異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
 第三章 裏切り者と鎮魂歌

第二十二話 冷たい晩夏の風
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「嘘だ……第一、心臓麻痺だって言ってたじゃないか」
 堪らずシエナは、小さな声を搾り出す。
 自分に言い聞かせるようなそれに、肯定も否定もかかることはなかった。

 そうこうしているうちに、青年が再びシエナ達の側まで歩いてきた。行きと全く同じルートを通り、暗い気配を漂わせている。
 青年はそろりと視線を投げかけた。さっきからこの場に留まっている旅人を訝しんだのだろうか。
 青々とした深い常緑の髪の毛が、音も無くなびいた。疲労感と絶望の色の濃い面は、断罪を待つ咎人そのものだった。
 刹那に交わった視線を逸逸らし、彼は再び踏み出そうとした。

「次はあんたの番だよ、フリードリヒ?」

 ぞわりと全身の毛が逆立つような、怖気ましい冷たい声が足の先から耳に届いた。近くにいた二人もまたそれを聞き、鳥肌が立った。
 凍った空気の中、倉庫の影に消えていく茶色の後ろ姿がはっきりと目に入った。
 顔色を瞬時に変えた青年は走り出す。無我夢中で、消えた背中を追いかけ始めた。

 それをきっかけに空気が氷解した。子供を追う青年を、シエナは反射的に追いかけ出した。
 行けば青年は殺されてしまうかもしれない。止めなければという衝動がシエナの全てを突き動かしていた。
「シエナさん! 係わらない方が……」
 制止の言葉を投げかけたが、シエナの足は止まる素振りを見せない。
 舌打ちをしたフォードもまた、全速力で走り出した。
 悪いことが起こらなければいいと願いながら。



 複雑に入り組んだ新天地は、旅慣れていないシエナにとって迷宮そのものだった。前を行く青年との距離もだんだんと開いていき、いつの間にか彼を見失ってしまった。

 もつれそうになる足を一旦止めて息を整える。
 道の真ん中で立ち止まった青髪の少年を、人々は珍しそうに見ている。普段なら居心地の悪さを感じるのだが、今のシエナには気にする余裕が無かった。
 息を整え、焦れったい気持ちを抱いたまましばらく辺りを歩き回ってみた。

 すると、急に人気のない場所に出た。
 囲まれた柵が途切れた場所に立つ看板に、自然と目が行ったが見慣れない異国の文字が読めるはずもない。
 シエナの立っていた場所は裏口のようだったが、何処かはすぐに理解できた。柵の奥には、木や石で出来た墓標が立ち並んでいる。死者が眠る場所――墓地。

 シエナは慌てて振り向いた。もちろん誰もいない。
 自分を心配してくれたあの秀麗な青年を置いてきてしまったことに、今更ながら罪悪感が募る。
「フォードとぶつかり合ったのも、墓場がきっかけだったっけ」
 消せない血の香りを持つ吸血鬼と、薄暗い腐臭を纏わせる子供。それから――亡者へ送る白百合の匂いを漂わせた人間。
 この場所に全てが直結している様に、シエナは込み上げる苦笑に抗えなかった。


 ゆっくりと中に進んでいくと、誰かの声が聞こえた。
 途切れ途切れのそれを追いかけて、歩みは自然に速くなった。やがて大きな道幅が見えてくると、視界の端に向かい合う二つの人影が映った。
 片方はシエナよりも小さな影。対峙するのは医者の青年。頭一つ分も違う大人と子供のはずだったが、子供が放つ威圧感の前では立場がまるで逆のように見える。
 誰も寄り付けないその世界に、シエナの足もまた硬直をした。

「……あれ?」
 極寒の地にいるような雰囲気の中、晩夏の温い風が指先を掠めていった。その中に、甘く切ない香りが混じっていた。
 傍らから漂ってくる嗅ぎ覚えの匂いに、シエナは首を巡らせた。

