絆の森
<第七話 始まりの鼓動・1>

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 私は騒がしい外を見た。
 侵入者に驚き、森の木々がざわめいているのだろう。
 いつにもまして激しいそれは、単なる一時の立ち入りなどではないのだと物語っていた。

 人間が無断で森を出入りしていることは、もはや暗黙の了解。
 向こうはこの森を、魔の森だとか迷いの森だとか勝手な名前を付けて恐れていた。だから好き好んで近づく者は普通いない。いたとしても、それは迷い込んだ土地勘のない旅人。もしくは入り口が視界に入る程度の場所に、使用した物を捨てていく近くの国の人間。それに、森の民を狩りに来る招かれざる密猟者達か。

 森の民はそのどれも歓迎してはいない。
 酷いときには遺跡荒らしまでやって来る始末なのだ。
 何もせずに帰るのなら構わない。だが少しでもおかしな真似をすれば、旅人だろうが遺跡荒らしだろうが命の保証はない。
 気性の荒い獣が食い殺してしまうか、大樹海を蠢く人食い植物が必ず制裁を与える。
 森には森の掟が存在するのだ。
 大人しく自分達の住むべき場所で暮らせばよいものを、豊かさを求めて私達の領域を勝手に荒らしていく行為が許されるわけがない。
 だから今回も、侵入者はすぐに退散するか排除されると思い込んでいた。


「あら? 静かになった……」
 しばらく木の洞に座っていたら、急に辺りは鎮まった。余韻も残さず、ぴたりとだ。
 不思議に思って私は首を傾げた。
「カイナ、行ってみようよ」
 奥に控えていた私の片割れであるクゥナは、好奇心に目を輝かせている。
 私と二人でいるときの素の彼女が、こんな顔を見せるのは久しぶりだ。
 危険だとか、引き返した方がいいとか。そういった言葉が頭の中で飛び交った。
 けれど私は、クゥナの提案に乗った。
 閉鎖的に暮らす私たちの一族に、少し嫌気がさしていたことも手伝って。

 まず、クゥナから洞を飛び出した。
 昆虫のような透明な羽がはばたき、微風が頬を通り過ぎる。
 彼女の髪は、柑橘類がもつ綺麗な橙色だ。翼は光に透かすと微妙な淡い光彩を放つ。
 一応、遺伝子上は双子であるのに、私にはこんな色の兆候すら見られない。髪は赤褐色。沈んだ色は逆に目立ってしまう。羽だって特に珍しい色ではない。ほんのり青みがかっている程度だ。
 一度そのせいで仲間達にいじめられたこともあった。
 クゥナと揃いにすれば、似ているだろうかと思って長く伸ばした髪。それはますます彼女との色の違いをはっきりさせ、結局泣きながら首筋までばっさりと切ってしまった。
 だから私の短い髪は、いつもざんばらに切られている。毛先の整えられた綺麗なクゥナのそれを見る度に溜息を出てしまった。


 私達は森を南下していった。
 植物の生態系が徐々に変化していき、やがて二時間ほど経過した。
 太陽は天心を飾る。狂っていた風はあれからずっと黙ったままだ。
 差し込む木漏れ日を求めて、数々の草花は光を仰ぐ。朽ちた木の洞窟を抜け、開けた広場も通り越す。
 その時、視界の端に木の葉の色とは違う緑色を見たような気がした。
 私は動きを止め、クゥナを促した。
 彼女はゆっくりと頷いた。視線の先には、動く人影が合った。
「あの人間ね。何しに来たのかな」

 広葉樹を三本挟んだ、その向こう側。二本足で動く、大きな生き物が歩いていた。
 彼は、今までやって来た人間とは少し違う様子だった。
 まずは服装。用事があるにしては軽装すぎる。薄い白の服を着て、腰の紐で結んである。袖は七分ほど。下も膝丈だった。
 片腕には灰色の羽織をかけている。何も持っていない右手は、所在無いまま前後に揺れていた。
 次に背格好。身長はもちろん私なんかよりも高い。彼の顔の大きさが、ちょうど私の身長だろう。
 人間の標準体躯がどれほどなのか知らないが、目の前の人間は痩せているように見えた。
 歳は若い。せいぜい十代半ばより少し上くらいか。
 幼さを残す、翡翠のような瞳が印象的だった。
 だけどそれ以上に私は驚いていた。
 少年の域から脱していない彼の、達観した表情に。

