それからどのぐらい経っただろうか。
キアナは寒さに耐えるべく、自分の腕を抱えるように身を丸くしていた。少し離れて立っているオニキスは先程から微動しない。ただ真っ直ぐに雪原を見渡し、たまに強さを増す風に険しい顔をするだけだった。
しかし、キアナは彼の黒い視線が時々自分の方を向いていることに気付いていた。そんなオニキスに何か言おうにも、言葉が見つからずキアナは青褪めた唇を開閉するだけしかできずにいた。
一層、吹雪は強さを増す。
キアナはゴーグルを見につけて、フードと襟元の布ですっかり顔を覆った。ライフルをもう一度背負い直した直後、オニキスが突然物見台から身を乗り出した。
「敵襲です、伍長」
慌てることなく淡々と真実を告げる平坦な声に、キアナは目を閉じる。再び開いた時には、褐色の瞳は戦場を行く兵士のそれに変化していた。
「敵襲! 敵襲!」
広間に連絡が入ったのは、オニキスが敵影を感知した数秒後のことだった。
今まで寛いでいた者達はその片鱗も見せることなく、きびきびとした動きで軍服の上に防寒服を着込み、武器を片手に一斉に部屋から走り出していく。無骨な石造りの廊下には幾つもの足音が反響していた。砦中が慌しく動き出す。
ルーファスは乱れた髪を慌てて束ね直し、軍帽の中にまとめた。近くに伝令を呼びつけ、戦闘配備をした者達に攻撃の気配があるまで待機をするようにと命令を下す。
広間から出たところで、彼はキアナとオニキスに出会った。
「伍長、小隊連れて森林へ向かえ」
「はい!」
いつものように敬礼をし、自分の小隊に所属している者へと声をかけながらキアナは走り出した。ふと取り残されたオニキスの存在が気になり、ライフルの砲身ごしに彼の方へと振り返った。
キアナの方からではオニキスの背中しか見えなかったが、彼に命令を下しているはずのルーファスの様子は目に入った。話し声は足音に掻き消されて耳に入らなかったが、その間に漂っている空気は否応にも伝わる。
金髪碧眼の誰が見ても整った顔立ちをしているはずの隊長は、酷く哀しそうに目を伏せて、何事かをオニキスに命令していた。オニキスは相変わらずの模範的な動きで敬礼を返し、キアナとは逆側の階段に姿を消した。
行ってしまったオニキスの背を、ルーファスはただ何も言わずに見送っていた。
映画の一幕のようにぼんやりとそれを眺めていたキアナだったが、自分を呼ぶ声に気付き踵を返した。
余計なことを考えれば命取りになる。今は、戦わなくてはいけない。生き残るために。
戦闘配備についたキアナ達は、本体とは別に森の中で息を潜めていた。針葉樹の森に隠れる場所など殆ど無い。木の上から落ちた雪の塊の後ろや太い幹を持つ木の影に兵士達は散らばっていた。
彼等の任務は本体のフォローが主なもので、キアナを含め五人の狙撃手が揃っている。身を伏せて銃を構えたまま、スコープで遠くの丘の上を覗く。視界が悪いため敵陣がしっかりとは見えなかったが、人影のようなものが侵攻してくる様子は分かった。
「……?」
可笑しなものが見えた気がして、キアナはスコープから目を離し、再びそれを覗いた。
真っ白い丘がある。敵らしき影が見える。そして横手には自分達が守るべき砦がある。本隊は確かに砦の前で陣形を組んでいる。
その間に吹雪く風の中、ぽつんと一人分の影が揺れていた。
味方の筈が無い。敵兵だとしたも先行し過ぎだ。
レンズを絞ったキアナは思わず絶句した。
あれは、オニキスだ。
「まさかルーファスさんが?」
数分前の彼等のやり取りを思い出し、キアナは眉を顰めた。
両軍のほぼ中央に立っているオニキスはやはり物見台で見た時と同じく、身動ぎ一つせずに丘の方向を見つめていた。あの位置では、両軍の攻撃に巻き込まれる。逆に攻撃の的にもされかねない。
戦いの前の緊張感からか冷や汗が額に滲む。キアナはスコープを標的に向け直し、一旦顔を引いた。
「LN-01ってあんな中距離に位置されてますけど、大丈夫なんでしょうか」
