異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
第三章 裏切り者と鎮魂歌
第十五話 土塊は死者の匂い -1-
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最近、ウィル医師の容態は芳しくなかった。
彼の歳はすでに六十を越えている。職業柄なのか、人一倍身体には気をつけてきた。人間の平均寿命をとっくに越えていてもなお現役なのは、そのおかげだ。
だが寄る年波には勝てず、あまり外へ出ることはできなくなっていた。
――そして一族の者たちは当主の命が短いことを思い、色めき立っていた。
莫大な財産を手にするのは誰か、遺書に名前は書かれるのだろうかと。
皆、我先に算段をし始めたその頃。
「お義父さん」
静かに、ローレンは義父の寝室へ入った。
ウィル医師は床に伏せていた。傍らには夫人が椅子に座り、夫の世話に励んでいた。
「ローレン、こちらへおいで」
「はい」
扉をきちりと閉め、ローレンは奥へと歩み寄った。
部屋は薄暗かった。ベッドの側にあるランプの光だけが唯一の光源であり、高齢の夫妻の顔を緩やかに照らし上げていた。
義母に勧められた席に座り、じっと少年は待った。透るグリーンの瞳は真摯な色を湛えている。
乳飲み子の時から栄養失調にかかっていたローレンは、同年の男の子達よりも一回り小さかった。十にも満たない時分から満足に食べたことの無い胃は、暮らしの良くなった今でも食事をあまり受け付けない。
そのため彼は、常に不健康な細い身体を持て余していた。
「……すまん。元々は何の繋がりもないお前に、重い物を背負わすことになる」
目を伏せた義父に対して、ローレンはただ首を振る。最初から覚悟していたのだと、無言の肯定であった。
「お義父さん、大丈夫です。ぼくにはお義母さんもフリードもいます。だから早く良くなって下さい」
常に子供は気丈だった。
礼儀正しい言葉遣いには甘えが微塵も含まれず、逆に両親が一抹の寂しさを感じてしまう。
冷静で健気な子だったから、医者には向いている。しかしウィル夫妻は危惧していた。大人びた態度を取り続ける息子が、自分の心をいつか壊してしまうかもしれないと。
夫人が乾いた茶髪を撫でた。はっとしたローレンが、義母の方を向いた。
瞬間の表情は確かに幼い。けれど彼の育った境遇と、この雁字搦めの一族がそれを表に出すことを阻んでいるのだ。
「わたしもね、この人もね、ローレンが好きよ。本当の子よ」
ウィル夫人がゆっくりと呟く。暖色に彩られた寝所で、おとぎ話を紡ぐように。
「だからたまには甘えて欲しいわ。私が、やっぱりお母さんじゃないのかと不安になるの」
「違います! お義母さんは、ぼくの本当のお母さんです!」
初めてローレンが声を荒げた。急に立ち上がり、畳み掛けるように早口になる。
興奮して微かに上気した様子の息子を、二人は黙って見つめている。
「お義父さんもぼくの唯一のお父さんです! それがぼくの、ぼくの、誇りなんですっ」
ローレンは熱くなる目元を押さえた。語尾は振るえ、掠れ、嗚咽のようにも聞こえた。
これほどまでに感情を高ぶらせたのは久しぶりだった。
華奢な肩に手を掛け、ウィル医師は微笑む。
項垂れた息子をあやすように、何度か軽く叩いた。
「立派なお医者になるから。ぼくがお義父さんを治すから。死なないでよぉ……」
しゃくり泣きを繰り返すローレンをウィル医師は抱きしめた。何度も死なないで、と繰り返す彼に、飽くことなく返答をする。
傍で優しく見守る夫人の目にも、涙がうっすら浮かんでいた。
寝室を後にしたローレンは、恥ずかしげに口元を押さえていた。
言うまいと思いながら過ごしてきたはずだった。しかし愛する家族がいなくなってしまう現実に、彼は耐え切れず本音を露呈した。
不覚だとは思っていない。きっと自分は、両親が亡くなっても泣く事は無いだろう。だからあそこで放ってしまったのだ。言わなければ、二人もローレンも後悔するのは目に見えていた。
複雑そうな苦笑いが浮かぶ。それでも心持ちは晴れやかだった。
フリードリヒにもこの気持ちを話しておこうと、ローレンは自然と急ぎ足になった。無二の親友である彼のことだから、きっと喜んでくれるだろう。彼は父親とうまくいってないようだったから、慰めにもなる。
フリードリヒの控えめな笑顔を思い出し、口元が僅かに緩んだ。
「ローレン!」
突然名前を呼ばれ、反射的にローレンは振り返ろうとした。
同時に背後から衝撃が襲ってきた。状況を掴みかねている少年の口を、布が覆った。
そしてそのまま、彼の意識は混濁していった。
第十五話:土塊は死者の匂い -1-…END
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