絆の森
<第八話 たゆたう想い・3>

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 銃声はなかった。
 伸ばしたランスの腕が宙をかき、紅潮したシュランが地べたに座り込むのは同時だった。
 間に割り込んだのは二人と一つの影。
 クゥナはランスの前に。カイナは銃口の前に。彼女達の間には、色が揺らぐ何かの影。影は人のような形になり、やがては黒い瞳がランスを一瞥した。
「リビア……」
 掌が影を通り抜ける。実体がないのだ。ランスは虚しく腕を引っ込めた。
「シュラン、お願いだ。ランスに、決めさせろ」
 項垂れるシュランの肩に触れても、リビアの手の重みは感じられなかった。
 事態に追いつけない素振りのランスに振り向き、輪郭のない影は場違いの明るさで告げた。
「久しぶりだな、坊主。すまないが、地下遺跡まで来てくれ。時間、ないから」
 いつもどおり途切れ途切れの不自然な口調。声は安定せず、高域と低域を右往左往している。姿はいまだに出会った頃と変わりがなかった。


「さて、何から知りたいかな?」
 種明かしをする手品師のようにリビアが言った。
 遺跡の地下道を通るのも今回で三度目だ。ランスは妖精の少女達を連れて、しっかりとした歩調で前へと進んでいた。
 背後からは距離を置いてシュランがついてきている。発砲する様子はない。沈んだ感情が彼を取り巻いていた。
 思考を巡回させてからランスは聞いた。
「順を追ってくれよ。発端から」
 僅かに頷き、リビアは話し出した。
「妖精が、神様と呼ぶ土地の守護者が、坊主に話しただろう。森の天秤の結末を。業の深い人間は、森の民との戦いの末、天秤の腕を盗んでいった。それを追い、人間から別れた森の民が、平原へと旅立っていった。長い、長い、過酷な旅路の始まりだった」
 そこでいったん言葉は途切れた。
 広場に出たのだ。床を見ると、崩れ落ちた暗い穴が口を開けていた。
 垂直に下へと続いている穴の側面には足場は無い。代わりにあの時使った縄が、そのままにされている。
 ランスはちらりとシュランを見た。彼は無言だった。

「ランスが天秤を見たのは、この奥なの?」
 穴の中に入った一行は、例の部屋へと続く道を歩いていた。
 肩に座っているクゥナが興味津々な様子で、あちらこちらを見回している。
「物語の天秤を見ることができるのね。綺麗なのかな?」
「俺は、綺麗だと思うけど。完全じゃないから、不恰好かもな」
 リビアが嬉しそうに笑って受け答えした。
 複雑な視線が後ろから注がれ、何故かランスが気まずかった。

「人間を追って、天秤の守人達がいなくなり、残された森の民は、天秤の支柱を地下へ封印した。そして、長い年月が過ぎるうち、忘れ去られてしまった。伝わるのは物語だけ。天秤の居場所も、守人達の存在も、伝承されなかった」
 悲しげなリビアの声が木霊する。
 黙って聞くランスは、後方から語られ出した話の続きに思わず振り返った。
「だが守人はその間も不毛の大地をさ迷い歩いていた。人々が忘れようが、彼らが死に物狂いで旅していたことは事実だ」
 シュランはいつものような淡々とした口調で語る。
 しかし、その端々が哀しみで彩られているような気がするのは気のせいだろうか。
「そのうち、慣れない土地での長旅が彼らの命を奪い始めた」
 暗い通路では、兄の表情は窺えない。
 シュランの声音は、平原で暮らしていた頃よりも一段と疲弊しているように聞こえた。
「まずは病。平原にしか生息しない病原菌のせいだった。森で生活していた彼らに抗体があるわけがない。それから日射病や熱中症。探すために危険な場所にも立ち入り、人間に殺されることもあった」
 黙祷するように目を伏せたのが分かった。シュランの細い声が、ますます聞きづらくなっていく。
「守人は人間のように振る舞い、国から国へと移住していった。徐々に一族は減り、やがては三人だけとなってしまった。彼らは方々を探しながら細々と暮らしていたが、ある日ようやく天秤の腕を見つけ出した」
 天球の天井が目に入る。天秤の安置場所に辿り着いたのだ。
 妖精は肩から飛び立ち、雄大な星座の絵を眺めている。
 リビアは中央で立ち止まっていた。ランスは促されるまま、奥へと歩み寄る。シュランも静かに側まで来た。

 息も聞こえるほど近くにいる義兄は、思い出の中よりも漂う倦怠感が酷くなっていたが、全然変わっていない。肩口まで無造作に伸びている髪を一つに結っているところや、暗い色の服を好むところも。
 だからランスは思った。鋭い眼光も、恐ろしく思える炎の色を宿した瞳も、優しさを押し殺しただけで、きっと今も変わりない。あの日の冷たい視線だって、もしかしたら断腸の思いだったのかもしれない。
 泣き出しそうなシュランの表情が、ずっと頭に貼り付いて離れなかった。

 そんな考えをする傍らで、シュランの言葉は続けられていた。
「右も左も、流れていくうちにユニステの国にあることが分かった。一つは王宮の宝物庫。もう一つは盗賊の手の内にあった」
 窪みの中に伸ばそうとされた手が、一瞬止まった。
「宝物庫……?」
 シュランの罪状は、王に対する殺人未遂と宝物庫の国宝の強盗。
「……盗賊達に挑んだ女は半死半生で宝を取り戻した。彼女はそれを森へと運ぶ途中、行方知れずとなった。宝物庫に入り込んだ男は、呪いの言葉を吐きながら処刑されていった」
 震えるシュランの声と、自分の中で浮かんでしまった可能性に、ランスは目の前が真っ白になりそうだった。