「なんか、森にいても不自然じゃないね」
 クゥナの意見に同意する。
 少年は頻りに木々を見上げていた。辺りを何度も見回して、何回も首を巡らせている。状況が把握できていないようだ。
 けれど彼の表情には不安など一切なく、ただ不思議そうに辺りを見上げている。誰か探しているのだろうかと考えたが、そこにあるのは物言わぬ植物ばかりだ。
「聞こえるのか? 俺、ランス。君達は?」
 きょとんとしたまま、少年は誰かに話しかけた。
 すると彼が見ていた樹木がざわついた。足元の雑草も、己の存在を主張するように揺れた。
 ランスと名乗った人間は、嬉しそうに口元を緩ませた。これが歳相応の笑顔なのだろう。周りにいる者を和ませてしまうような、優しい顔だった。
 隣にいるクゥナを盗み見る。彼女は完全に見惚れていた。
「そうか。俺も、大樹海が故郷みたいなものさ。仲間だな」
 耳障りではない声。心まで浸透する、落ち着いた声。いつまでも聞いていたいような、不思議な安心感をもたらす少年の声。
 不意に鼓動が、大きくなったような気がした。
「ああ! 行っちゃうよ!」
 わめくような叫びに慌てて意識をこちらに戻す。
 クゥナが急いで飛び立っていた。何事かと前方に目をやると、あの少年は突然走り出していた。


 少年がやって来たのは、人間の生活用品が捨ててある場所だった。
 金属でできている、取っ手のついた深い皿。長い柄の先が丸くなっているもの。錆が浮いている刃。ほつれている縄。
 明らかに、森の民には必要のない物が散乱している。
 こりゃあ酷いや、と彼は言った。
 それからランスは、ごちゃごちゃとした廃棄物の山に進みこんだ。散乱しているものを一まとめにして、何かを探し出した。
 危なっかしい手元にハラハラしながら、私達は見守っていた。

 日が斜めから差し始めた頃、少年は山から取り出した道具を順々に見比べていた。
 本当に使う気なのだろうか。
 クゥナと顔を見合わせて、彼の後を追った。


 辿り着いたのはこの辺りでも一番の巨木だった。地上と接している部分には、人が十分に入れる広さの洞がある。
「爺さん。今晩はここを借りるから……。あ、ああ。ありがとう」
 独り言にしては不自然な言葉だ。
 ここでやっと私は気付く。彼は植物と喋っているのだ。
 外から来た人間が森の民の言葉を理解するなんて有り得ない。けれど、それが真実だとすれば最初の彼の行動の意味も説明がつく。
 ランスも戸惑っていたのだろう。
 人界にいる植物は、完全に森とは別のものだ。この森は世界が創られた時から存在する。生えている木々や草花も、ずっと昔からその姿で生き続けている。
 ――森の民に伝わる、古い物語によれば。
 外の植物は言の葉を忘れてしまっている。否、元から知らないのだ。人間が生きるために栽培されている彼らは。
 平原からやって来たランスは、己の能力に気付かずに生きてきたのだろう。
 そしてこの森に来て、それを知ったのだ。
 普通ならきっと自分の能力に気味悪がるだろうに、自然と受け入れしまったランス。
 私は彼からだんだんと目が離せなくなってきたことを自覚した。

 洞に座ったランスは、道具を綺麗に擦りだした。錆や苔を落としているようだ。朽ち木の皮を使い、丹念に拭っている。
「あれって何なのかなー? 気になるねぇ」
 うずうずと、今にも飛び出て行きそうな勢いのクゥナ。一応彼女を宥めたが、本心ではきっと私も行ってみたいのだろう。

 次々に変わる彼の表情をもっと良く知りたい。見てみたい。私たちと話したら、彼はどんな顔をしてくれるのだろう。
 大人びた顔していた。そう思ったら柔らかく笑った。無邪気な子供のように探し物をして、眉を顰めながら道具の整備をする。
 嫌なことばかりする人間のはずなのに、目の前にいるのは綺麗で不思議な男の子。
 たった少しの距離しかないのに、彼がずいぶん遠くの世界にいるような気がした。

