絆の森
<第八話 たゆたう想い・1>

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 薄闇の中に光が生まれた。淡く儚いそれは灯篭のようだった。
 火は燭台へと次々に移されていき、徐々に辺りが明るくなり始めた。すると最初にあった灯篭の灯りは、急に誰かに吹き消された。陽炎の揺らめきの如く光は霞み、ぼんやりと残光があるだけとなった。
 幻想的な炎が浮かび上がらせたのは一人の青年だった。
 彼は火の消えた灯篭を足元に下ろし、部屋を見回した。
 そこは広い空間だった。天井は高く、声が良く響きそうだ。天球を象った丸い形で、数々の星座が描かれていた。床はなだらかな平面だ。磨かれた石が規則的に並んでいる。
 何かの部屋のようだが入り口は見当たらない。
 代わりに、ほぼ中央に台座があった。床からせり出している。
 台座に祀られていたのは何かの支柱だった。足はしっかりと安定した形で、接する面と平行に作られている。上部には秤針が見えた。大きな宝石もはめ込まれている場所は筒状で、そこにあるべき秤皿と腕は見当たらない。

 彼は静かに支柱だけとなった寂しい天秤を見つめた。細められた赤い瞳には懐古や責務を果たした安堵感が映されていたが、決して和らぐことはなかった。むしろそれらを凌駕する悔恨や苦痛で、彼の口元は頑なに引き噤まれたままだった。

「これでいいのですね」
 不意に彼の口から声が響いた。
 台座にもたれた彼は、前方を見つめて座っている。彼が見ているものは、壁にある大きな窪み。そして窪みの周りに掘られたレリーフだった。
「すまない。辛い思い、させた」
 もう一つ別の声が上がった。こちらは性別が良く分からない不思議な声音だった。
「覚悟していましたから」
 でも、と青年は続けた。
 不安定な情緒を表すかのように、わずかに声が震えていた。
「あいつの方が心配です。結局、何もしてやれずに今日まで来てしまった。真実も告げられず……逃げてばかりだ」
 顔を伏せて、青年は黙り込んだ。
 青年と向かい合っている赤髪の人物は沈黙に耐えかね、わざと明るい口調で言った。
「俺は、お前に感謝する。こうして長年離れていた、故郷に帰ることができた」
 闇の中からゆらりと現れる不思議な容貌を見上げ、青年は苦笑する。
 主たる者に元気付けられているのだと思うと、少しは気が楽になった。
 けれど彼は理解している。もう故郷と呼べる場所も、家族と呼べる人も、自身の手で全て捨て去ってしまった。それらと引き換えに果たす使命も、もうすぐ終える。
 自分の居場所には二度と帰れないのだ。
「私のあるべき場所は、何処にもないな」
「シュラン? それは……」
 青年は天を仰いだ。目を瞑ってしまうと、シュランの顔は随分幼く見えた。
「半端者は私の方ですね、リビア様。私は非道だ。きっと秤も左に偏る」
 寂しげに呟いたシュランに、リビアは黙って片腕の天秤を見やる。それから首を振った。
 片方だけのそれを見ても何も分からない。
 リビアは答えられぬ自分に苛立ち、遣る瀬無く思う。
 揺らいだ感情の変化に伴い、さっきまでは赤かった髪は黒くなり、青みを増す。そして緑に揺らぎ、再び赤へと戻る。宇宙のような黒真珠の目は、無意識の内に惹きこまれてしまう。
 ありとあらゆる色彩を持ちながら、どの色にも定まらない。安定していないのが目に見えて分かる。
 シュランは力無く笑い、静かに頭を垂れた。
 それ以上、二人は会話を続けようとしなかった。



「風が強いね」
 琥珀で造られた、天然の柱に腰掛けている人間が言った。
 柱は周りの木々よりも高い。岩肌は滑るので、手で登ることは不可能に近い。
 平原に住む人間族が大樹海と呼ぶ、この魔の森に彼はいた。森で生きるたった一人の少年。名はランス。
 翡翠の髪と目が特徴的で、灰色のコートを着ている。腰には短刀が吊り下がっていた。皮製の靴はぼろぼろで、森を移動する彼の日常を暗示しているようだ。
 眺めているのは地平線まで続く、なだらかな緑色の海。風がそよぐたびに波がたち、多様に光をきらきらと反射させる。
 ランスは本物の海を図鑑でしか見たことがないが、描いてあった水平線よりも大樹海の方がよっぽど美しく感じていた。
 生命は海からやって来たのだと説く学者もいたが、自分にとってはこの森こそが母なる場所なのだ。
 こんな絶景を見ようともしない国の人々を、ほんの少し哀れに思った。

