黒眼のオニキス…序幕:胎動
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 まず目に入ったのは、無数の気泡。
 それから、薄紅の溶液と自らを囲んでいる緑色の硝子、向こう側の床や壁の藍色。全ては泡に映り込み、色彩は混ざり合う。
 光のスペクタルのようだ、と彼は思った。

 人間の眼球の代わりに嵌め込まれている真っ黒なレンズが、薄く開いた瞼の奥で微かに光る。
 それは産声を上げなかった赤子のように力無いものだったが、初めて見る現実の世界に興味を示すことは人間と同じだ。
 胎児が羊水の中での記憶を持っているように、彼も生まれる前の記録を大切に刻んでいた。
 現実で動くために学んだこと。人と共存して生きるために得た知恵。そして、思い出。

 ――オモイデ?

 濁っていた思考回路が急に鮮明になった。
 彼の中からふつふつと湧き上がるのは、一つの願望。

 ――ドコ?

 まどろんでいた黒瑪瑙の瞳が、一気に覚醒した。辺りを意味無く彷徨っていた焦点が、急激に引き絞られる。
 未調整のままである意識を無理やり起こされたため、彼の世界は薄暗く、狭い。それでも彼は自分を起動させたはずの少年を探すため、懸命に目を凝らした。
 その時、はしゃいだような野太い男の声が、起動したばかりの彼の聴覚を刺激した。
「やった! ついにやったぞ!」
 彼は忌々しげに音源を睨みつける。
 心地の良い気泡の弾ける音を掻き消さんばかりの音量だったのだ。
 こんな粗野な男は知らない。
 徐々に視野が広がっていく。比較的近い位置にいた浅黒い男の向こう側や、周りの風景も知覚できるようになってきた。
 なおも彼は少年の姿を求めるように、冷たい金属の部屋をじっと見つめ続けた。
「グレイ少将! これはどういうことですか!」
 男への糾弾の声に、彼は弾かれるように顔を上げた。身体のギアが軋んだが、気にもならない。
 硝子の向こう側――研究室のようだ――では色素の薄いアルビノの少年が、制服を着た二人の軍人に押さえつけられていた。少年は必死な形相で、視線の先にいる浅黒い男を止めようと声を張り上げていた。

 ――キミ、ガ。

 彼が目覚める前に幾度も出会った、優しく穏やかな子供。
 少年はロストと名乗った。
 ロストは毎日彼の元にやってきて、「今日は元気?」などと尋ねてきた。彼が是と答えると、はにかんだような笑みを浮かべてくれた。
 その度に彼は理解した。
 ロストが好きなのだと。
 ロストは危害を加えない。ロストは自分を守ってくれる。自分を調整してくれる。
 生まれたばかりの彼のメモリには、少年の存在が大きく描かれていた。

 そんな少年と、今現実で巡り合えたというのに。
 彼は無表情のまま冷たい視線を男へ送る。グレイと呼ばれた大男は何が楽しいのか、じっくり観賞するように自分のことを見てくる。
 一刻も早く、ロストを助けたかった。
 けれど彼は硝子管の中に浮いていることしかできず、研究室の機械と繋がっているコードを引き千切ることも叶わなかった。
 仮想世界から現実世界に引き下ろされはしたものの、本当の目覚めにはほど遠い。
 見ることしかできないという現状に、歯痒い思いが彼の胸に突き刺さる。
「何を怖がるのかね、ロスト君? 上出来な人形だ。これならば使えるな」
 グレイは口を大きく開けて笑う。
 対照的に、ロストの顔は見る間に青褪めていった。
 抵抗する細い腕を難なくねじ伏せ、少年の上に圧し掛かっている男達も顔を上げた。硝子管の中に漂う彼の無機質な身体を、大人達は満足そうに見つめている。
 それらを彼はただ一瞥するだけ。
 彼にとっては少年だけが存在の全て。少年を害する者は敵だ。
 ロストの真っ青な顔は、必死に叫んでいるせいか上気していた。琥珀色の瞳には涙が浮かび、太陽のような微笑みは見る影もない。
 それを見るなり、彼の中で何かが轟いた。


 ハナセ。はなせ。――ロストを、放せ!


