絆の森
<第六話 舞台へ誘う声 〜Shran〜 2>
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私は無言で地面にある自分の影を見つめていた。影の傾き方がさっきと違うから、日がだいぶ上がってきたのだろう。
それなのに薄暗く感じるのは、太陽が雲に隠されたからなのだろうか。
ほとんど無音の状態が不気味なほど長く続いていた。
鳥の声も全く聞こえない。先程までの草木のざわめきも止まっている。
異常な静寂が、私達の周りの空気をゆっくりと刺し貫いていた。
まるで森全体が畏縮し、何かに怯えている。――違う。怯えているのではなく、戸惑っている。何が正しいのか分からない子供みたいに。
最初の異変に気付いたのは、カイナの方だった。
「クゥナ、聞こえない? 脳裏で雑音がちりちり鳴っているみたいな感じがしますわ」
気持ち悪そうに頭を抱えながら、彼女は呟く。
心配する時間もなく、その現象はすぐに私にも起こった。
それは頭と体が分離したような間隔だった。私の聴覚は何も捉えていないのに、頭の中だけにずれた音が聞こえる。身体の感じる矛盾に吐き気が込み上げた。
雑音めいた音はだんだんと鮮明になっていった。輪郭は不透明なのに、切れ切れで無機質な言葉が浮かぶ。
『な……、守…――帰って……』
何か聞こえる。けれど不快な感覚から逃れたくて、私は無我夢中だった。無駄だと分かっていても耳を押さえずにはいられない。
気持ちが悪い。
内側から広がる鈍い頭痛。顔を顰めても何の意味もない。ただじっと、この苦しみが通り過ぎることを願って待っているだけ。
響く警告音がやっと治まりだした。深く息をつき、頭を振って正気に戻る。
私たちは辺りを見た。
依然、森は沈黙を保ったままだった。
「今のが、ランスが言っていた声?」
何気なくカイナに尋ねてみる。彼女は無言で首を縦に動かした。
「多分。でも強すぎますわ。何も聞き取れなかった私達が急に……」
言葉を濁しながら彼女は像のてっぺんに飛び乗った。
私もまた遺跡を眺めて、ランスのことを思った。嫌な予感で背中の辺りがざわざわする。胸騒ぎがいつにもまして酷い。
彼が無茶をしていたらどうしようと、そればかり考える。
不安は幾つもよぎっていった。でも、私たちには無事を願うことしかできない。
集落で生活していた頃は日課であった、祈りの姿勢。指を絡めて額に押し付け、瞼を閉じる。 一心不乱に念じた。
想いは、時には奇跡を起こすのだと。彼から教わったことだから。
ざく。ざく。
聞き慣れない音質に、私は途中で目を開けてしまった。
固まったまま首を廻らせることもできずに、同じ姿勢を保った。心の臓に冷たいものが通り過ぎていく。組まれた手は震えもなく、凍ったように動かない。
ざく。ざく。ざく。
カイナもきっと同じように信じられないといった顔付きになっているのだろう。頭上の方から震えた少女の声が聞こえた。
必死に目の前で起こっている出来事を、否定していた。
ざく。ざく。ざく。ざく。
乾いた雑草を踏む、規則的な音。だんだんとそれは近づいてきていた。
この森に二足歩行で歩く者はいない。
たった一人、人間であるランスを除けば。
耳を塞ぎたかった。逃げ出したかった。けれど、私はそうしなかった。
すぐ後ろで止まった足音。恐怖と慄きが先進を駆け巡る。振り向きたくない。でも確かめなくては。
私なら。クゥナなら。ランスが笑顔を向けてくれる彼女なら、きっと怖くても強がるだろう。勇気を振り絞るだろう。
だから私は、勢い振り返った。
視界に広がったのは、見惚れるような赤い赤い色。
鋭く全てを拒絶するかのような鋭い目つき。裾が破れている朽葉色の羽織を着ていて、口元から鼻にかけて布を巻きつけている。布は頭も覆っていたため、髪も見えなかった。
半分隠れた精悍な顔立ちは整っているが、老成した若者の雰囲気が色濃く漂っていた。肌は色白で浮かび上がって見える。独特の倦怠感が辺りに取り巻いていた。
私は、この人を見たことがある。
直感で分かった。でもそれがいつなのか、どこだったのか全く覚えていない。
しっかりとした肩幅は男の人だろう。まるで重い運命を担っているように見えた。
「あんた! あたし達の森に何の用よ!」
「……森の民か。害をなしに訪れたのではない。この先に、用がある」
恐れる心を誤魔化すように、私は怒鳴るように叫んだ。
返ってきた声はしっとりと落ち着いており、清水のように澄んでいた。
人間は、誰もがこんなに綺麗な声を持っているものだろうかと不意に思う。ランスと良く似た、慈しむことを知っている声だった。
私はカイナを見た。観察力のある彼女のことだ。男の真意に気付いたのだろう。焦りを押し留めている。
「遺跡に何の御用です。いいえ、遺跡のみならずこの森は人間が入って良い場所ではありませんわ」
牽制するかのようにカイナは低く声を出した。
もちろん男にたじろいだ様子はなかった。冷たい刃物のような目は、じっと遺跡に注がれている。
「……知っているか。この地の底に世界を定めたものが封じられていることを。私はそこに行かなくてはならない。信じられないのなら、一緒に来ればいい」
――あれ?
