異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜
 第二章 崖から手向けた白い花

第十二話 Voice and Your Word
←第十一話++目次++第十三話→


 フォードは夢を見ていた。
 あどけない表情で走る男の子は、彼の幼き日の姿。なだらかな斜面を滑る緑色の絨毯も、温かな家族の存在も、過去のものにすぎなかった。
 空の上からそれを眺めるような錯覚の中、思い出の頁は止まることを知らない。

 高原を渡る風が、子供の白いブラウスを揺すり上げる。その拍子に彼は転びそうになった。
 しかし地面に顔をぶつける前に、誰かの温かな手が男の子の体をそっと支えてくれた。

 その手の持ち主を、フォードは知っている。
 苦々しい記憶と共にある一人の青年貴族。優しく寛大で、唯一フォードが師事を請うた人間。
 彼の名は、今でも呪詛のように自らの魂に刻まれている。


『ディラ! 探していたんだよ』
 未来に不安を覚えることもなく、無邪気に子供のフォードが青年に笑いかけた。
 二十代半ばのディラと、まだ十にも満たないフォードが並ぶと奇妙に見える。兄弟にしては歳が離れすぎているし、親子にしてはディラは若い。
 だが実際の家族よりも、二人の結びつきは強く仲が良かった。

 腕を引っ張られながらディラは尋ねた。
『侯爵夫人の出産が終わったのですね。名はもう付けたのですか?』
『ううん。父上も母上も、ディラにつけて欲しいって言ってた』
 急かすフォードに苦笑して、ディラは屋敷へと戻っていった。


 王侯貴族であったディラの一族は、北の山一帯を所有していた。
 しかし国は荒廃し滅びた。彼の一族は見る間に富と名誉を失い、没落した。国と共に一族は破滅への道を辿ったのだ。
 気が付けば幼かったディラの手元には、荒れ果てた姿の北の山と古びた洋館だけが残されていた。
 それでも彼は一度として、屋敷と土地を手放さなかった。
 自らの育った地――北の山を、このままの状態で放っておけなかったのだ。


 山の中腹にある屋敷は、晴れの日には麓から見えるほど大きなものだった。
 この館は、一族が山を所有する以前からあった。絢爛な造りは人間に溜息を吐かせるばかりで、一体誰が建てたのかは結局分からなかったことをディラは知っていた。

『いつ見ても立派です。知らなかったとはいえ、勝手に住んでいたのはやはり迷惑でしたよね』
 二階の寝所には、身なりの立派な男性と、床に伏せて微笑む女性がいた。
 女性から赤ん坊を抱かせてもらい、ディラは嬉しそうにしていた。それからぐるりと部屋を見渡し、眉を顰めた。
『ふふ、そんなことはないわ。だって貴方が住んでいたから、帰って来たとき埃まみれにならずに済んだもの』
 女性――侯爵夫人は鈴のような笑い声をたてた。
『ディラと生活し始めて八年か。長いようで短い。フォードもこんなに大きくなった』
 赤ん坊を受け取りあやす妻から視線を外し、侯爵は自分の息子と、隣に立つ優しげな青年を見た。
 侯爵に言われ、ディラも思い出す。
 彼らと同居するようになった過去の出来事を。

 自分が生まれる前のことを話されて、フォードは少し苛立っていた。だから思い出話に花を咲かせる二人の間に割り込み、強制的にディラを連れ出していってしまった。
 それを見た両親が微笑ましく思っていることを知らず、フォードは屋敷の外へ出た。
『突然どうしたんですかフォード?』
 不思議そうに首を傾げるディラに、不貞腐れた返事が返る。八つ当たりだと分かっていても、止められない。そういう点でも、フォードはまだまだ子供だった。
『別にいいのっ! 植物学と歴史を教えてくれるんでしょ。庭園に行こうよ』

 屋敷の裏手に広がる、ディラが丹精込めて造った庭園は、季節ごとに折々の草花を見せてくれる。
 フォードは毎日のようにそこで勉強を教わっていた。
 苛々を隠すように足早に向かう彼だが、ディラにはお見通しのようだった。
『今、子供っぽいって思ったでしょ!』
『いいえ? でも吸血鬼の男は十三にならないと、大人ではないのでしょう?』
 くすくすと声をたてたディラの方へ、フォードが思わず振り向いた。
 意地悪そうな顔をしているだろうと踏んでいたが、予想外なことに青年は温かな笑みを零していた。
『大人になればずっと大人ですけど、子供は今しかできませんよ。怒ったり泣いたり、好きなだけしなさい』
 そう言うとディラは、まるで失くした自分の幼少時代を懐かしむかのように、己の青い両目を細めるのだった。


『フォード、人間が怖いと思ったことはありませんか?』
 一通りの勉強が終わったとき、ふとディラはこう漏らした。
『同族の私でさえ、人は恐ろしい生き物だと分かります。遺産争いのさい、様々な諍いがありましたから』
 ディラはほとんどひとり言のように呟いた。フォードは首を傾げ、彼の話を静かに聞いている。

 けれど、と柔らかい金の髪を揺らし青年は晴れやかに顔を上げた。
 少年のように輝いた笑顔だった。
『私と吸血鬼の貴方達のように、たとえ生まれや文化が違おうとも共存はできます』
 日差しが彼の髪に天使の環を作り出した。それが、神々しく目に映り、幼いフォードの背中が薄ら寒くなった。
 眩しい光の中に、ディラは溶けていきそうだった。
 まるで、この後に起こる悲劇を予兆させるかのように――。

 急にディラが、視線を宙に彷徨わせ始めた。
 やがて、遠くから眺めていた現在のフォードと目があった。

『だから忘れないで。心を開く術を、相手を理解する気持ちを』

 記憶にはない言葉が発せられ、フォードはわずかに見開いた。
 ディラの青い瞳が、その清楚な顔付きが、つい先程まで対峙していたシエナと重なって見えた。


 遠のいていくその姿に、フォードは無意識に手を伸ばした。
 霞んでいく世界の中、ディラの言葉だけが響き渡る。その最後の言葉も、はっきりと彼には聞こえた。

『そして、自分が幸せになるための未来を』



第十二話:Voice and Your Word…END
←第十一話++目次++第十三話→


Home Back
-- Copyright (C) Sinobu Satuki, All rights reserved. --