右隣にいた上等兵のイアンもキアナと同じことに気付いたようだった。雪焼けで黒くなった肌を拭いながら、遠く離れた場所を指差す。キアナは途方に暮れたように「分からない」と首を横に振る。オニキスが平気なのか、ルーファスが何を思っているのか、どちらにしても彼には検討も付かなかった。
不思議そうな顔をしているイアンの脇を通り、本隊からの伝令がそそくさとやって来た。キアナは敵軍との距離と戦闘開始の合図を確認した。こちらからでも距離算出をしていたのだが、正面から捉えている本隊からの情報の方が信憑性が高い。
「隊長からの伝言です。決して、LN-01の間合いには入らないようと」
戦闘の開始はオニキスの攻撃から始めると言われ、キアナは微かに目を細めた。やはりあの配置はルーファスが決めたのだと分かる。オニキスがどのような能力を持っているのか、自分を含めてこの部隊にいる者は知らないはずだ。だがルーファスのあの態度からすると、彼はオニキスが戦場でどんな事をしてきたのか把握しているように思える。
オニキスはやはり兵器なのだ。人としては可笑しな立ち位置でも、オニキス自身は何とも思っていない。あれが当たり前なのだ。
しかしそれでもキアナには伝令の持ってきた言付けが不可解なものに聞こえた。
間合いに入ると何が起こるのか。様々な結果が脳裏を過ぎるが、どれも違うものに思えた。
敵影はさらに近づき、吹雪もやがては弱くなった。丘の上にいる彼等の方が見晴らしが良いように思えるが、この辺りには砦よりも高いものはなく条件はほぼ互角だ。
向こうが同じ部隊なのか、自分達と同じように逗留しているのかは分からない。丘の向こうはなだらかに盆地が広がっている雪原だから、確かめようにも向こう側に行けばすぐに見つかってしまう。砦の死守が第一目的であるのだから無理に向かう必要もなかった。
ルーファスは最初に調べるべきだと上層部に反論していたが、こちらが進入したことで北に刺激を与えかねないという理由から現在の状況は続いていた。
上からも守られることなく、不利な状況だと部隊の兵士達は知っている。この状態で一年以上耐え続けているルーファスの技量には皆素直に敬意を評していた。
現状維持、という身も蓋も無い返答を返される中で行われたリアクションと言えば、今戦場に立つ一つの兵器が送られてきたことだけだった。
キアナはその時の憤りを忘れられない。
精神的には安定していた時期だったため、自分でその熱を鎮静することはできた。それでも、そんな物を送るくらいなら仲間の命を返せと叫びたくなった。側に隊長がいなければきっと口に出してしまっていただろう。
視界が開いていく中で、キアナは思い出した。
オニキスが送られてくると知った時のルーファスの顔は、先程の哀しげなそれと同じ色を纏っていなかったかと。
吹雪が完全に止まり、風が止んだ。同時に地響きが足元に伝わる。
湿った空気を振るわせる大きな音が、静寂を裂いた。
「突撃!」
敵兵の叫びが、丘を滑る。白い無垢な大地を人々の無骨な足が踏み荒らしていった。
オニキスはただそれを見ている。構えることも無く、静の形のまま雪上に立つ。黒眼が、すっと細められた。伝承にある黒瑪瑙の如く魔を祓うために。
キアナはライフルの柄を握っていた手をさらにきつく結んだ。手袋越しに人殺しの道具の馴染んだ感触が伝わる。
スコープ越しに見ていたオニキスの身体が不意に動く。素早くそれを察知した彼は、周りで射撃体勢を取っている仲間に合図を送った。自身もまた、今まで考え込んでいた事柄を全て一度奥底に封印してしまう。
雑念は死に繋がる。自分の死はまた小隊の死へと繋がり、兵力が確実に減っている今の部隊の中で一人でも多くの兵が死ぬことは大きな打撃だ。
生きなくてはならない。死んだ者のために。自分自身のために。生きている者のために。
――殺してしまった人のためにも。
「……構えっ!」
心の中で十字を切り、キアナは号令をかけた。
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