黒眼のオニキス…一幕 地獄への扉・01
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 かたん、と桟にはめ込まれたガラスが鳴った。
 砦の外は暗い。月明かりが僅かに雲間から射していたが、大地を照らすほど強いものではなかった。
 冷たく荒ぶ風は止む様子がない。周りに群生している針葉樹の森をざわめかせ、海辺にも似たその声は屋内にも届く。冷気が入らぬように二重にされた窓でさえ、断続的に軋んでいる。
「今夜は吹雪くな」
 誰かがそれを見て言った。
 広間に集まる人間達は、揃いも揃って暖炉を囲むように座っていた。暖気を含んだ絨毯の上であったり、歪な木製の椅子であったり、場所は様々である。手持ちの武器の手入れをする者や呑気にチョスを興じていたり者など、やはり一貫性はなかったが、見えない連帯感は感じられた。
 彼らが纏うのは軍服。皆、同じ部隊の兵士だった。



「交代だ、伍長」
 キアナは、重たい頭をおずおずと持ち上げた。
 常駐の部隊内で伍長に当たる者は自分しかいない。それでも躊躇しながら椅子を立ち上がったのは、呼びかけた男の姿が視界の端に見えたからである。
 上から下まできっちりと着込まれた防寒服。その所々には白い塊がこびり付いている。中には勿論軍服も着ているのだが、キアナを呼んだ青年の肌はすっかり色を無くしている。
 時計を見れば、既に夜半。
 交代時間を指定したのは自分だったし、そのために昼は仮眠を取らせてもらった。文句はない。
 それでもやはり溜息の一つくらいは出してしまうのは仕方がなかった。


 領内最北端にあるこの砦に来て幾日経っただろう。
 季節は巡り、冬も半ば過ぎた。
 天候の恐ろしさや夜の冷え込みの厳しさは、内地にいる味方などよりも彼等の隊は熟知していた。こんな極寒の地で戦闘を行うなど、愚の骨頂だとさえ思っている。
 キアナが初めてそれに気づいた時には、部隊から人影は殆ど消えていた。
 共に戦場を駆け抜けた同士も、軍学校で見かけた顔ぶれも、いつの間にか棺桶の中に納まっていた。
 一度目の冬を越える前に、キアナは自暴自棄になりかけた。
 最前線で戦うことの恐怖。友が突然倒れていく残されていく虚無感。そういったものが津波のように歳若いキアナを襲った。
 一人だけの伍長となってしまった事実もまた、彼に拍車をかけていた。

 あれから再び季節は巡った。
 持ち直した彼の傍には、隊員数の半分を切った部隊と無言で部下を凍結の大地に葬る部隊長だけが残されている。
 それを考えただけでも憂鬱になる。
 この冬で、何人がまた消えていくのだろうと。

 外套を着る手の止まってしまったキアナを心配したのだろうか、先程彼を呼んでいた青年が覗き込んできた。
「……キアナ?」
 北欧の血を継いでいるであろう繊細な顔立ちを見止め、慌ててキアナは最後のボタンを閉めた。
「また考えていただろう。無理をするな」
 青年はあやすように栗毛色の頭を軽く叩いた。
 傷と肉刺だらけの手を眺めながら、少しだけキアナは笑った。
「ルーファスさん。子供扱いは止めて下さいって言いましたよね」
 憮然とした態度で言うものの、キアナは彼に強く出られない自分を自覚していた。


 去年、自身を見失っていたキアナを助けてくれたのはこの青年だった。
 ルーファスは比較的キアナと歳が近く――とはいっても、ルーファスの方が五つも年上である――入隊した時から何かと世話を焼いてくれていた。
 死に直結する北の大地の脅威を教えてくれたのもルーファスであったし、戦争の怖さを間近で感じたキアナを守り、励ましてくれたのも彼の尽力のおかげだった。
 辛くはないのか、と怯えながら問いかけるキアナに、ルーファスは小さく微笑んでさえ見せた。
『怖い。けれど、生きていたい。生きていれば何かが出来るはずだから』
 色素の薄い青年が見せた生命の輝きは、すぐに忘れられるような軽いものではなかった。
 思わず感嘆をもらした自分を、今のようにルーファスは撫でた。
『これ以上、私はこの地にお前たちを葬りたくはないよ』
 呟いた彼は、確かな決意の眼差しをしていた。


