北軍は程無くして撤退を始めた。
真っ白な新雪で覆われていた大地は、赤黒く染まっている。その上に折り重なるように死体が重なり合い、地面は抉れていた。
間合いに誰もいなくなったオニキスは、戦闘中に一度も下ろさなかった腕から力を抜いた。そして感慨も無く、丘の上へと消えていく戦車と兵隊を見つめていた。
キアナは辺りを確認してからライフルの銃口を下ろした。小隊の者達も、その動作を見送ってから同じように手を放す。イアンは硬直していた背筋から一気に力が抜けたのか、浅黒い顔を俯かせて膝をついた。ロウは思い切って地面に仰向けとなり、腕を伸ばす。
緊張の糸が途切れ、彼らは思い思いに暫しの休息をとった。
溜息が漏れる。いつだって戦闘後は極度の疲労に襲われた。
ライフルの安全装置を確認したキアナの元に、本隊からの伝令が駆け寄ってきた。
予想していたとおり、任務終了の指令が下る。
伝令の兵士にも安堵の気色が浮かんでいる。しかし青褪めた肌の色は、本能的な恐怖がまだ去っていないのだということを暗に知らしめていた。
安心させるようにキアナは伝令の肩を軽く叩き、労いの声をかけた。微かに彼の強張りが解けたようだった。
「ルーファ……隊長は無事かい?」
「勿論です、伍長。本隊は何人か怪我をしましたが、死者は一人も出ておりません」
伝令は敬礼を返して本隊へと走り去った。踵を返したその表情が再び強張っていた様子を、キアナは見つけてしまう。落胆が胸に満ちた。
死者は一人もいない。
当たり前だ。黒い眼の人形が身代わりとなって弾を受け、血に塗れたのだから。
人身御供のような狂気じみた儀式。あんなにも痛々しい眼差しをしていた――キアナにはそう見えた――オニキスが、失うはずの命を助け、奪うはずの命を代わりに狩った。
兵士達は彼に恐怖した。オニキスはただただ命令を守っただけのこと。なのに戦闘が終わった今でさえ、まるで未だに猛獣が側にいるかのような態度で味方までもが顔を顰めている。
オニキスのおかげで誰も死なずに済んだというのに。
キアナははっと面を上げた。
自分は、オニキスをまるで人間のように捉えて、彼という個人を常に考えている。
物見台で会った時は彼をまだ機械だと認識していたはずなのに、今ではこうして怯える仲間の態度にでさえ苛立った。
(それは何故?)
湧き上がった自問に、キアナは嘆息を吐き出した。
分かりきっている。答えは最初から自分の中に存在しているのだ。
自暴自棄になっていた頃、世話を焼くルーファスを一度突き放したことがあった。
自分のことなんて放っておいてくれ、と墓場の前で恥ずかしいことに泣き叫んだ。
歳若くして隊長になり、位も随分上の彼が、何故自分なんかに構うのかその時は本当に分からなかった。
伸ばされた手を思い切り振り払ったせいで、ルーファスの軍帽は雪の上に落ちた。けれど彼は怒ることもなく、ゆっくりとした動作で帽子を拾った。
苦笑を浮かべ、嗚咽を漏らすキアナにその帽子を被せてくれた。目深に被ったそれは、キアナの目元を覆い隠した。
困惑したキアナは、僅かに覗く隙間からルーファスの豊かな金糸を見た。
『……どうして、ルーファスさんは俺なんかを』
『そうだな。無茶なところが、弟に似ていたからかな』
にっこりと笑う気配がする。取り乱していたことが急に恥ずかしくなり、キアナは軍帽をこれ幸いにと深く被り直す。上司の軍帽に大して失礼な行為だが、ルーファスは咎めなかった。
『弟、がいらっしゃるのですか?』
『同じ北欧生まれでね。血は、繋がっていないのだけれど。自分を省みない子だった……』
初めて耳にするルーファスの弟の存在に怪訝に思いながら、キアナは寂しげに話す彼の言葉を聞いていた。
『最初は向こうに嫌われていて、それでも私は放って置けなくて。キアナ君と同じこと言われたよ』
それでも、とルーファスは一呼吸置いてから続けた。
『嫌われていても、私は彼のことが知りたかった。知りたいから構う。弟のことをよく考えた。何か、してやりたかったんだ』
涙が乾いた頃、キアナは気づいた。先ほどからルーファスが過去形で話していることに。
しばらくの沈黙の後、キアナは謝ろうかと顔を上げた。
ルーファスは黙ったまま深く笑んでいて、冬の湖のような青い瞳を細めてキアナを見ていた。
背後で輝く銀色の絨毯に掻き消えそうな、儚い微笑み。声をかけてしまえば一瞬で崩れ去るような、静謐さがそこには存在していた。
声を失ったキアナに、ルーファスは再び口を開いた。
