構えの号令の後、キアナの声は無かった。
イアンは訝しく思ったが、小隊長命令をただ待った。それからすぐ後に轟音が響き渡った。思わずスコープから目を離し、彼は顔を上げた。
隣のキアナを窺えば、前方を凝視して肩を戦慄かせている。
その視線の先を辿ったイアンもまた開口したまま我が目を疑った。
オニキスが戦っている。たった一人で。
まるで敵兵は紙屑のように薙ぎ払われ、白い雪上には赤い斑点が飛び散っている。倒れ伏している兵士は、まるで野犬にでも襲われたように、身体の何処かを失くしていた。
轟音の正体は戦車の砲火。丘の上からオニキス目掛けて発射されたはずのそれは、地震にも似た揺れを起し、機械人形の傍らに大穴を開けている。
外れたわけではない。キアナは見ていたのだから。
砲火が唸った後、あの轟音は鳴った。
発射された時に鳴ったのではない。オニキスと接触する直前に、突然軌道を変えて地面に落ちたときに起こったのだ。
雪が地面ごと抉れ、足元が揺れたその時、オニキスは自らの前方に片腕を突き出していた。
刹那、彼の脇のやや後方で爆発が起こった。爆風にたじろぐことなくオニキスは真っ直ぐ立ち、伸ばしていた拳をその方向へと逸らしていた。
抉られた土と爆発に巻き込まれた肉塊が飛び散る中、黒眼の双眸は再び獲物を捉える。
映画フィルムをコマ送りしたような、淡々とした動き。それが、迫り来る砲弾を素手で弾いたのだと理解した時、キアナの背筋に震えが走った。
オニキスは激しくなる砲火を受け流しながら、雪崩のように駆け下りてくる兵士達を次々と狩った。
あの戦場はキアナのいる森からは目と鼻の先だというのに、まるで硝子越しから眺めているように現実味がない。
自分のいるこの場所も戦場だということを失念してしまうほど、それは異常な光景に見えた。
キアナは無意識の内にライフルを握る手に力を込めた。奥歯を噛み締め、本能的に感じる恐怖を抑え込む。
小隊内の兵士にも動揺が走り、誰しも怯えたように顔を引き攣らせていた。
「化け物……」
常なら威勢の良い物言いをするロウが、震えた声で呟く。
それを少し遠くで耳にしたキアナは、不意に思い出した。あの、雪降る物見台で見た黒い瞳を。
キアナはオニキスの言葉と行動は合致しているように見えて、奥底ではまるで噛み合っていないもののように感じた。
自分はロボットなのだと知っていて、人形であろうとするオニキス。
命令されれば何だってできる。それが機械だ。
けれど彼は、悴む手を抱えていたキアナの肩に上着をかけてくれた。オニキスの前では寒いなんて一言も言っていない。温めろなんて一度も命令していない。
些細なその気遣いは人間を優先的に考えるシステムのせいだと思えたが、何かが違うと感じた。
あの時の違和感が、既視感を呼び起こす。
キアナはじっと、戦場を見つめた。
オニキスの動きに戦慄したのか、敵兵達の足並みは鈍い。丘の上の司令塔も攻撃を戸惑っているようだ。
そんな彼らの心情を理解することなく、オニキスは無慈悲な鉄槌を下す。
敵兵達は一撃で殺されることはなかったものの、オニキスの攻撃に腕や足を関節から持っていかれた。転倒して怯んだところを零距離射撃で狙われ絶命している。
鬼気迫るような戦い方なのに、オニキスは黙々と流れ作業のように屍の山を築いていく。
思わず顔を背けたくなるような光景から、それでもキアナは目を逸らさなかった。
何も映していないように見える黒眼が、血飛沫の合間で微かに伏せられたことを見たような気がしたのだ。
本隊が動き出し、戦場は乱戦と化していく。
前衛で戦う兵士の頭上で、砲撃の嵐がやり取りされている。中距離を保ち続けるオニキスに流れ弾が幾つか飛んできたが、やはり同じように彼は弾道を大きく曲げて防いでしまう。直接狙おうとする者はもはやいなかった。
