絆の森
<第八話 たゆたう想い・2>

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 柔らかな日差しが葉の合間から降り注ぐ。
 その光を一身に受け、一人の男が手元の何かを手入れしていた。鋭い赤眼で睨みつけている。
 それは、人間が作り出した愚かな殺人道具であった。
 円筒のない、鈍い銀製で重たそうな長い銃身。底から弾を詰め込む銃だった。空のホルスターは太腿の裏を陣取り、皮のバンドで固定されている。年季が入っているわけでもなく、さして新品のようにも見えない。
 遊ぶような手付きとは正反対に、彼の容貌は疲れ果てた大人のものだった。

 作業は数十分で終了した。
 かちゃりと音を鳴らす銃身を見つめ、男はすぐにしまいこんだ。緑深き森では不釣合いなそれを、長い間出しておきたくはなかった。
「リビア様」
 何もない宙に男は話しかけた。
 定まらない視線は痛々しく、空虚で生気が欠けていた。
「もう終わらせてきます。……ごめんなさい」
 赤眼の男はそう言った。喉に真綿が詰まったかのような、辛い声を絞り出した。
 それはあの日、自分の弟が出した声のようだと感じた。シュランは知らずに苦笑を浮かべ、ふと目を閉じた。
 信じられないという風な顔だった少年。弱々しいその姿は、森の中を笑顔で歩く彼とはまるで別人のように感じていた。
 彼にとっては大樹海こそが故郷と呼べる場所だ。きっと彼の頑なだった心は、本来あるべき所に納まったことで落ち着きを取り戻したのだろう。
 それはシュランに、平原での暮らしが仮初の家族であったことをまざまざと突きつけた。

 シュランは返答を待たずに、その場から去っていった。
 後に残るのは彼が腰掛けていた岩場の側に立ち竦む、色の定まらない人影。
「俺は、あいつの意思に任せる。創造主は、秤を、俺達を縛らない」
 ゆらゆらと揺れる実体を保てない己の身体を見下ろしながら、リビアは呟いた。
 使命の終焉を刻むため、冷たい鉄の銃を再び握った男の背を見送りながら。



 蜂の巣を探しながら散歩していた一行は、幹の中腹に洞が開いた木を見つけた。
 カイナが洞を遠目から覗き込むと、中には丸々とした立派な巣が居ついていた。周りには蜂の姿もある。
 木肌を確かめて、ランスは一度上ってみた。足がかりは良好だが、洞までが高いためすぐに飛び降りることはできないようだ。
 地上に引き返して、どうしようかと問い掛けようと振り向きかけた。
 その時、森に小さな変化があった。
 他の二人も同時に感じたらしく、殆どランスと同じ方向をじっと見つめている。
 普段なら観察力の強いカイナか、森の声を直接聞き取れるランスが最初に気付くはずだった。
 だが今は違う。誰もが分かるほど、張り詰めた空気が辺りを包んでいた。
 威圧感にも似た居心地の悪い気配に、森全体が静まり返っていた。

 肩を震わせるクゥナとカイナは、この情景に見覚えがあった。
 突然、神様の声が脳に直接響いてきたあの時。森は静まり返っていた。不気味なほど。
 誰かが来た。単なる侵入者ではない、何かが。
「……? ねぇカイナ、私の思い違いかな。あの時誰かがいたよね?」
 思い返しているうちに、クゥナは引っ掛かりを覚えた。重要な出来事を忘れているような気がする。
 彼女の方に振り返ったカイナの表情は、ほぼクゥナの予想通りだった。
「いました、わね。……人間?」
 歯切れが悪いのは、彼女自身も鮮明に覚えていないせいだ。
 ランスは二人の会話に首を傾げた。
「人間? こんな場所まで来られるのか?」
 彼の疑問は最もだ。入り口からずいぶん離れているし、遺跡の地下道を通ったとしても途中でランスと鉢合わせになったはずだ。
 否定を示したランスに対し、二人は小首を何度も傾げた。
「だけどアレは人間だったと思う。印象が曖昧で――」
 必死で記憶の糸を辿る二人を見つめながら、ランスは徐々に胸を掻き立てられるような衝動に襲われた。脳裏で警報が鳴り響く。忘れようとして、捨てようとして、結局は割り切れていない自分が押さえ込もうとしている感情が呼び覚まされるような感覚がする。
「……多分、赤、かった」
 クゥナが自信なさげに小さく呟いた。
「あ、か」
 ランスは自分の足を見つめて、思い描いた。

