異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
 第三章 裏切り者と鎮魂歌

第十七話 港町
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 急に、視界が開けた。長く続いた樹海が終わりを告げる。
 宝石のような光の煌きを照り返し、延々と続くコバルトブルーの大海が広がった。

 シエナは幾日も続いた野営の疲れも一片も見せず、意気揚々と坂道を下っていった。始めて見る海に、浮き足が立つ。
 彼が見下ろしている場所には、白い建物が密集していた。帆船が並ぶ所から、港町だということが容易に知れる。
「すごいなぁ。あれが全部塩の水? 信じられないよ」
 嬉しそうに少年が振り返る。背後には旅荷物を肩にかける青年の姿があった。こくりと肯定の意を示し、彼もまた広大な水平線を見つめた。
 時刻は夜明け。空と海の狭間から、始まりの太陽が顔を出していた。

「でもフォード。本当に僕と一緒に来ても大丈夫なのかい」
「くどいですよシエナさん」
 二人で旅をし始めて幾日。毎度のように尋ねてくるシエナに、フォードは苦笑を禁じえなかった。


 あの出来事から、フォードは長年膿のように溜まっていた自分の気持ちを打ち明けることができた。彼の眷属が作り出した幻の屋敷で、悲劇は少しずつ話された。
 それは断片的なものだった。聞かされていたシエナも、十分に当時の状況を思い浮かべることは無理だった。

 吸血鬼が人間のディラと和解したこと。彼はとても優しかったこと。彼には兄と弟と妹がいたこと。麓の人々に家族を殺されたこと。そして、ディラの最期――。
 シエナに分かったのは、それだけだった。
 よく分かったのは、記憶の破片に手を伸ばすことにより、フォードの心は常に傷ついていたのだということだ。

 話を聞いただけなのに、フォードの周りを取り巻いていた陰気はずいぶんと薄れた。
 彼の過去には、まだ黒い帳があちらこちらに下ろされたままである。いつか全てを自分の口から言えるようになれば、彼の背はもっと軽くなるだろう。
 一番それを知っているのは本人だった。シエナが旅立つとき、フォードは自ら同行を願い出たのだ。
「貴方を見ていると、また人を信じられるかもって思うのですよ」
 そう言った彼は、朗らかな笑みを見せてくれた。



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 町の道路は煉瓦を敷き詰め、石灰と砂利を混ぜたもので固めてあった。幅も広くとられている。港町なのだから、運搬のためだと窺い知れた。

 町に入った二人はまず宿を探し出した。
 宿泊するということで、シエナが心を踊らせていたのは言うまでもない。
「やっぱりお金はあった方が便利だね」
「稼ぐのは大変ですけどね。今は、植物の研究書の印税で賄っていますけど」
 シエナの言葉に苦笑いを浮かべてフォードが言った。

 実はシエナも、彼の本――名義はディラであるのだが――を図書館で何度か目にしたことはあった。主に高山植物の図鑑や、生態の研究本だったので読み返したことは無い。シエナがフォードの名を覚えていなかったのは、そのためだった。
 フォード自身は、ディラの研究を受け継いだだけだと謙遜する。しかし旅をするようになり、実際に彼は優秀な学者なのだとシエナには分かっていた。

 大通りに入ると賑やかな市場が目に付いた。新鮮な魚や異国の果物がずらりと並んでいた。
「物珍しいですか?」
 黙って先導していたフォードが振り返った。シエナは立ち止まり、額を掻いた。図星を指されたのだ。
 少年らしい仕草が微笑ましく、フォードは自分の腰から袋を抜き取った。
 その行動に慌てたのはシエナだった。
 別にいいよ、と何度も手を振って否定する。けれど僅かに喜色の色が見える表情は隠し切れていない。
「私があの林檎が欲しいと思っていたところです。シエナさん、悪いですが三つほど買ってきて下さいな」
 彼は、あくまで自分のついでだと強調した。

 言葉に詰まったシエナだったが、紙幣を無理やり握らされてしまい後には退けない。
 後押しもされてしまい、気付けば露天商と目が合ってしまった。
 愛想良く笑う商人に差し当たりの無い挨拶を述べ、シエナは丸々とした赤い林檎を三個手にした。


 しゃくりと音を立てれば、甘い蜜の匂いが鼻の奥をくすぐった。
 二人は一つずつ林檎を頬張り、あまり行儀が良くないが歩きながら食べていた。
「潮の香りがするね。波止場が近いのかな」
 前方にはいくつかの帆船が見える。船乗りと商人が交渉している姿が目に付き始めた。
「昨夜訊きましたけど、海を渡って良いのですね?」
 確認するようにフォードが尋ねた。シエナは無言で頷いた。

 この港から出る船で、西の大地と中央大陸の境の土地へ行ける。その地域には多くの魔物の伝説が残っているという。
 二つの大陸は地続きなので歩いて行けなくはない。しかし、危険が伴う上に日数がかかり過ぎる。提案された海路を、断る理由も無かった。

「多分、波止場の側に連絡船の切符売り場があるはずですから」
 手分けして探そうかと考えたときだった。

 二人が同時に足を止めた。林檎の芯は紙袋にしまった。
 辺りを探るように、首を巡らせ始める。
「何……? 倉庫の方?」
 確認するようにフォードを見上げる。耳の良い吸血鬼はすでに目的の場所を発見したようで、じっと倉庫の隙間を睨んでいた。
 人々の行き交う喧騒の中、奥まった所から男の怒鳴り声が聞こえた。



第十七話:港町…END
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