絆の森
<第七話 始まりの鼓動・2>
BACK│HOME│NEXT
次の朝になった。
朝寝坊したクゥナに促されて、私は一人で彼の元へ飛んでいった。
昨日の場所に戻ってみると、洞はもぬけの殻だった。
私は慌てて辺りを見た。獣たちの足跡があるが、一緒にいるのかは分からない。
「あの子はどちらに行きましたか?」
一夜の宿を提供した老樹に訊ねてみた。
私の一族は、一方通行ではあるが植物と会話ができる。こちらの声は届いているので、向こうが何かしらの行動で示してくれる。
老樹は体を揺さぶった。北側にだけ、茶色い豊満な種が落ちる。
彼はここより北上したのだろう。
お礼を告げると私は飛び出した。
緑色の海は広く、離れてしまうとなかなか見つからない。
ところが彼の姿はすぐに発見できた。途中にあった沢で、顔を洗っていたようだ。木にもたれて一息ついていた。
木陰に身を隠し、私は観察を始める。鼓動はなんだか昨日より激しくなっていた。
病気にかかった覚えはないけれど、これは一体?
「まだ二日目、か。お腹空いたなぁ」
のんびりとランスは呟いていた。
そういえば昨日から何か食べている素振りは全くない。彼が森に立ち寄ってから二日目。流石に空腹も覚えるのだろう。
それでも彼は、食べ物を探そうと考えていないようだった。
「いいんだよ。だって大事な果実だろう。俺なんかに食べられるより、立派な木になってほしい」
もたれていた木に心配されたのだろう。ランスは小さく笑い、返事をしている。
本当に変な子だ。食べなければ死んでしまうのに、自分よりもまだ育つとも分からない果実の心配をしている。
これが、人間がもつ余計な理性というものなのだろうか。
綺麗事を並べて自己満足して。危険が及べばすぐに牙をむく。両極性を秘めた生き物。森に伝わる物語の最後で、創造主の秤を偏らせてしまった者達。
でも私は、先入観だけで彼の人格を否定したくはない。接したこともない人に対する冒涜だと思った。
――私、やっぱり変だ。こんなこと一度だって人間に思ったことはなかったのに。
「いたっ! カイナ、やっと見つけた」
髪にはいまだに寝癖が残っていたが、クゥナが私の後ろからやって来た。
息切れをしている。全速力でここまで飛んできたのだろう。少しは寝坊に反省したみたい。
何もなく午前は過ぎていった。
ランスはひたすら北に向かって歩いている。目的が不透明で、私たちには検討もつかない。
ただ、僅かな変化が生じていた。
最初は見間違いかと思った。それはだんだんと分かりやすくなってきた。決定的になったのは、鈍いはずのクゥナの指摘だった。
「右足を引き摺っていない? あと左肩も、ぶらついている」
「……怪我をしていますわね。脱臼か捻挫のどちらかでしょう」
獣と対峙したときの、無理な動きのせいだろう。あんなに筋を使ったのだ。悪くならないわけない。骨折をしていないことが奇跡だ。
彼のおぼつかない足取りは重く、数十分後には再び腰を下ろしてしまった。
苦しそうに溜息を吐き、痛みに顔を顰めている。かなり辛そうだった。
「クゥナ。助けるのは、もっと後にしましょう」
彼女が口走りそうなことを、先回りして言い放つ。
どきりとクゥナはこちらを向いた。口元を歪ませ、拗ねた表情だった。
心配しているのは私達だけではない。
辺りでざわつく草木を見回しながら、動けない彼らの方がよっぽど我慢していますわ、と教師のような口調で私は言った。
樹木のざわつきは先程から止まない。
視界に収まる範囲は、確実に彼のことを気にかけている。それこそ同胞を見守るような仕草だ。
(それに……)
言おうかと考えたが、私の唇は貼り付いたまま動こうとしない。
クゥナは怪訝な顔になっただろうか。視線を彼に合わせたままだから、この角度では見えない。
(それに、私だって)
こんなことを彼女に言っても仕方がない。はりあっているように聞こえる。そんなの、まるで子供じゃないか。些細なことで嫉妬する幼心。
(……シット?)
脳裏に浮かんだ言葉が喉に詰まる。
こんな感情に、覚えなんてない。
昔の私が、クゥナに感じていた劣等感。あれだって嫉妬のうちだ。
どう足掻いたって直せない容姿。比べられる度に、ある種の苛立ちが募っていった。
現在はそれほどでもないが、時折その焦燥に駆られるときもある。心的外傷のようなものだと諦めているが、気にならないわけではない。
その粟立つ感情は、今苦しげに歩き続けるランスに向けられている。
彼の周りにいる森の民達は皆素直に声をかけているのに、どうして自分達は彼の元へと飛んでいってはいけないのだろう。
一族が決めたから? 人間は恐ろしい生き物だから?
そう考えることこそ余計な理性だと、私は皮肉に思った。
否定することなく森と会話しているランスの方が、よっぽど自分達に近い感性を持っているではないか。
人間と同じ言葉を使える私達よりも、人の形をしながらも森に受け入れられた彼の方が。
ランスはよろけながら立ち上がっていた。
一歩一歩確かめながら歩き出す。少しずつだったが、前へと進んでいる。
彼の足取りは森を行くには適していなかった。慣れていないのだろう。人間は平原に住んでいる。複雑に入り組んだ森の中は歩き難いようだ。
じっとりと汗が滲む背を見つめていても、私は無言だった。駆け寄りたい衝動を押さえ込み、ただ歯の奥を噛み締める。
「よう。ドゥライセン。この辺りは君の領域なのかい」
ランスの声が名を呼んだ。
すると目も覚めるような白い影がのっそりと姿を現した。
ドゥライセンは目を少し細め、それから頭を上下させる。ランスには言葉で分かるはずだが、普段の生活のせいで体も動いてしまうらしい。
「取りまとめしているんだからな。当たり前か」
私達があまり気に留めなかったことをランスは尋ねていた。できたばかりの友人のように、ごく自然とだ。
獣が人間を排除する。だけどその獣にも長がいて社会がある。
そんな簡単なことを、同じ大樹海に住む私達の一族は長年考えたこともなかった。
警戒心が強いのと、排他的なのは別物だ。
私は自分を恥じた。
ドゥライセンは行動を共にするようだ。彼はきっと私達に気付いているから、ランスにばらされるとこの尾行劇も終わりを迎えてしまう。それは残念にも思えたし、存在に気付いてもらえることに嬉しくも思った。
「でも昨日の段階で言っていないみたいだから、今日も喋らないでしょ」
軽々しい思考に釘を刺すようなクゥナに、私はぎょっとした。彼女の発言に忠告するのはいつも私なのに、稀にクゥナは絶妙な間合いで物を言う。珍しい、なんて言うと激怒されることは間違いないだろうが。
足を庇って歩くランスの歩調に合わせて、獣のゆっくりと進んでいる。何度かドゥライセンも説得をしているようだ。ランスは頑なに首を振っていた。
眠るときでさえ、眉を顰めている。
今も疼く傷を治さずに床についても、疲労は回復しない。苦しみは夢にまで現れるだろう。
だけど彼はじっと我慢し続けていた。一晩中、私達はランスの容態をただ見つめていた。
BACK│HOME│NEXT
-- Copyright (C) sinobu satuki, All rights reserved. --