 一際、大きい風が通り過ぎる。頭上を巨鳥が飛んでいったのだ。
 植物や獣、鳥の声がランスには理解できた。この場所に来られたのも、空を旋回する鳥達に頼んだからだ。
「俺にも翼があれば、北の果てにすぐ行けるのになぁ」
 ランスは口癖のように、何度もそう愚痴ていた。


 森に立ち入ってから一年以上経つ。ランスはひたすら北へと向かっていた。
 現在はこの辺りを中心にして暮らしているが、ある調査が終わればすぐさま北上する予定だった。
 そう。ある調査が終われば。
「……変な感じだ。懐かしいのに、ちっとも嬉しくない」
 ランスはふと、眼下を見た。
 旅の連れである二人の少女が、しきりに自分を呼んでいる。
 少々遅いが朝食の準備ができたのだろう。森に来てからというもの、時計というものをお目にかかったことがないためか、おかげで時間の概念が薄れ、太陽の傾き具合や方向で大体の時間帯を予測している。初めは戸惑っていたランスだったが、今ではすっかり覚えてしまった。
 現在の太陽の位置は、東寄り六十度。
 人間社会では午前十時ごろかな、とのんびりランスは考えた。

「コラ! 早くしないと食べちゃうよ」
 呼びかけても降りる気配がないランスに痺れを切らし、活発そうなポニーテールの少女が柱を上がってきた。
 彼女の橙色の髪は光を浴びて輝いている。背に生えている透明な羽が幻想的だ。
 ランスの頭ほどしかない身長で、大きく伸び上がり怒鳴る。耳鳴りがするほど大きな音量だった。
「それは遠慮したいな。今から降りるから、クゥナ達は先に食べていいよ」
 声を出したせいか、クゥナの小さなお腹から盛大な音が響いた。
 奇妙なタイミングだったのでランスは思わず吹き出した。もちろん、真っ赤になったクゥナに殴られた。


 食事をした三人は、のんびりと芝生の上を寝転んでいた。
 考え事の整理がつかないのだ。
 近くにある遺跡を探索した際に、ランスは妖精が神様と呼ぶこの地の守護者の声を聞いていた。守護者が語った森の民が伝える物語の結末。それは世界を定めた天秤とその守人が消息を絶った理由であった。

 もしかしたら、とずっとランスは思案していた。
 彼はこの大樹海の入り口――南に広がる平原との境目――に捨てられていたそうだ。拾った男も孤児で、家族は彼と兄の二人きり。その義兄とも一年前まで同居していたが、運命のあの日に別れたままだ。
 兄がいまだに逃亡生活を続けているとしても、ランスは二度と会えないだろうと諦めていた。
 迷いの森と恐れられる樹海の奥に、人間が命綱無しで立ち入ることは自殺行為でだと、森から一番近い国ユニステでは誰でも子供の頃から言い聞かされていることだ。
 実際には今日までランスという者が生きているのだが、古い慣習が染み付いている人間達は森に近づかないだろう。それこそランスのように強制的に森に追放された身でもなければ、こうして長々と生活しようなど考える者はいない。
 何処へ繋がっているか分からないまま、ただ延々と北へ続くだけの大樹海に兄が立ち入ることはないだろう。
 逃亡生活を続けるにしても、きっとユニステよりも南に位置する国を点々としているはずだ。
 生きていれば会える。
 この大樹海に踏み込んだ時から、ランスは仄かに浮かんだ希望を自ら握りつぶしていた。
「だからもしかしたらなんて言葉、嫌いなのに」
 呟く声は溜息にかき消された。

 神様の声が、頭の中に駆け巡る。
 守人が帰ってきた、と。
 自分が守人なのか。自分は森の民の血をひいているのか。
 聞きたいことは山ほどあった。だが声は理解できないほどの早口で何かを喚くばかり。結局何も分からずに戻ってきた。

「ランスさん。溜息を吐く度に幸せが逃げちゃいますわよ」
 皺の寄った眉間を誰かが押した。
 伸びた赤褐色の髪に、青っぽい羽。聡明そうな目元がこちらを見ている。クゥナと同じく妖精の少女であるカイナだ。
「幸せ? じゃあもうランスには残ってないかもねぇ」
 茶化すようにクゥナが言った。
 思考の海に沈みきっているときのランスは溜息を吐く癖がある。二人ともそれを知っているうえでこんなことを言っているわけだ。意地が悪い、とランスは思っている。
 頭を掻きながらランスは起き上がった。上半身を持ち上げ、気持ちよく伸びをする。
 咳払いをしながら、彼はわざとらしい丁寧口調で話した。
「えーっと、これから蜂蜜を採りに行きたいと思いますけど? 食べたくないみたいですねぇ」
「ああ! 行く! 行くってば!」
 慌てて二人はランスの肩に縋りつく。
 仕返しに成功した少年は、大きな笑い声をたてた。




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