異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
 第五章 幸せの形

第三十一話 忍び寄る影
←第三十話++目次++第三十二話→


 町の街灯に明かりが灯り始めた頃、一階の喫茶店は大賑わいしていた。
 喫茶店とはいっても、宿屋の調理場が備わっているので食堂としても機能しているのだ。他の宿で食事にありつけなかった者は、大抵この店に集まってきている。

 勿論、泊まっている者もここでディナーを取ることもできる。
 朝は部屋へ持ってきてくれるのだが、夜にもなるとこのように忙しい。よって自分でカウンターへ申し込むことになる。食べに来た者と同じ場所で頼むのだから、宿泊客も食事客と同じ扱いになるというわけだ。
 騒がしい場所が嫌いならば部屋に持ち帰ることもできる。追加の可能性があるのならば一階で食べる。自由度が高い上に、経営側から見ても画期的な方法だ。

 人がいるところが好きなシエナとしては一階で食事してみたかった。
 一日の疲れを労いながら笑う人達の中にいるだけで、何となく生気が漲るような気がするからだ。

 しかし、彼の部屋にはまだ安静にするべき者がいる。
 身体自体はさほど心配することはないだろうが、ローレンの心はまだ安定しているとはいえない。
 もう一つ気掛かりなのは、客が自分達を見る視線。
 痩せた子供があちこちに包帯をしていれば、確実に好奇に晒されるだろう。そこに含まれるものが物珍しさだけだとしても、魔物となったことで奇異の目で見られたことでローレンは酷く傷付いていた。
 また、生前の彼を知ってる者がいたとすると面倒なことが起こりうるだろう。

 フォードもシエナほど活気ある場所が好きだというわけではない。ゆったりと静かに紅茶でも飲んでいたいだろう。
 総合的に、部屋で食べる選択肢しかシエナには残っていなかった。


 せめて階下の様子を見てみたいと思い、シエナは三人分の食事――といってもローレンはコップ一杯の水だけだ――を取りに階段を下りていた。
 見下ろした広間にはぎっしりと人が集まっている。テーブルの合間をぬって、チェック模様のエプロンを着た少女が忙しなく働いていた。
(あの子がソフィアって子か)
 今朝の土産話に、フォードは喫茶店の少女のことを話してくれた。
 彼女のおかげで雑貨屋に行けたのだと、シエナは聞いていた。

「おう、坊主。これだけで本当にいいのか?」
 注文を受けた会計係が、少しだけ怪訝な顔をした。
 喫茶店の従業員は、宿の従業員でもある。シエナ達一行のことは殆どの者が小耳に挟んでいるのだろう。
 だから少年が頼んできた分量が、三人分にしては明らかに足りないことを心配しているのだ。
「今日は動いていないから、おなか減っていないんですよ」
 まさか真実を口に出せるはずがない。
 苦笑しつつ、差し当たりなく答えたシエナは、料理が出てくるまでカウンターの隅に立った。

 しばらくしてシエナの分の盆がカウンター上に現れた。
 ぼんやりとそれを見ていれば、不意に橙色の瞳とかち合った。ソフィアだ。
 こちらが気付いたことで、彼女は慌てて視線を逸らした。
 首を傾げながら理由を考えてみる。
 思い当たるものといえば、フォードが言っていた件のことだ。
 シエナとしては単なる笑い話の一つだったのだが、当事者としては面目ないと思っていたのだろう。ソフィアからは謝りたい気配が伝わってきている。
 きちんと見ていればシエナを女性と間違えるいことはない。仕事の合間に盗み見ていて、それがよく分かったのだろう。
 彼女は再びシエナの方を向いた。今度は顔を逸らさない。
 どうしようかと迷っているような表情を浮かべていたので、シエナは小さく笑いながら手を横に振ってみた。
 気にしていない、と。
 ソフィアは曖昧に微笑みを返し、会釈を返してくれた。
 名前を呼ばれて彼女はすぐさま身を翻した。去っていった背中を見守りながら、シエナは食事を受け取った。

 階段を上がっていったシエナを横目で追いつつ、ソフィアの手は休むことなく動く。
 フォードといい、シエナといい、旅人にしては殺伐として雰囲気のない一行だったと彼女は思った。――だからこそ、恋人だと間違えてしまったのだが。
「旅の同行者っていったけれど……どういう経緯なのかしら」
 不意に浮かんだ疑問を、ソフィアは頭を軽く振って打ち消した。
 想いは届かないと諦めたはずなのに、未練がましい自分の考えに思わず失笑してしまう。
 それくらい、あの銀髪の青年に惹かれているのだ。
「ソフィアちゃん、これ下げてくれないかー」
「はい、ただいま!」
 迷いを振り切るように、ソフィアは仕事に没頭しようと働いた。



 喧騒が一段落し、客達の会話が途切れ途切れに聞こえてくる。
 やっと時間に余裕を持てるようになり、従業員達も軽口を言い合えるようになった。
 布巾でテーブルを拭いていたソフィアも、馴染みの客と短い談笑を交わしていた。

「おい、見たか?」
「間違いないな。今朝からうろついていたようだし」
 ふと背後から聞こえてきた世間話に、ソフィアは思わず足を止めてしまった。
 朗らかな微笑みが強張る。布巾を握っていた手に、予期しない力が加わる。
 テーブルについていたのは町の者だった。何度か喫茶店に来ていたし、顔馴染み程度ではあるが彼らのことは知っていた。
「真っ黒な僧服だったぜ。間違いないと思うぞ」
 紅茶を啜っていた男が、苦々しい顔のまま吐き捨てる。
 広間は閑散とし始めていたため、会話は周りの者にも聞こえ始めていた。皆それぞれ複雑そうな視線を男達に向け、じっと聞き耳を立てている。

 ゆっくりとソフィアはカウンターの方へ歩いていった。
 言葉は、追ってくるように彼女の鼓膜に遠慮なく進入してくる。
「本当かね」
 彼等の逆隣に座っていた初老の男が、不安げに尋ねる。固唾を呑んでいた他の客達も、口々にざわめき出す。
 見たぞ。すれ違った。知らない。本当にいたのか。
 様々な声に、話題の男達はゆっくりと頷く。
「違いない。とうとうこの町にも来たんだ」
「異端審問会でも悪名高い、黒の司祭が!」

 忌むべき単語に、その場にいた者全員の背筋が凍りつく。
 ソフィアの手からするりと布巾が落ちた。
 異端審問会。彼等の訪問が何を意味するのか、幼い子供でも理解できるはずだ。
 ――町の誰かが、殺される。
「……エル?」
 呆然と目を見開いたまま、ソフィアは親友の名前を呼んだ。




第三十一話:忍び寄る影…END
←第三十話++目次++第三十二話→


Home Back
-- Copyright (C) Sinobu Satuki, All rights reserved. --