 一言で赤いと表せるような印象深い人物を、ランスは二人も知っている。
 一人は神出鬼没な赤髪の人。存在は幻のようで、姿形は極めてアンバランス。男のようで女のようで、人を殺すことに躊躇しない冷酷な面と、励ますかのような荒々しい優しさ面を持った人。
 夜空の色を灯した瞳が、何故かランスは好きだった。
 リビア。
 牢屋であった謎の男。遺跡であった謎の人。
 自分以外には確認されたことのいなかったリビアが、突然少女達の前に現れたというのは信じられない。

「本当に、人間だったのかい」
「ええ。引き上げるときに綱を使いましたよね? あんな大きな物、私達だけで運ぶのは無理ですわよ」
 よく考えてみれば分かることだった。
 ランスは気にも留めなかったし、二人も気付いていなかった。記憶を一時的に消されていたのだろうか。
 そうして、そこまでして自分と会うことを恐れた人物は誰なのだろうか。
「俺に会いたくない奴。俺が、会いたくない奴?」
 夢遊病者のように、ふらつく頭を抑えながら考える。ふわふわと浮くような感覚が胸に落ちた。

 記憶の扉の鍵が開く。
 冷たく燃える炎の双眸が、こちらを睨らむように見つめている。
 ランスの記憶の中に居座る、もう一人の赤い印象を鮮烈に残す者。この森に入ってくるはずがないと、そもそもの選択肢から外されていた赤眼の青年。
 思い出した途端に、全身に冷や汗が流れ出した。喉は渇き、目の奥がじわりと熱くなる。
 ランスは慌てて首を振る。
 まさか。有り得ない。
 彼が自分を追ってきたなんて、本当は家族のままでいたかった自分が思い浮かべる幻想でしかないはずだ。

 青褪めたランスに、二人も不安を覚えた。気丈な彼がこんなにまで怯えるのは、過去と今が重なり合ってしまうときなのだと薄々感づいていた。
「ランス」
「ランスさん」
 クゥナとカイナは、じっと少年を見上げた。
 心配そうな四つの目を見たランスは、ああ、と声にならない嘆息を吐き出した。
 守るものがなかったあの頃の自分。切り捨てられたことに嘆いてばかりいたあの日。
 だけど今、ランスには両手で抱えきれないほど愛しいものがある。
 もう現実から目を逸らしてはない。逃げないと、自分は決めたはずだ。
 言い聞かせていくうちに震えは起こらなくなっていた。
 ランスは毅然と前を見つめた。澄んだ翡翠に光が宿る。睨むような目ではなく、ただ真っ直ぐとしたものだった。


 水を打ったように静寂。視線の向こうで蠢く音がする。
 近づく何か。近づいてくる誰か。連れてくるのは、真実か。
 ざく、と草を踏む音が聞こえたと同時に、ランスが叫んだ。
「伏せろ!」
 突然の怒声に二人は驚き急降下した。
 瞬時に破裂音がした。恐る恐る後ろを振り向く。ランスの拳と同じくらいの石ころに、何かめり込んでいた。
 響き渡る低音は猛威を振るい、その後も三回ほど続いた。全て石に命中している。
 二人を片腕で抱きかかえ、ランスは素早い動きで避けていた。昔の獣相手の攻防以来だったがなまってはいない。
 五回目の音が響く前に、ランスは声を張り叫んだ。
「何であんたがここにいるんだ! 俺を殺さないと気がすまないのか!」
 涙が零れそうになったが、隠すように言葉を続ける。
「何か言えよ! 言ってくれよ、シュラン!」
 絶叫のように、封印していた名を呼んだ。

