絆の森
<第八話 たゆたう想い・4>

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 義兄の頼りない姿を見下ろしながら、ランスは先程まで感じていたはずの同一性の喪失感が軽くなっていることに気が付いた。
 自分は人の形をとっているだけの物であることに、戦慄を覚えたのは事実だ。
 人間ではないかもしれないと薄々感じてはいたが、まさか生物ですらなかったのだという真実に愕然とした。
 けれど今はそれが何だというのだろう。
 ランスを殺そうとしていたシュランは、これほどまでに自分に家族の情を持っていてくれた。自分が人ではないことを知っておきながらも、半分はシュランの自己満足とはいえ彼と過ごした時間には偽りが一片もなかったのだ。
 それがランスにとって、不安を払拭させるものだった。

 揺らぐ影が項垂れているシュランに手を伸ばしたが、肩を捕まえる前にすり抜けてしまう。慰めることもできない自分が歯痒く、リビアは唇を強く噛み締めた。
「あの、リビア様、シュランさん」
 今まで黙って兄弟の会話を聞いていたカイナは、その様子を見ながら不意に言葉を発した。
「何故シュランさんは先程ランスさんを撃とうとなさったのですか? それに、そのお姿は……」
 クゥナも同意を示すように、隣で頷いている。
 二人はきっとランス以上に混乱しているだろうが、取り乱しても仕方がない事をしっているかのように冷静に振舞おうとしている。
 それは多分、自分のためだ。ランスはより一層視界が滲むことを感じた。
「すまない。君達は、森でのランスの家族だ。君達にもきっと、知る権利、あると思う」
 彼女達の抱いている深い情愛にリビアは微笑んだ。
 視線を巡らせ、彼はシュランをしばし見つめた後、ランスへと振り返った。
 全ての色彩を混ぜた黒と、涙で濡れている翡翠が交わる。
「天秤が、完全な状態に戻らなければ、意思の化身である俺もランスも、共に消える運命だ。それが、シュランに告げた、ランスがランスでいられる期限」
 今にも掻き消えてしまいそうなリビア。それは彼だけではなく、今この瞬間にも自分に近づきつつあることだと、暗に告げられた。
「天秤が左右の腕を揃えたら助かるの?」
 クゥナは目尻に涙を浮かべながら、震える声で尋ねた。
 その願いも虚しく、リビアは黙って首を振る。
「左右に分かれた天秤の意思は、再び一つになる。それは、リビアでもランスでもない、新たな自意識。俺達は、そのどちらかしか選べない」
 二人の少女が悲愴な声を上げたが、ランスは黙ってそれを聞いていた。
 今は実体を保てている自分も、リビアのように形を失っていくのだと思うと正直怖かった。
 それでも、ランスは悪態一つ浮かぶことはなかった。

 リビアはふと、残念そうに瞼を伏せた。
「シュランは、使命と情の間を彷徨い、耐え切れなくなった」
 森の中で聞いたシュランの慟哭を思い出したランスは、はっとする。
 これほどまでに家族の愛情を注いでくれていたシュランは、泣き出しそうに歪んだ表情で銃を突きつけた。耐え切れない、と叫びながら。
 シュランは右秤の化身がランスであることを知っていた。
 自分が天秤の片割れであることを知らないランスを殺せば――ランスという意思が消えれば、右秤は元の形に戻るだろう。
 そうすれば守人の末裔としての使命を果たせるし、リビアとランスがただ消滅していく姿を見なくても済む。ランスのことを家族だとしか見れなくなっていたシュランにとって、それはとても酷な事だった。
 けれどただ時間だけが過ぎていくだけだとしても、ランスという意識はいずれ消え去る。傷付いたであろうランスの前に現れることを躊躇している間にも、期限は一刻一刻と迫っていた。
 相反した気持ちがぶつかり合い、その重圧にシュランは潰れてしまった。
 必死で模索した道の中、彼が選んでしまったのはランスを殺して自分も死ぬという、短慮であり最も苦しい道だった。絶望ばかりが塗りたくられ、彼は未来を見れなかった。
「だから兄さんは俺を消して、天秤を戻して……死のうって思っていた?」
 ランスは義兄の方を向いた。
 自分よりずっと大人だと思っていた彼が、酷く小さく見えた。

