異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
 第三章 裏切り者と鎮魂歌

第二十一話 白百合の香り
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 無様に転げまわる中年の男を、彼は冷たく見下していた。
 軽い恐慌状態に陥っているそれを、ただ無感動に眺めている。それはまるで、無機物をみるような眼だった。
「何を今更。あんたは自分がしたこと、忘れたわけじゃないでしょう」
 細々と紡がれる声は、審判を下すような冷酷で大人びた口調。それでいて声変わりを終えていない、子供のままの無邪気なものにも聞こえる。

「くそ! 化け物め!」
 男は息を切らして立ち上がった。いつ手にしたのか、短い果物ナイフが握られている。刃は微震を繰り返し、荒い呼吸音が静かに響く。
 しかし相手は動揺も、驚愕も、何も感じていない。ぼんやりと男を、睨みつけるように見ている。
 突進してくる男の姿を目にしてもなお、避ける素振りはなかった。

 ずぶりと、肉に食い込む嫌な音がした。
 相手の胸を一突きにした男は、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。奥へ何度も押し込め、ようやくナイフを引き抜こうとする。
 だが、それは叶わなかった。
 男の表情は機械仕掛けの人形のように、恐々と変化していった。歯根はがちがちと鳴った。

 一向に表情を変えないまま、彼は片手でナイフの柄を握った。
 手袋の感触が途端に恐ろしく感じ、男が柄から手を離そうとする。重ねられていた小さな手は鉛の塊のように動かず、握った状態のまま男は押すことも引くこともできなくなっていた。

 やがて、男の喉から引き攣った悲鳴が上がる。腕は重力に従って、手首と肘の間でだらりと垂れ下がった。
 万力のような力に呆気無く潰された骨が、浅黒い肌から覗いていた。

 悶え苦しむ男を見て、彼は初めて笑みを浮かべた。
 細く吊り上がる視線。頬まで裂けるように開いた口元。常人が見れば一目でまともではないと認識できる、残酷な微笑み。
「あんたが止めた心臓でしょう? 動いているわけないじゃないか」
 戦慄を覚えるような高笑いを上げて、彼は倒れ行く男を見届ける。
 しばらくすると、それは単なる肉塊と成り果てた。

「心臓麻痺なんて、楽な死に方をしちゃって。不公平だよね……」
 彼は、僅かに俯いた。



 + + + + + +



 夜明けだった。
 エメラルドグリーンの海は煌く宝石箱のようで、時間が経つにつれて空が明るくなってくる。
 甲板にはすでに何人かの乗客が集まっていた。見事な日の出を見物しているのだ。顔を出した太陽に、その場にいる全員が目を細めた。

「早いですね、シエナさん」
 赤い恒星が水平線から離れた頃、フォードが甲板に顔を出した。軽く手を上げ、シエナは挨拶を交わす。

 いかに吸血鬼であろうとも、元々夜行性である魔物であるフォードには朝の日差しは眩しいものだった。強い光に立ち眩みを覚えることもしばしばだ。
 そのことを気遣ったシエナは、早々に柵から離れ、影になっている階段の下まで歩み寄った。
 朝の感動を分かち合うべく、早速今見たものを雄弁に語り出す。互いに相槌を交わしながら、二人は雑談を続けた。

 程無く港に着いた。
 入港する時の心地良い振動を感じながら、二人は窓の外を覗きこんだ。
 出発した町とはまた違い、独特の家並みが連なっている。歴史が深いということには納得がいく風景だ。


 二人が支度を済ませ、船から降りたのは最後の方だった。
 シエナは行きに上った鉄製の階段を、今度は下りながら辺りを見回した。船着場では再会を喜ぶ家族や恋人、楽しそうな観光客で賑わっていた。貨物だけを運んできたわけではないため、行商人や仲介者の姿はない。

 先に下へ行ったフォードの姿を見止め、慌てて降りようとしたシエナに追い討ちがかかった。
「お客さん、すまないが早く降りてくれないかい」
 若い船員が疲れた様子で言った。心なしか顔色は青褪め、声も震えていた。
 急いでシエナが足を地上に下ろす。同時に船員は走り出し、倉庫が並ぶ道の奥へと姿を消していった。
「何かあったのかな」
 シエナとフォードは顔を見合わせた。


 程無くして、先程の船員が戻ってきた。傍らにはフォードと同い年くらいの青年がいた。白衣のような白い服と革張りの四角い鞄を持っている。
 歩き出していた二人は彼らとすれ違った。
「……ん。花の匂いがする」
 フォードは無意識に口に出しながら首を傾げた。
 彼が嗅いだのは百合の香り。季節は夏であるのだから、花が咲いていても不思議ではない。生命力の強い植物なので町中に生えることも多々ある。
「花粉の匂い? あの人って医者でしょう。普通、薬品の臭いの方が染み付くものじゃないのかな」
 率直なシエナの意見に、フォードも同意する。

 体臭とは、その人物が日頃何をしているのかを克明に表す。煙草や硝煙、染み付いた血の臭い、温かな陽だまりの匂いなど、生活状態がそのまま映されるものだ。
 見るからに医者である青年から、何故花の匂いがしたのか。
 疑問を覚えてしまった二人は、自然と彼らが向かった方向に顔を向けた。遠目に、数人の船乗りたちが青年を呼んでいるのが見えた。



 船員が運んできたものは、白い布に包まれた大きな物体だった。周りに人気が無くなってから運び出されたからには、あまり良いものではないのだろうと知れた。
 青年を呼んできた若い船員が何度も首を振っている。酷く困惑している様子だった。
「先生……やっぱり、駄目ですかね」
 船長らしき男が伏目がちとなり、青年に尋ねた。
 彼もまた首をゆるゆると力なく振り、包みの中のそれを幾度か触っていた。

 頭を垂れながら青年はようやく立ち上がった。
「持病持ちだったようですね。朝方辺りで心臓が麻痺したようです」
 悲しげに彼は症状の診断を下した。苦々しい顔は命を助けられなかった悔しさが滲み出ていた。そして、諦念の気配が色濃く漂っている。

「葬儀屋を、呼んで下さい。遺体はこちらが引き取ります」
 あくまで事務的に用件を述べ、彼は死亡診断書の項目を淡々と埋めていった。
 町医者であろう彼にそこまでさせるわけにはいかないと、船長は身振り手振りを含めて断ろうとしている。
「――父、ですから」
 静かに言葉を吐き、青年は悲痛な面持ちのまま船場から立ち去っていった。


 誰かが船内で死んでいたのだと、シエナは知った。何処かですれ違っていた相手かもしれない。何だか気の毒なようにも思えるし、遺族らしき医者の青年が哀れにも思えた。
 同情心と共に、船上で見た子供の存在が輪郭を伴いはっきりと浮かび上がった。
 まさか、とシエナはよく目を凝らした。それからすぐに、血の気が退く音を身体のどこかで聞いた。
「シ、シエナさん……」
 フォードの声は覇気が無かった。

 遺体は、子供を化け物と罵っていたあの男だったのだ。



第二十一話:白百合の香り…END
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