異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
 第四章 安息日

第二十五話 Dear My Friend
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 ようやく始動し始めた脳内を持て余し、着替えを終えたフォードが戻ってきた。
 お返しと言わんばかりに、硬く絞られた拭き布をシエナの頭に投げつける。フォードほど反射神経の良くないシエナは、もちろん直撃を避けきれなかった。


 綺麗になったローレンの顔を眺めながら、シエナはゆっくりと包帯を巻きなおしてやった。
 消毒液に晒されて清潔になった白い帯が、褐色のローレンの髪には映えた。目立ってしまうだろうと考えるが、焼け爛れたような腐蝕の痕を外部に晒すことは阻まれる。
 小さな頭を持ち上げ、後ろまで回し、慣れないながらもシエナの処置はなかなかのものだった。
 知識の採取が、書物と口頭だけだったシエナは記憶力もあったし飲み込みも早かった。彼はローレンが巻いていた包帯の状態を覚えていた。さらに、外すときの手順も忘れてはいなかった。
 おかげで苦労することもなく、適切に新しい包帯を巻くことができた。

 止め具で解けないようにし、シエナは道具をしまい出した。
 フォードはというと、先程から二人を気にかけていたが、今は備え付けの書斎机に向かっている。
 何気なく覗いて見る。どうやら書きかけの論文のようだ。
「本ってディラさんの名義だったよね。それはフォードの研究?」
 覗いてきたシエナに気を悪くした様子もなく、走らせていた羽ペンをそのままにフォードが頷いた。
「書籍は一応ディラが書いたことになっています。でも、これは私が個人的に調査と研究を重ねているものなんです」

 彼の荷物の中には、大事そうに三冊の本がしまわれている。そのうちの一冊はぼろぼろになっていて、何度も読まれたのだと判別できた。それは生前ディラが作った本であり、子供のフォードが教科書代わりに読んでいたのだろうと予測がついた。
 残りの二冊は、フォードが研究を受け継いで発行したもので、大量のメモが挟まれている。長い時間を一人で過ごした彼が、勉強と研究にどれだけ没頭していたのか窺えた。

 それはある種、寂しさを紛らわす方法でもあったのだろうとシエナは思っている。少年から青年へ成長する思春期に、フォードが原稿の上で涙したことは多々あるに違いない。失ってしまった家族と恩師への哀悼、そして奪っていた人間たちへの憎悪は募っただろう。
 研究を受け継ぐという大役を終えてしまった彼が、狂気に走ってしまったのも仕方がないように思えた。

 フォードはまた、明日に向かって動き出そうとしている。その事実が嬉しくなり、思わずシエナは顔を綻ばせていた。


 しばらくは、その几帳面な字面を目で追っていたシエナだったが、不意に顔を上げた。
 それからフォードの鞄を、失礼ながらも漁り始め、予備用のペンを取り出す。不可解な行動にフォードは首を捻る。
「字は読めるけれど書いたことがなくて。良ければ教えてくれないかな?」
「構いませんよ。でも急にどうしたのです?」
 インクが乾いたことを確かめて用紙を閉じ、フォードは椅子を引いた。振り向くと、期待で目を輝かせたシエナが立っている。その姿は、家族の下で教育を受けていた頃の自分のようで懐かしい。
 フォードに許可を貰い、一層嬉しそうな表情を浮かべたシエナは、もう片方の手で抱えていた本を持ち上げて見せた。
「友達に手紙を送りたいんだ」


 数枚の白紙を前にして、シエナは多少ぎこちなく手を動かし始めた。
 さすがに文字が読めるのだから、どの音がどの字だとかは教えられずとも分かった。ところが握ったこともないペンに対する力加減のこつを、なかなかシエナは掴めずにいた。
 指先に力を込めると手が疲れる。緩めれば線が歪んだ。ゆっくりと引いてみても、震えて不恰好になった。

 最初はこんなものだろう、とフォードは頭を掻いた。苛々しているシエナの様子に、思わず声をかけてやる。
「焦らずにゆっくりとやりましょうね」
 真剣な面持ちのまま、こくりと顎を落とした少年に、フォードの頬が緩んだ。

 十五分、三十分と時間は経った。
 間を開けずに作業し続けるシエナの集中力は大したものだった。
 陸上で人間と全く変わらない生活を送る吸血鬼と、水中で原始的に生きる人魚とでは、どうしても指先の器用さに違いが出てきてしまう。
 実際フォードには、人魚がどんなときに指先を使っているのか考え付きもしなかった。
 持ち前の勤勉さと好奇心があったとしても、シエナのように努力ができるだろうか。少年の背中を見つめつつ、彼はそんなことを考えていた。

 シエナは本当に、人間が好きなのだ。
 そしてそれはとても危うい好意なのだ。

 部屋に運ばれてきた朝食の盆を机に置いてやりながら、ふとベッドへ視線が映る。
 そこにいる子供は魔物だ。けれど、本質は人間とさして変わらないことだろう。
 ローレンに、自分たちが生粋の魔物であることを伝えるのには、多大な勇気が必要だ。拒絶されたのなら、恐れられたのならとシエナは予想したのだろうか。――もしくは、微塵も頭にないのだろうか。
 フォードの顔が僅かに曇った。

 少年はどこまでも薄い氷の上を歩く。割れる場所を知らず、足元の脆さを知らず。
 けれど、落ちてしまった後の冷たく身を刺すような水の感触にも、気を止めずにいられるのだろうか。

 溜息が漏れる。と同時に、シエナが振り返った。
 慌てて取り繕ったような笑顔を向けると、彼は気付かずに文字で埋まった紙を見せてくれた。
 それは、始めた頃よりも随分ましなものだった。流麗とは言い難かったが、読むには困らないだろう。

「これなら書けますね。では、しばらく文面を考えておいて下さいね」
「え? フォードはどこかに行くのかい」
 いつの間にか空になっているシエナの盆と自分の盆を重ね、おもむろに立ち上がった青年を呼び止める。
 外套を簡単に羽織り、片手に盆を乗せる姿は何とも言えなかったが、外へ行くのは分かった。

「手紙を送るのですよ? 分かっています?」
 呆れかえったフォードの言葉に、あ、とシエナは口を大きく開ける。
 先程探った鞄の中には、もちろんそんな物は入っていなかった。送る相手もいないフォードなのだから、当たり前といえば当たり前なのだ。そのことをシエナは失念していた。

「そう言えば、送る相手って女性ですか?」
 何故そんなことまで聞くのだろうかと考えたシエナだったが、特に何も考えずに返事をしておく。
「……シエナさんも、なかなか隅に置けないですね」
 意味深な言葉と微笑みを残して、ぱったりと扉が閉まった。
 相変わらず疑問符を浮かべていたシエナだったが、すでに頭の半分以上が手紙の内容で埋め尽くされていた。


 何を書こうか。旅のこと、フォードのこと、船に乗ったこと、ローレンのこと。
 様々な思い出が蘇る。サラと出会ってからの一年間も早かったが、旅立ってからの半年もまたあっという間に過ぎ去っていた。
「書き出しはやっぱり、親愛なるサラへ、かな?」
 たった一度だけ見たことがある、何かの物語での一文。
 脳からその時の文章を引っ張り出し、黒くなった紙の端に少しずつ書き出していく。
 かけがえのない少女へ、届くことを想像しながら。



第二十五話:Dear My Friend…END
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