 目の前で繰り広げられる皮肉な運命に、クゥナは小さな嗚咽を漏らしていた。
 何もできない自分に苛立ち、もうすぐランスとの別れが近づいているのだという事実が容赦なく彼女を攻め立てる。
 カイナもまた同じような気持ちだったが、彼女は気丈にも涙を堪え、唇をただ噛み締めている。
 自分達が思っていたよりも、ランスに架せられた宿命は大きく重たいものだった。
 ずっと一緒にいたのに。彼のために何かしてあげたいのに。
 二人はただ、見守ることしかできなかった。
「決めるのは、お前だ」
 リビアの声が真っ直ぐとランスに向けられる。
 このまま消滅を迎えるか、自我を失い新たな者として生まれ変わるか。
 どちらにしろ人の姿をした右秤の化身は、ユニステで育ったランスという少年に戻ることは最早ないのだ。
「俺が拒否して、リビアも消滅を迎えてもいいのかい」
「ああ。坊主と会合して、俺は、それでも構わないと思ったからな」
 そう言って、リビアは滲むような笑顔を浮かべるだけだった。


 ランスは天秤を見つめる。
 思い浮かぶのは、大樹海での日々と平原で暮らしていた頃ばかり。
 これでは走馬灯だ、とランスは一人思う。
 厳しさを優しさを教えてくれた森の民。温かさをくれた少女達。不器用だけど大切だった家族。助言と謎かけで導いてくれた自分の片割れ。
 自分は望まれない子供だったのだと思っていたランスの周りには、こんなに想ってくれた人々がいた。別れを惜しんでくれる人達がいた。
「……俺は」
 本音を言えば、勿論ずっとランスとして生きていたかった。
 でもこれは再生の儀式。
 たとえ意識が消えようとも、命は繋がるのだから。
「俺は、行くよ」

 その答えと同時に、クゥナとカイナが叫んだ。
「ランスっ!」
「ランスさんっ!」
 飛びついてきた小さな少女達を、ランスは優しく抱きとめた。
 不安げな表情にさせているのが自分のせいだと思うと、罪悪感が襲ってくる。それでも己の選び取った道を、二人は否定しないでいてくれることが哀しいくらい伝わった。
 彼女らの心情を十分察しているランスは、彼女らを励ますかのようにわざと明るい表情を作った。
 ランスにとってはクゥナもカイナも、自分を育んでくれた大樹海も、掛け替えの無い存在だ。生きる意味を探して森へやって来たランスに、再び愛しく思える日常という名の宝物をくれた。
 感謝の言葉なんて陳腐なものだと跳ね除けてしまいたくなるくらい、大切な思い出と温かな想いを貰った。
「ありがとうなんて言葉じゃ言い尽くせないほど、二人には感謝しているんだ。できれば、三人で樹海の果てを見たかった。森の向こうを知りたかった」
 過去形で綴られることに、二人の目頭に再び熱いものが込み上げた。
 宥めるように彼女達の頭を撫でながら、ランスは続けた。
「俺はランスではなくなるかもしれないけれど、ランスだった時の記憶が何処かに残るかもしれない。消滅はただの終焉だけど、一つに戻るってことは俺もリビアも本当の意味で消えるわけじゃない」
 曇りのない笑顔をランスは浮かべた。
「覚えている? 俺が君達に出会った時のこと。一緒に旅立った時のこと」
 クゥナもつられて笑う。カイナも苦笑じみた顔になった。二人は泣き腫らした目を擦りながら、顔を見合わせて言った。
「信じられないのなら、一緒に来ればいい」
 三人の生活の始まりを告げた一つの言葉。
 重なった三人の言葉に反応し、シュランが驚いたように顔を上げた。
 彼の様子を視界の隅で見とめたクゥナは、シュランと初めて出会った時の既視感の正体に気付いた。
 血は繋がっていなくても、本当に彼らは似ている兄弟だった。無意識に口に出る言葉が、同じことを告げるほど。
 クゥナとカイナのように、どこかで繋がっているのだ。
「俺は忘れない。俺という意思は生き続けるから。その時はまた皆に巡り合いたい。……我侭言ってごめん」
 目頭に涙を溜めながらも少女は笑った。 
「大丈夫。あたし達、いつも言ってるじゃん!」
「ランスさんが決めたことなら、それでいいのですわ」
 同時に抱きしめられた腕を、ランスはそっと抱き返した。
「いつだって繋がっているから。覚えていて」
 クゥナとカイナ、それから呆然と佇むシュランを見回し、ランスは笑いかけた。
 少年は最後までも微笑んでいた。




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