突如として男に対する不信感が、一つの疑問に摩り替わった。
私は、やっぱりこの人と会ったことがある?
確かに記憶には留められている、この台詞。どこかで一度は聞いたはずなのに、どうしても思い出せない。
この男とは今初めて会ったはずなのに。すごく最近のような気もした。とても昔のことだったような気もした。
誰が、言っていたのだろう。
男はそれっきり無言で、淡々と遺跡の入り口に向かっていく。
カイナは私の方をちらりと見た。深く頷いて返事をする。
暗い場所へ、私たちは再び訪れた。
ずいぶん道を進んだ。
前回と同じように、時間の経過が全く分からない。さらに私は男の沈黙に、気まずいものを感じていた。隣を飛ぶ少女も複雑な心境のようで、あらぬ方向を見つめている。
やがて地下広場に出ようとしたとき、男は急に立ち止まった。自分の足元に目を凝らしているようだ。
私も覗き込んでみた。
それは、穴だった。脆くなっていた場所が重みで崩れたのだろう。黄泉まで続くいているのか、底を見ることはできなかった。
「これで拾ってやれ。下は空気が薄い」
「拾うって……まさか!」
言われたことに驚き、私は穴に飛び込みそうになった。寸前でカイナに制止された。
男は繊維が編みこまれている綱を穴に投げ込んだ。手に持っている方の、綱の端を柱に括りつけた。何度か引っ張って強度を確かめる。
作業が終わると男は、広場の奥に踏み込んで行った。
私達の視界が利く範囲から離れると、彼の周りには暗闇はすぐに纏わりついた。一見するとそこには何もいないように見えたが、僅かに藍色の生地で作られた靴が見える。
男はどうやら壁に背を預け、息を殺すようにじっとしていた。
誰かから身を隠すように。
カイナは不審がってその行動を眺めていたが、私はそれどころではなかった。
綱が揺れたのだ。きっと誰かが下から上がってこようとしている。
ぎしぎし音を鳴らす綱の向こうには、きっと。
上がってきた者を確認して、男は気付かれぬように息を吐き出した。
妖精の少女と話している姿を眺める。
まだ歳相応の幼さを残しているその横顔には、どこか達観したような雰囲気がある。会わないうちに随分成長したものだと、何やら湿っぽい感情が彼の中に過ぎった。
どうやらこちらには気付いていないのだろう。少女たちと遺跡の入り口に戻りだした。彼女達も、きっとここを出るまでは自分のことを思い出さないだろう。
少々罪悪感があったが、男は首を振った。
誰もいなくなった穴の中に彼は飛び込んだ。常人ならば、無事ではいられない高さだったが、男は特に痛みを感じた様子もなく奥の安置場所へ向かった。
どこから取り出したのか、白い布で包まれたものを大事そうに抱えている。
「長かったな。だがやっと終わりの兆しが見えた」
顔に巻いていた布を取り除きながら、男は言った。
一人分の足音が地下に響き、やがて止まった。
「また会おうランス。私などに会いたくはないだろうが」
緋色の瞳の男は寂しげに苦笑いを浮かべた。それが彼の見せた、初めての表情らしい表情だった。
細められた瞳は一瞬だけ、頭上を見上げた。緑の髪の少年を思い。
そして声が聞こえ始めた。導きの、声が。
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