 殺意が目覚め、破壊衝動が全身を駆け抜けて行った。
 電子神経が焼き切れそうなほどの、爆発的な意思が彼の中に生まれた。
 瞬間、研究室の機械達が悲鳴を上げ始める。赤いランプが点滅を繰り返し、無機質な警告音が鳴り響く。
 グレイは驚いたように辺りを見回し、そして彼の方に向き直った。
「ははは! なるほど、これが最終兵器! なかなかおもしろいではないか」
「止めて! 止めて!」
 男が硝子管へ一歩ずつ近づく。その度に、変声期を迎えていないロストの少女めいた甲高い声が制止を叫ぶ。兵士の押さえつける力が強くなり、唯一床と離れていた小さな頭も、無理やり冷たい金属の感触を味合わせられた。
「嫌だ! オニキ……あうっ!」
「煩いぞ、小僧。稀代の天才などと言うが、これじゃあ単なる餓鬼だな」
 片方の男がロストの頭を殴りつけた。幼い顔が苦痛に歪み、桜色の唇が耐えるように引き攣った。もう一方の金髪の男は、痛ましいその光景から思わず顔を背けた。
「博士、抵抗は止めて下さい。お願いです」
 そうやって震えている声音で金髪の男は言うのだが、ロストは叫ぶことを止めなかった。何度も、何度も、彼の名を呼ぶ。
 最初に殴った男は舌打ちをし、ロストをさらに殴った。相方から非難を受けるが、暴行は徐々に激しくなっていった。白い肌はすぐに赤くなり、紫色に変色した。それでも、ロストは言葉を途切れさせなかった。
「止めろ! 死んでしまうだろう!」
 もはや抵抗すらできない弱った身体を横から奪い取り、金髪の男はロストを抱きかかえて研究所を出て行こうとした。
「嫌だ……」
 動かない身体を引き摺りながらも、ロストは必死に彼の方へと手を伸ばした。
 弱々しい少年の姿を眼に焼き付けられ、感情の波がさらに彼を襲う。
 彼と機械を繋ぐコードが激しく揺れた。機械達はオーバーロードを引き起こす直前だった。
「落ち着きたまえ。君は真の兵器となれるのだからね」
 硝子管の前に連なる操作盤に、グレイの無骨な手が触れた。

 彼は、瞠目したまま硬直する。
 操作盤に触れたことがあるのはロストのみ。エラーが起こっていないかチェックするから動かないで、と言うのが少年の口癖。彼はその約束を破ったことは無い。
 だから今も反射的に動きを止めてしまった。彼とロストの絆がそうさせた。
 ――それが絆を切り離すことになろうとは、彼は微塵も気付けなかった。


 そして無常な音を鳴らし、パネルが叩かれた。


「あ……ああ……」
 ロストはもはや涙を耐えることもできず、ただ嗚咽を漏らす。
 あれほど荒れ狂っていた機械達は嘘のように静まり返り、研究室に元の静寂が戻ってきた。
 少年の狭い視界には、高笑いをするグレイと操作盤の台座、そして強化硝子でできた管だけが映る。
 グレイは既に開閉ボタンを押していた。今、ゆっくりとコードが外され、溶液が除去されている。
 中から現れたのは、すらりとした肢体を持つ一つの人形。
 怒り狂っていた黒い瞳は空虚に世界を映し出し、空っぽになってしまった回路の情報網には誰の姿も描き出されることがなかった。
「嫌だよぉ……オニキスっ! 放して! 放してよ!」
 金髪の男は泣きじゃくるロストを静かに抱き締めた。悲痛な表情のまま、目を伏せた。軍服を叩く子供の拳には力が込められていない。糸が途切れてしまったかのように、ロストはただ涙を流す。
 痛々しいそれが見ていられなかった。ロストから視線を外せば、グレイは清々したような表情があった。
 嫌悪を感じた男は、少年をあやすように抱え直してそのまま部屋を出ようとした。
 扉を開く際、硝子管から現れた者に振り向く。
 あれほど鮮烈な炎を灯していた黒瑪瑙の双眸からは、もう何も読み取ることはできない。腕に抱く少年の姿を見ても、それは反応すら示さなかった。
 彼は、空っぽになってしまったのだ。
「うっうう……戦争があるからだ。戦争なんて、大嫌い……」
「ロスト博士……」
 兵士である金髪の男は、沈んだ面持ちで少年の華奢な背中を擦ってやることしかできなかった。


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