 森と平原の境目で拾われた子供。宝物庫から何かを盗んだ、子供の義兄。牢獄で刑を待つ子供が出会った、幽霊のような不思議な人。守人が来たと騒いだ大樹海の守護者。
 腕の無い、秤。

 全部がまるで絡み合わない糸のように存在するというのに、その終着点は皆同じ場所に辿り着く。目の前で浮上した台座の上に置かれている、創造主の秤へと。
 ランスは一歩も動けず、天秤に近づくシュランの背中を見ていた。
 得体の知れない何かが背中を通過していくが、ランスには止める手段などなかった。
「その無念の叫びに呼応したのか、残された最後の守人の前に――彼が、現れた」
 シュランはそう言って、自分の肩越しにリビアを見た。
 つられて向いたランスは、思いのほか近くにいたその存在に息を止める。陽炎のように揺らめくリビアの向こう側に、部屋の壁が透けて見えていた。
 リビアは小さく笑み、手を伸ばした。秤の中心に触れたはずの指先は、支柱を透き通す。
「創造主の天秤には、善と悪を量る腕がある。右は善。左は悪。そのどちらもが、秤の意思を持ち、同時に秤の化身でもある」
 苦笑を浮かべたまま、リビアは黒く揺らぐ瞳でランスと向かい合う。
「俺は、天秤の左の化身。悪を量り、裁く役目を担う者」
 かしゃん、と音が鳴る。
 ランスはそちらを見ずとも何が音をたてたのか分かっていた。
 支柱だけだった天秤。リビアが触れた所には、その左の秤腕が掛かっていた。

「俺は森を離れても、左に片寄った種族達の近くにいたせいか、自意識だけはあった。だから、所在の知れない右腕の場所へ、守人を導いた」
 宣教師のように淀みなくつらつらと語っていたリビアは、そこで急に言葉を噤んだ。
 シュランが力なく俯いたことを察知したようだ。
 行き場の無い感情を抑えるように握られた拳を、ランスは痛ましく思った。
 自分はこの行動を知っている。シュランとの気まずい関係が始まった、あの日の自分と同じだ。
 あんなにまで弱い部分を他人に見せることを怖がった彼が。我侭を耐える子供のように、頑なな少年のように唇を噛み締めている。
「母さんは最期まで、守るべきものをしかと抱きしめていた。私には、いまだ城の片隅に捕らわれている左秤の所在と、目の前にある天秤の右秤だけが残された……」
 憎しみと哀しみを同居させた言葉に、リビアは目を伏せていた。
 天秤が偏りを見せなかったせいで、人の姿をしながら人にはなれなかった守人。森の中で生きるにも中途半端で、使命だけが命綱だった一族。その末裔の家族を奪ってしまったのも、また天秤の存在だったから。
 化身である彼にはその覆せない事実が、苦しかった。
「家族さえも奪うこの宝に、何の意味があるのだと。私達の一族の生きてきた意味は何なのかと!」
 嗚咽めいた声に、彼が秘め続けてきた真実に、ランスは目頭が熱くなるのを感じた。
 守人は自分ではなく、彼の方だった。
 あの時自分の失言で彼があれほど怒ったのは、家族というものがどれほど掛け替えの無いものなのか身に沁みていたからだろう。
 本当は優しいはずの義兄を、どうして最後まで信じられなかったのだろうとランスは今更ながら悔恨の念を感じずにはいられなかった。

 色を深めた赤い目が、ランスの方に振り返った。
「そんな失意の私にリビア様は言った。十数年だけならば家族を授けよう、と。自意識を持っていなかった右秤は小さな赤ん坊に姿を変えた。そして、私の顔を見て」
 泣けば気が楽なのだろうが、シュランの双眸からは雫一つ零れなかった。だが彼は無理に笑顔を作り、ランスに笑いかける。
 言葉を綴る唇と音を奏でる声音は、確かに少年へと伝わった。
「ランスは笑ってくれたよ」
 憤りを隠さぬ告白の中の一言。それだけでランスは確信する。
 シュランは今でも自分のことを、弟であり家族なのだと思ってくれているのだ。
 ランスを拾ったシュランはユニステで暮らした。まるで、失ってしまった両親の穴を埋めるような行為だったのかもしれないが、それでもシュランにとってその子供は肉親同然だった。
 十数年という限られた時間を忘れるほど、二人の日常は平凡に過ぎていった。
 しかしあの日、転機が訪れた。
 王が礼拝堂に現れると聞いた瞬間、シュランは血が煮えたぎるような気がした。父の仇だ。目の前が真っ赤になったことをシュランはよく覚えている。
 父が果たせなかった左腕の奪還という使命と仇討ちという私怨が入り混じったまま、彼は王国に牙を向いた。
 ランスが残されるという事実に気付いたのは、左秤を手にした後だった。騒ぎを聞きつけてやって来た少年の姿を見とめて、急に血の気が退いていった。
 何の罪もない子供。守人である自分が守るべき存在。そんなランスに罪を着せたくなかった。そう考えて、国の法律に気付いた。
「銃をお前に向けることで、お前に汚名を着せることを回避しようとした。だが……そんなもの一人よがりな考えだ。ランスが傷つくことは目に見えていたというのにな」
 苦笑交じりで言い切ると、シュランは再び顔を伏せた。祈るように組んだ両手の上に、白い額を押し付けた。




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