 色々と思い出しながら準備を終えたキアナは、部屋を出る前にテーブルへと近づいた。
 皆が集まる広間には暖炉が据えてあるが、物資温存のために火力は低めに調節されていた。そのため、アルコールで体温を上げる者も少なくはない。
 キアナも例にならって早々に酒を手にしていた。
 本来、作戦最中に飲酒をすることは軍紀を乱すことに繋がるのだが、現状を良く理解しているルーファスは特に何も言わなかった。真面目な隊長が珍しい、と皆で笑った記憶は新しい。
「ルーファスさん……じゃなくて隊長。その瓶開けてありますから、良ければどうぞ」
 再び過去へと意識を飛ばしそうになった自分に苦笑し、キアナはすでに開封していたワインボトルをルーファスに手渡した。
 そして、極寒の世界へと行ってしまった。

 残された空っぽのグラスとコルクの抜かれた瓶を交互に眺めたルーファスは、無意識に溜息が零した。
「キアナ君は真っ直ぐだ。あの潔い気質に触れれば、彼も元の自分を思い出すだろうか……」
 今も物見台にいるであろう人物を思い浮かべ、ルーファスは軽く俯いた。
 キアナの座っていた椅子に重く腰掛け、ボトルをテーブルの上に置いた。ことんと可愛らしい音が上がったが、彼は硝子瓶に注視したまま動かなかった。
 硝子の色は一般的な薄い緑。十年は昔の年号が記されたラベルが取り囲むように貼られていた。
 その色をじっと見つめながら、彼は無言でグラスに葡萄酒を注ぐ。
 硝子の向こう側に存在していた黒い液体は、ボトルから這い出た瞬間にただの紅色に成り下がった。
 ルーファスは自嘲した。
 似た光景を自分はただ見ているだけであった。それが、忌々しい。
「私は本当に愚かだ。あんな愚行に加担して、間違えに気付いた今でさえ……彼もあの子も救えずにいる」
 仄かな甘い芳香が鼻を刺した。ワインの名産地である故郷を彷彿させる、慣れ親しんだはずの香り。
 それが今では、奇妙なほど悲しく感じられた。

 部屋の隅でぼんやりしているルーファスを見て、彼が疲れていると思い込んだ隊員達は目を離した。そして他愛のない談笑を続ける。
 その和やかな空気の中、暖炉の中から薪の弾ける音が響き、凍えていた身体はゆっくりと弛緩していくことを感じる。
 戦時中の最前線だとは思えないほど、穏やかな時間がここにある。
 死んでいった仲間もこの中にいたのだと思うと、やるせない気持ちになった。なまじこのような空気を味わえるものだから、喪失感は強くなるばかりだ。
(貴方もこんな思いだったのですね……)
 思い出す。悲痛な泣き声を上げていた小さな子供を。怒りを露わにして牙を向くその守人を。
 美しい黒瑪瑙を曇らせ、血飛沫に塗れるよう仕向けた者の中に、自分は確かに含まれているだろう。
 ルーファスは目元を押さえた。
 左遷同様に砦に来てから、随分と涙腺が緩くなったと彼は思う。
 しかし、一度放たれた熱いものを止める術はどこにもなく、ひたすら胸に溜まっていく。
 舌先で味わっていたワインを、ルーファスは激情の赴くままに一気に飲み干した。そしてグラスを置く勢いに乗ったまま、彼は突っ伏した。
 視界が金色に閉ざされた。常々邪魔に思っていた伸ばしっぱなしの髪に、ルーファスは初めて感謝した。
 涙で滲んだ己の横顔など、士気が下がるだけの存在だと分かっている。
 分かっているからこそ――酒の力に頼ってでも、今だけは泣きたかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 項垂れるルーファスの呟きは、他の誰にも届くことはない。儚い印象の拭えない口元から放たれた免罪の言葉は、嗚咽が混じって徐々に消えていった。
 懺悔の相手は、ここにはいない。


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