異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
第三章 裏切り者と鎮魂歌
第十八話 わだかまり
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倉庫と倉庫の間は薄暗く、活気に満ちた表とは全く異なった空気を醸し出していた。
何度も続く十字路はまるで迷宮だ。響く汽笛が、遠い世界のように聞こえる。
日常と切り離された亜空間の中を、シエナとフォードは突き進んでいった。頼りになるのは魔物特有の聴覚と、鼓膜を微かに震わせる低い声。通常の人間ならば聞こえるはずのない音だけだ。
「その角だね」
フォードと順路を示し合わせながら、シエナは最後の角をゆっくりと曲がった。
積み上げられた木箱とタルの影に隠れた二人は、様子を探った。
五十ほどの男が何かに向かって喋っていた。彼の身なりは立派なもので、派手なアクセサリーを色々な場所にぶら下げている。数から見て、着飾るためではなく、見せびらかすためにつけているのが明白だった。
小さな皺が目立つ顔は、憤怒の色を濃くしている。同時に何かへの怯えも含まれているようだった。
シエナは、その顔を意味を知っている。
気付かれないように隣の青年を伺った。あの時のフォードも、威嚇するようにシエナに向かっていた。自分の領域を侵された怒りと、侵されていく恐怖感に耐え切れずに。
「シエナさんっ」
フォードが突然指差した。名前を呼ばれ、慌ててシエナも前方に目を走らせる。
障害物に阻まれて最初は見えなかった内壁があった。倉庫のその壁は薄灰色だったが、視線を下ろすと違う色が目に入る。くすんだ土色の塊が。
男はしきりに、化け物、とを叫んだ。振り上げられた拳が、躊躇なくそこへ振り下ろされる。
それを見ていたシエナは、毛先までもが一気に沸点に達した。
フォードが制止をしようかと動く前に、木箱の影から飛び出す。大股で男の下まで詰め寄った。
「あんた、何しているんだ!」
噛み付きそうな勢いのシエナに、男は心底驚いた様子だった。今までの威勢はどこへいったのか、男は意味を成さない悲鳴を上げて去っていってしまった。
フォードは男の変わり身に呆気に取られた。
しゃがみこんだシエナは、壁と地べたの間で丸くなっている塊に声を掛けた。
それは、小さな子供だった。
檜皮色のロングコートを抱きかかえるように着ていて、乾いた焦げ茶の髪は埃を纏っている。
憐れみを誘うほど細い腕や足には、痣のような斑点が見える。無造作に巻かれている包帯がそれらを隠していた。
身を守るために縮こまった体の隙間から、視線がシエナに注がれていた。
つり上がった碧色の右目。まるで他者を全て憎むような、不信感がありありと浮かんでいる。
一瞬だけたじろいだシエナは、子供を安心させようと微笑んでみた。大丈夫かと声を掛けるが、反応は返ってこなかった。
「もう平気。あの人は行っちゃったよ」
何度も心配そうに話しかけてくる見知らぬ少年に、子供は動く気配も見せなかった。
どうしてよいか分からず、フォードはただじっと子供の様子を伺っていた。
子供の固まったままの表情からは、侮蔑の気配が漂っている。助けを求めるわけでもなく、むしろ自分達を疎ましく思っているようだと感じた。
(第一、あの男はこの子を何だと言っていた?)
自らもまた、身に覚えのある痛烈な言葉。
眼前に座り込んでいる小さな子供は、フォードの心にしこりのように残っている、気掛かりな誰かと重なって見えた。
しかし、子供の外見ばかりに気を取られているシエナには分からないらしい。
肝を冷やしているフォードをよそに、紙袋から残っていた林檎を取り出して「食べる?」などと尋ねている。
「シエナさん、そろそろ行きましょうよ……」
この子に関与したくはないと、小声ながらもフォードは主張した。
シエナには薄情に映ったかもしれないが、彼のためにもそうした方がいいと本能に呼びかけられていた。
ほぼ同時に、林檎が路地に落ちた。
払われた手の強さに、思わずシエナが目を見開いた。
茶髪の子供は相変わらず顔を顰めたまま、立ち上がった。子供とばかり思っていた背は、それほど小さなものではなかった。
落ちていく赤い果実に一瞥もくれず、穴が開きそうなほど二人を睨みつけた。
「ぼくは食べられないし、林檎は嫌いだ。今度邪魔したらあんた達も殺してやる」
そうして、颯爽と倉庫の隙間へと消えていった。
一度も振り返ることはなかった。
立ち竦んだままのシエナの肩を軽く叩いたフォードは、振り払われた林檎を拾おうと屈んだ。
手に取った物体から、甘い香りが鼻孔をくすぐる。
だが何かがおかしかった。
「……ねぇ、フォード。気付いたか」
「……」
俯いた姿勢で、苦しげな声に問われた。同意を求めるかのような言葉に、フォードは無言をもって返答した。
子供が去ったことで、僅かに空気が動いた。
そこで二人は引っ掛かりを覚えていた。
「暴力を受けた側なのに、最後にあんな物騒なことも言いましたしね」
両方の目頭を指で押さえながら、フォードは拾った林檎を紙袋の中に納めた。
長い溜息を吐き出し、シエナの歩調に合わせながら外へと向かう。
慌しい人々のざわめきが近づく。明るい日差しが視界に広がり始める。
しばらく黙っていたシエナが、不意に口を開いた。
やや疲れたような顔色でぽつりと零した。
「あの子には腐臭が染み付いてるよ」
第十八話:わだかまり…END
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