『重ねているわけではないが、自らの未来を狭めている者を見ると少し哀しいく思える』
雪景色に溶けていきそうな彼の表情は、その背後から差す照り返し以上にキアナの涙腺を刺激した。
知りたいから、考える。
ルーファスの言葉の意味が痛いほどよく分かった。
自分が抱えているオニキスに対するものは、まさにそういうことなのではないだろうか。
無表情で無感動なのに、時折揺れるように見える黒眼の意味を。
自分は機械なのだと言いながら、人間らしく見えてしまうその一面。
不自然でありアンバランスな彼をキアナはもっと知りたいのだ。オニキスという存在自体を、理解したかったのだ。
「あの、伍長?」
突っ立ったままのキアナに、イアンが心配そうに呼びかけた。
戦闘後のキアナはこうしてぼんやりしていることが多かったが、今回は思考の海に漂う時間が長かったらしい。
慌ててキアナは振り返り、それぞれの姿を確認した。
「お疲れ。皆、帰ろう」
誰も負傷していないことに安堵し、キアナは森から出た。
砦の側では死んだ北軍の兵士達の死体を焼いていた。
簡単な火葬を進める部下達を見つめながら、ルーファスは腕を組んで戦車に寄りかかっていた。
軍帽は手の中にあり、長い前髪で表情は隠されている。それが一層近寄りがたい空気を醸し出している。
そんな彼に一瞥もくれることなく、オニキスは真っ直ぐと砦への道を歩いていた。前進が血染めに彩られ、近くによるだけで悪臭が鼻を刺す。
幽鬼のようなその姿に、兵士達はあからさまに視線を逸らす。死体の焼ける臭いと血の臭いは決して気分の良いものではない。
「任務完了致しました。引き続き、監視に当たります」
オニキスはルーファスの前に立ち、じっと次の言葉を待った。
鈍い動作で顔を上げたルーファスは、赤く染まった衣服を下から上までぼんやりと眺めた。
「……着替えてから行くといい」
「了解しました」
去り行く背中を見送ることも出来ず、ルーファスは唇を噛み締めた。
火葬はまだ、終わらない。
砦は騒がしくなり、人の気が戻ってきた。
本隊の皆から労いの言葉を貰いながら、キアナは一人ルーファスの姿を探していた。
どうやらまだ中には戻ってきていないようで、何となく覗き込んだ窓からそれらしき人影が見えた。
ごった返す入り口の人波を逆流し、キアナは極寒の空の下へ出て行こうとした。
その時、赤い人影が帰還してきた。
「オニキス……」
名を呼べば、オニキスは不思議そうに首を傾げた。
「何故LN-01と呼ばないのですか? 貴方も――ルーファス中尉も」
思わずキアナは目を見開いた。
オニキスはその様子に気付くことなく、「北の監視に戻ります」と言い残して去っていった。
炎が全体に燃え広がり、後は自然鎮火を待つのみとなった。ルーファスは渋る部下達に休むよう伝え、自分はその場に残る。
戦闘後はいつも一人になりたかった。それは自らの手で死なせてしまった者達を葬るための戒めの時間だったが、今日は違う。
思い出の中で約束をした人と、その人の片割れも同然であった半身への懺悔だけがルーファスの胸に満ちていた。
「……ごめん、なさい……」
「ルーファスさん?」
零した言葉の後に響いた声に、ルーファスは驚愕で背中を硬直させた。
振り返らなくても分かる。キアナだ。
「帰らないんですか」
どうやらルーファスの声は聞こえなかったようで、キアナはゆっくりと歩みを進め屍の炎の前で煙を仰ぎ見た。
肉の焦げる臭いに閉口するものの、彼はあからさまに眉を寄せるような仕草はしなかった。
「隊長、お願いがあります」
キアナは凛とした声を発し、姿勢を正してルーファスへと向き直った。
少しだけ纏う空気を変わらせたキアナの視線を受け止めて、ルーファスもまた動じることなく続く言葉を待った。
「オニキスの――貴方が知っているオニキスに関する事を、教えて下さい」
ルーファスが微かに瞠目したことにキアナは気付いた。
彼は確かに知っているはずだ。
黒眼を持つ人型兵器の、何かを。
隊長だからではない。優しい人だからではない。
戦地へとオニキスを送りながらも、哀しげな顔をするルーファスだからこそ。自分と同じく、オニキスを番号ではなく黒瑪瑙の名前そのもので呼ぶ彼だからこそ。
知りたいと思うものの糸口になりえる可能性を持つ人なのだと、キアナは確信した。
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