異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
 第二章 崖から手向けた白い花

第十三話 崖から手向けた白い花
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 シエナとフォードは相変わらず屋敷の廊下にいた。
 筋肉が弛緩したフォードの体が重く、半ばシエナに凭れかかるように支えられていた。

 押し寄せてくる居心地の良い眠気に、抵抗する間もなくフォードの瞼は落ちた。たゆたう感覚の中へ引きずり込まれる彼を、シエナは見上げていた。
 最後に、じっと顔を見つめられたような気がしたからだ。

 正直、人魚の歌が魔力の高い吸血鬼に効くことは奇跡にも近かった。
 だが、腕の中で意識を飛ばした男は、明らかに心に隙があった。傷付いた子供のような姿を見せる彼には、歌という思いもよらない搦め手に身構えることもできなかった。
(思い出して。君が、幸せだった時を)
 語りかけるように、シエナは心の中から言葉を発していた。
 まどろみに魂を落としていく、人形のような顔を抱きかかえシエナは必死に歌い続けた。

 その時、奇妙な浮遊感をシエナは感じていた。何かが四散していくような、不思議な感覚だ。
「……?」
 歌うことを止めることはできない。首を最小限に動かし、辺りを窺う。

 一瞬の出来事だった。

 屋敷の輪郭がぼやけて、思わずシエナが、あっ、と声を上げてしまう前に、屋敷を形作っていたものが一斉に舞い上がった。
 それは、蝙蝠の大群だった。何百、何万もの黒い影が、シエナの足元から頭上から湧き上がるように飛び交った。ものの数秒で、シエナの視界は真っ黒に染まる。
 外からは、突如として巨大な黒塊が現れたように見えるだろう。それら一匹一匹が、けたたましい鳴き声を叫ぶ様は恐ろしいものだ。または、烏が死体を貪っている情景を思い出すのかもしれない。それも一層不気味である。

 動くことのできなかったシエナは、呆然と空を見上げていた。
 蝙蝠の群れはしばらく辺りに固まっていたが、だんだんと散り始めた。黒い姿が空に映え、そして山の方へと去っていく。

「……ここの屋敷は、紛い物だったのか」
 ようやく周りが静かになったとき、ぽつりと少年は呟いた。
 ちょうど腕の中の青年も気が付いたようだ。身じろいだ気配に、シエナは力を入れて彼の体勢を直した。

 無防備な両目がじっと自分を見つめていることに慣れず、シエナは一応声をかけてみた。返事は案外しっかりとしていた。
「魔力が、維持できなくなりましたから」
 ひとり言に対しての答えだと知り、シエナは微かに頬を染めた。
 擦れる声にはさっきまでの怒気が感じられない。
 フォードは何とか足に力を込め自分で立つと、そのまま目線を上げて一点をじっと見つめた。
 彼は、一心不乱に北の山を見つめていた。


 どれくらい時が経ったのだろうか。

 太陽が西へ傾き出した頃、ようやくフォードは思考を中断した。じっとしていたせいか、少々緩慢になった動きでシエナの方を向いた。
 シエナもまた、動かずに座り込んだままだった。怯えも恐れも微塵に感じさせない、真っ直ぐな目でフォードの視線を受け止める。
「ずっと考えていました」
 静かな声だった。
 初めて会ったときのように大人びた印象はなく、そこに立っている吸血鬼の青年はシエナと限りなく歳が近くに思えた。
「夢でディラ――貴方が言っていた、魔物と共存した人間です――が、私に語りかけてきたのです。その言葉を、ずっと……」
 目が乾いたのか、しきりに瞬きを繰り返していたフォードは、そこで一度切った。
 彼の中で、何かが変わったのはシエナにも分かった。
 それが受け入れられないのか、それとも表す言葉が見つからないのか。フォードは何度も区切り、深呼吸して話し続けた。

「私は、人間が憎くて仕方なかった。大切な人たちを、無残にも八つ裂きにしていく彼らこそが悪魔のように思えていた」
 ぽつりぽつりとフォードは自分のことを話し始めた。
「だから同じように苦しめてやろう。そして己のしでかしたことを悔やみ、死に恐怖させながら殺してやる、とあの日に誓ったのです」
 呪いの言葉を苦々しく話すフォードの目の奥には、もう悲しみの色しか映らない。

 十年前、背の高いこの青年もまだ幼かったことだろう。シエナの肩に届くかどうかわからないほど、小さかったことだろう。
 まだ親の庇護の元で暮らしているはずの歳に、フォードは肉親を亡くした。しかも、敬愛していたであろう人間と同族の者に。
 フォードはその時にきっと、感情が冷たい炎によって燻されてしまったのだ。
 復讐という道を選んでしまった子供。心の内には鬼が生まれ、光溢れた思い出は鋼鉄の鍵によって固く封じられたのだ。
 それはとても視野の狭い中で、彼にはもう他の道の存在にすら気付いていなかったことだろう。

 ふとフォードは軽く首を振る。
「……けれど、それは死者を悼んだことではなかったのですよね。私が悲しくて寂しくて、この気持ちをやり場のない怒りに変えていただけ」
 やりきれないような複雑な表情で、シエナはそれを黙ったまま聞いていた。
 彼は否定も肯定もしない。それが何故かフォードには嬉しかった。自分の考えに耳を傾けてくれる存在が、ひどく懐かしかったせいかもしれない。

「貴方の真っ直ぐな瞳。ひたむきに答えを、真実を知ろうとする姿勢に、私はディラを思い出して、不快な気分になりました。汚れた私が青い瞳に映ることが嫌だった」
 力無くフォードは微笑んだ。
「貴方は似ている。色だけじゃなくて性質がね」
 シエナは訝しげに、フォードの言葉を繰り返した。
「性質? ……でも僕は、人間じゃないよ?」
 少し間を開けてから告げる。
 青年は瞼を瞬かせたが、すぐさま緩い笑みに顔が戻る。シエナが魔性の歌を歌ったときの異常な眠気のことを思い出していたのだろう。フォードは再び、首を横に振った。
 それから顔を上げて、シエナの方へ手を差し出す。
 彼は満面の笑顔を称えて彼を呼んだ。影のない穏やかな笑顔を、この時初めてシエナは見た。



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 時は夕刻。高原植物はしなやかな体を風に任せて、ざわざわと音を鳴らす。
 北の山は夕焼けに染まり、美しいその姿を惜しげもなく眼前に晒していた。
 その中腹には、焼け焦げた跡の残る屋敷があった。その場所に、シエナは連れて来られていた。
「綺麗だね」
 シエナは感動の溜息を吐いた。
 ええ、とフォードが嬉しそうに頷いた。その手には小さな花束が握られていた。白い花弁を揺らす様子が儚い。
「ディラが好きだった花です。もう自生しているから、手入れは必要ないでしょう」
 指差された方を見てみると、なるほど、屋敷の裏手に白い海が見える。あれほどまで数が増えれば、もはや人の手はいらない。


 花は散りながら、崖下へと消えていく。
 フォードが崖に向かって花束を投げたのだ。暗い過去を拭い去るべく。
 そしてフォードは、囚われた鎖から解き放たれたように笑った。涙が滲んだその目で、しっかりとシエナを見た。
「――帰ったら、家を作り直して話しましょう。長い長い、話をしましょうね」



第十三話:崖から手向けた白い花…END
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