「ここがあんたの終着地点だよ。忘れちゃった?」
 無邪気に奏でられるボーイソプラノ。陰湿な怒気を孕んだ旋律に、一瞬シエナの背中が引き攣った。気付かれたのかと思い身構えるが、一瞥の視線も投げかけられることはなかった。それほど互いに集中しているのだろう。
「忘れたわけが、ない。俺はここで償いようもない罪を犯した」
 青年が吐息をするように、迷いもなく紡ぐ。打ちひしがれた苦悶の表情があった。

 彼のそれを見たとき、唐突にシエナは理解した。
 子供の纏う腐臭。墓地。青年の持つ、百合の芳香。それらは嫌なくらい、符号を示す。
 聞きたくないな、とシエナは素直に思った。
 しかし現実がそれを許すはずがなく。
「確かに、犯したんだ。お前を黄泉路に押し込めるという、恥ずべき悪行を」
 言いながら、確実に二律背反を背負っている青年。彼の逞しくはない背中をぼんやりと見つめ、シエナは泣きたくなった。

 出会った時と同じ、煤けたロングコートが嘲笑うようにはためいた。
「あの馬鹿な男も覚えていたよ。ぼくを散々、化け物呼ばわりして殴った」
 あれほど無表情だった子供の顔は、今では恍惚としている。幼い瞳を三日月のように細め、獲物を見る目付きでじっと青年を眺めていた。

「――ローレン」
 喉を鳴らして笑っていた子供が、ひくりと肩を揺らしたことをシエナは見た。
「俺を、殺しに来たんだろ? でも俺はまだ死ぬわけにはいかないんだ」
「っよくも抜け抜けと! あんたのそういうところが嫌いだよ、フリードリヒ!」
 真っ直ぐと見つめてくる青年の視線を受けて、子供が激昂した。吊り上がった両目に、迸る復讐の炎が燃え上がっている。
 ただ静かにそこにあるフリードリヒが許せずに、ローレンと呼ばれた子供が一歩踏み込んだ。
 懐で小さな果物ナイフが、煌いた。


 息が詰まりそうな、刹那の時。
 青髪が二人の間に割って入っていた。
 枯れ枝の腕から繰り出された凶暴な力を、シエナは限界ぎりぎりで逸らした。青年の心臓を的確に狙った刃は、彼の上腕をかすめ宙を突いた。

 フリードリヒは身動ぎはしなかったものの、突然の第三者の介入に驚きを隠せなかった。
 それは、彼を殺そうとしていた子供もまた同じだった。
「ま、またあんたか! 今度邪魔したら殺してやるって言っただろう!」
 掠れた甲高い声が叫ぶように放たれた。あれほど冷酷だった能面のような仮面はどこにもなく、焦燥感に駆られ必死の形相を浮かべる子供がそこにはいた。
 被った最後の薄皮でそれでも足掻き、あの時のように侮蔑の視線を浴びせかけ、ローレンはぎりりと上下の歯を悔しげに音立てた。
 以前はその態度に怯んでいたシエナも、目元が真っ赤に染まりそれすら眼中に入らない。感情を制御しきれない状態で、少年は走った衝動のままローレンの頬を張った。

 目を丸くして呆然と立ち竦んでいる子供は、やっと歳相応のものに見えた。
 シエナはさらに悲しくなった。
「殺されるのがどれだけ怖いことか知っている君が、そんなことを言うな! もう一度良く考えて、現実を見ろ」
 興奮状態のシエナは、自分で何を言っているか瞬間的に分からなくなることが多々あった。
 それでもこの思いを伝えるため、理性が著しく減った脳内で懸命に言葉を探す。
「君がどんなに理不尽な人生を送ってきたか、知らない。でも、でもね? この人は君のことを十分思っているよ」
「何が分かるんだよ。関係ないじゃないか。あんたには……」
 震える声を押し殺すように、ローレンは言い募る。
 得体の知れない何かに怯えるその姿に、先程の殺気は一欠けらも残っていなかった。



第二十二話:冷たい晩夏の風…END
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