 大木の横に立っている青年は黙っていた。赤い視線は何処を見ているのか。
 億劫な態度で銃を構えるシュランに、掴みかかりそうな勢いのランス。
 クゥナはあの時感じていた既視感の意味を、ようやく悟り出した。
 似ている。彼は、自分の知っている誰かに似ているのだ。
 どこか遠くを懐かしみ、同時に憎しみに似た冷たい瞳で見ていたときの誰か。
 ――ランスにだ。

「ねえ、兄さん……」
 語尾が震えて、ランスは黙った。兄と二度と呼べないと思っていたのに、口から出て行った言葉は取り戻せない。
 あの日も彼は何も言わずに立ち去ってしまった。今日まで募った思いは計り知れない。けれど今度はシュランを目の前にすると、逆に言葉が出てこなかった。数々の疑問とせめぎあい、思い出が霞む。
 シュランは銃を傾けた。完全に下ろしてはいないが、今は撃つ気がないのだろう。
 薄い唇がゆっくりと開く。息を呑んでランスは見届けた。
 兄の声がどんなものだったか、早く聞かなければ忘れてしまいそうで苦しかった。
「消えろ。今すぐにな」
 至極はっきりとした口調で、シュランは第一声を発した。
 細い指が銃を強く握り、傾きが地面と平行になった。
 ランスは目を見開いたまま動かない。絶望に見開かれた視線は、冷たい銃身を凝視したままだ。
 腕の中のカイナはすぐさま叫んだ。
「ランスさんっ!」
 悲鳴じみた呼びかけに、反射的に体が動いた。

 表情の変化のないシュランは、標準を頭に合わそうとした。
 瞬間を狙ってクゥナが飛び出した。顔の筋肉が引き攣った必死な形相で、彼女は銃を蹴り飛ばした。
 思わぬ反撃にシュランの眉が顰められる。
 彼は武器をすぐに拾おうとはしなかった。二人の妖精を見比べ、意識を戻したランスを最後に見た。
「それが、答えか」
 ぽつりと落とされた少年の声を聞きながら、シュランはランスを眺めている。
「何で拾ったんだ! 俺は誰なんだ! どうして森に来てまで俺を!」
「答える必要はない」
 硬質な低い声は、全てを拒絶するように感じた。
 翡翠の水晶球が涙で揺れた。光を吸い込むその瞳は、シュランにとって酷く眩しいものに感じた。眩しすぎて目が痛くなる。
「俺は、あんたの何だったんだよ」
 熱を帯びていたはずの問いかけは、弱々しい呟きに変わっていた。

 発砲音も、木々のざわめきもなく、ランスとシュランの間には長い沈黙が保たれていた。
 涙で濡れる頬を必死で拭いながらも、ランスは前を見続けた。緑と赤の色彩が視線を交わすが、先に逸らしたのはシュランの方だった。
 彼に変化が生じたことにランスは気が付き、そして驚いた。
 泣いているのは自分のはずなのに。自分を殺したいのはシュランのはずなのに。
 まるで窒息するかのように彼の顔は苦しげで、泣きそうに歪んでいた。
「早く、ランスという存在を失くしてくれ! これ以上、私は耐えられない!」
 見慣れた冷静な顔。けれど歪む双眸は焦燥感を募らせ、呼吸も僅かに乱れていた。少しばかり錯乱しているのか、今度はがむしゃらに銃を拾い、構えようとしている。このままでは乱射しかけない。
 慌ててランスはシュランに向かって走り出した。
「教えてくれ! あんたに、俺に、どんな運命が背負わされているのかを!」
 引き金が引かれる。
 間に合わない。悟ったランスは、それでも走った。




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