 一通りの錆を取ってしまうと、汚かった道具が立派に見えてきた。
 満足そうに汗を拭って、ランスは立ち上がりかけた。視線をこちらに向けたのに気付き、私たちは急いで木陰に隠れた。
 すると、足元を何かが通過していった。私たちが立っているのは、地面から離れた枝の上だ。地を這う動物だろう。森から外部者を排除しようと、本能的にやって来た獣だ。
「止める?」
「いいえ。摂理ですもの。ここから見ていましょう」
 即答で私は答えた。
 クゥナは心配そうに少年を眺めた。
 何故か私には不安要素が浮かばなかった。彼はきっと大丈夫だろうと確信していた。
 理由は、分からなかったけれど。

 唸る獣は一頭だけではなかった。四方からも数頭、茂みから姿を現した。
 彼は完全に立ち上がった。洞から一歩出る。手には何も持っていなかった。
 正面の、白い毛並みの獣も彼に近づいた。牙を剥き出して威嚇している。
 微妙な間合いが保たれた。双方動こうとしない。
 ランスはじっとして、白い獣の瞳を見つめていた。僅かな微動もせず、瞬きもしていない。
 その硬直は、獣が爪を煌かせた瞬間に解けた。
 尻尾を大きく振り上げたかと思うと、獣は一気にランスに飛びかかっていった。体長は確実に少年よりも上回っている。
 一瞬のことだったが、ランスは細身の体を縮めた。足のばねを使い、真横に跳ぶ。待ち構えていた赤毛の獣の下を潜り抜け、側にあった若い木の幹に背をつけた。
 平然としていた顔に疲労が見られる。呼吸が乱れ始めていた。

 次に対角線上にいた違う獣が突進してきた。
 ランスは素早く頭上の枝にしがみついた。反動で足を縮め、獣は木に衝突した。そのまま幹を蹴りつけると、今度はそこから地上に向かって跳んだ。着地地点にはさっきの白い獣の背中があった。逞しい筋肉の上に、少年の全体重が圧し掛かった。
 獣は怯んだ。その隙を見逃さずに、ランスは首に腕を回した。
 もがき抵抗する力に、振り落とされないように必死の形相だった。
 周りにいる獣達は固唾を呑んでいる。
 ランスの腕は、筋が浮き出し汗ばんでいた。だけど離す様子は全くない。
 彼は詰まりそうな息を吐いて、叫んだ。
「俺はお前達に、森に住む者に無駄な殺生はしない! 誓いを破れば、いつでも喉笛を掻き切るがいい! 俺はこの地に骨を埋めよう!」
 いっそ清々しく彼は言い切った。死が怖くはないのだろうかと、こちらが尋ねたくなってしまうほど。

 森に響き渡る誓いの言葉に、木々はしきりに何かを訴えるように動き続けている。葉は一枚も落ちてこない。風のためでもなく、意思を伝えようとしているからだ。
 けれどさすがに獣達に彼らの、ひいてはランスの言葉は理解はできないだろうと思った。森の民同士でも、言葉の疎通は一番難しいのだ。
 ところが白い毛並みの獣はすぐに静かになった。
 ゆっくりとランスは背中から降り、獣の正面に立った。周りのものもじっと待っている。先程までの荒々しさから打って変わり、非常に大人しかった。
「……え、あ、うん。ランスだ。ありがとう。よろしく、ドゥライセン」
 再び少年は驚いたような顔つきになり、すぐさま笑った。
 腕を伸ばして柔らかな頭を撫でる。気持ち良さそうに獣は喉を鳴らした。

 この情景を私達は唖然と見ていた。
 今や彼には、森の全ての声が聞こえているのだ。気位が高い獣たちをも納得させる何かを、ランスは持ち得ている。
 少年にドゥライセンと名乗った白毛の獣は、周りにいる獣たちに対して安心して良いと首を振った。すると奮い立たせていた尾が、ゆっくりと垂れ下がっていった。完全に警戒を解いた証拠だ。
 唸る声はもはやなく、甘えるように擦り寄る動物達がそこにいた。

 その日は夜もすっかり更けて、彼は就寝についた。
 何頭かの獣が居座った洞の中、ドゥライセンの背にもたれてランスは眠っていた。
 私たちも一度ねぐらに帰った。




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