その唇はきつく結ばれている。

 一瞬、女性だろうかとシエナは思った。
 短絡的な考え方だったが、生きてきた中で出会った異性が数えるほどしかいないため、比較のしようもないのだ。
 異端審問会にも女性はいるのか、と問おうと、隣の青年に振り向いた。
 フォードは正面を見たまま微動だにしなかった。鋭さを弱めない眼光は、まるで怯えて威嚇している小動物のようにも見えた。
 先程の彼とは様子が違う。
 嫌な予感が背筋を震わせ、シエナはその原因であろう者を再び視界に入れた。


 ルージュは嘲笑っていた。
 限界までつり上がった紫の弧は、死神が携える鋭利な鎌の如く。
 そのまま顔は背かれ、何事も無かったように他の仲間に何かを指示し始めた。止まっていた行列は進み出す。
 やがて、僧服の背中も遠のいていった。


 陰湿な気配がぞろりと背筋を這ってくる。今まで感じたことのない、生理的嫌悪感にシエナは翻弄された。
 本能が命じるまま、足から力が抜けた。そして床に膝をついてしまった。
 とにかく窓辺を見たくなかった。
 震え始める自分の腕をどうにか押さえようと、シエナは空いている手で必死に押さえる。全身が弛緩しているはずなのに、強張りはまるで解けることがなかった。




第三十二話:黒い行列…END
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