本隊の中央に立つルーファスは、双眼鏡を覗いていた兵士の顔色が青くなっていくことを間近で見た。
誰だって初めてあれを見てしまっては、戦意喪失しかねないだろう。
ルーファスは怯む様子の無い相手の部隊を見やり、赤く染まっていく大地に痛々しい思いを馳せる。
恐ろしい人型兵器が戦場に現れたことで、向こうは戦意を失いかけている。怯まずに特攻せよと、司令塔が命令したところで直接戦う兵士達の心を奮い立たせることはできない。
かつてオニキスは、今よりも酷い地獄絵図を作り上げたことがある。敵味方関係なく恐怖のどん底に叩き落したあの戦場を、ルーファスは忘れることができるはずもなかった。
だからこそ、オニキスが戦場に立ってしまえば敵は確実に退却してくれるだろうとルーファスは内心考えていた。
オニキスの間合いに入らなければ、こちらの被害は最小限に留まる。
(……何て、虫の良い話なんだ)
ルーファスは軍帽を目深にかぶり、狭くなった視界をただ真っ直ぐと前方に注ぐ。
オニキスに戦わせたくないと思っているくせに、彼を利用した戦略を練り上げた。砦の死守が任務であり、部下の命をこれ以上散らすことも許されない立場を理由に。
ルーファスは、自分が酷く愚かな人間に思えた。
本隊の動きと共に、キアナ達もまた援護攻撃を続けた。
オニキスの間合いを突破する者はいなかったが、間隔を理解して彼に一切近づかない者も多かった。そのまま砦へ進む敵兵を、小隊はライフルで狙撃した。
雪に覆われている針葉樹林の中で、発射音が何度か響く。その一つ一つが命を削っていく。
弾が通り抜けていくバレルの重さが、支えるキアナの手に圧し掛かる。
彼とて、白兵戦をしたことがないわけではない。
一年前までは、キアナは本隊の前線に立っていた。握った短銃やナイフが作り出す赤い軌跡と自分が受けた焼け付くような痛みは、今だってリアルに思い出せる。
次々と倒れ伏していく仲間の姿も、最も近くで見た。そして殺した相手の顔も。
精神が擦り切れそうだったキアナは、ルーファスによって狙撃班に回された。血生臭い場所から離れたことで、高ぶった感情を沈静することができた。
結局、人員不足のためそこで小隊を率いることとなったが、自分の手が真っ赤に染まっていく感覚はついぞ忘れられなかった。
特にナイフの刃が肉を絶つ時の感触は新兵だったキアナにとって強烈なもので、戦い終わった後は人目を憚ることなく吐いた。
血の臭いも、徐々に冷えていく生温い人肌も、何もかもが異物に感じられた。
同じ人間でさえ、そうなのだ。
形だけ模造しながら、完全に異なる機械のオニキスにとってそれらはどのように感じられるのだろうか。
意識統制され、何も分からないのかもしれない。
血は、人間の体液。体温は、恒温動物が持つ温かさ。殺した時の感触は、急所を仕留めたのかどうかの手応え。
オニキスにとってそれはただの情報なのだろう。雪の中、真っ直ぐと立ってキアナに上着を貸していたくらいなのだから。
(――じゃあ、あの時何で俺に寒いのかって聞いたんだ?)
銃弾を補充する手を休めず、キアナはほんの少しだけ視線をずらした。
オニキスの衣服はいつの間にか真っ赤に染まっていた。所々が乾いて黒ずみはじめている。
キアナを僅かばかり温めてくれた羽織りも、下の服との境が分からなっている。白い肌に飛んだ赤い水滴は、オニキスの髪を頬に貼り付けていた。
壮絶なその姿は、殺人兵器と呼ぶに相応しい。
黒瑪瑙の瞳は何処を見ているのか、虚ろに戦場を彷徨っている。
それは、ここにはいない誰かを探す迷子のようにも思えた。
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