絆の森
<第五話 舞台へ誘う声 〜Lance〜 2>

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『我が半身、返したまえ! 我が半身、返したまえ!』

 うやむやだった声が突然大きくなった。
 聴覚には伝わらず、声は直接脳に語りかけてくるようにわぁんわぁんと響いた。まさか急にはっきりと聞こえるようになるなんて予想もしていなかった。身構えていたわけではないため、脳震盪が起こったような感覚に陥る。
 これは泣き叫ぶ赤子の叫びにも似ていた。言葉は断片的で繋がりをみせていない。
 内側から広がる苦痛がランスに重圧を与えた。
「何だって言うんだ! 何を求めているんだっ!」
 誰もいない空間に少年の声音が届いた。
「答えろ! お前は一体誰なんだ!」

『……我は森の民の守り手。幾年の長き年月、この地を見守り続けた』

 抽象的な言葉だったが、ランスは直感的に理解できた。
 クゥナとカイナが言っていた神様とは、物語に登場する創造主と同等の存在ではない。声の主は、この大樹海に宿った大地の意思であるのだろう。
 新しい世界が成り立ったときに数多の破片が創造主から湧き出でて、それぞれは形を成さない意思となり各地へ飛び散ったと物語は謳っていた。
 意思はその地を見守る者となり、目に見えない彼らを森の民、あるいは人間達が神様と言うようになったのだ。声の聞こえない彼らにとっては、土地から感じる僅かな気配は畏怖するものであり、また敬愛するものでもあったのだろう。

 しかし、ランスは声を聞き取った。そして声もまた、ランスに答えた。
 その奇妙さに、少年は背中に冷たいものを流されたような気がした。
 森の民と心通わせることには抵抗がなかった。けれどその彼らでさえも大樹海の守護者の存在を完全には捉えきれていなかった。
 自分が浮いていることはランスも重々承知していたが、目の前に横たわる事実は彼を異物だと訴えている。お前は森の民ですらないのだと、静かに告げていた。


 幾重もの音からなる声は、誰かを待っていると言った。
 それは森の守護者の半身である、創造主の天秤の守人なのだと。
「まさかこれが物語の天秤?」
 驚愕の色を隠せずに、ランスは台座に鎮座されている物を見た。
 針は傾きを示すもの。足はしっかりと地面と平行に立つようになっている。大きな宝石がはめられている部分は筒状になっていて、横から覗けば向こう側が見えた。
 よくよく見れば確かに天秤の支柱なのだが、何故か秤が両腕とも無くなっている。
 ランスは強張る拳を無理やり押さえつけ、森の守護者に尋ねてみた。ここに来た以上、教えてもらえることは全て知りたかった。

 しばらくの沈黙が続いた。答えは、若干の怒りを含みながら返ってきた。


 物語で悪に偏り平原に追いやられた種族――明確にせずとも、人間を指していると断言できる――の中の一部が創造主の審判に不満を持っていた。
 最初は彼らも我慢することができた。しかし段々と過酷な生活に嫌気が差し始めた。
 当然だ。少し前までは、豊かな生活を独占的に所有していたのだから。

 彼らは腹いせに、現在の森の民達から天秤を略奪しようとした。
 ところが、簡単にはいかなかった。
 世界が秤で分けられる前に彼ら人間達と同じ場所に住んでいた者が、その天秤を守っていたからだ。
 彼らは天秤に偏りが見られなかったため、創造主によって森の民達と同じ場所へと分類されていた。そして力の弱い他の種族に代わって、大樹海に眠る天秤を守る役割を持っていた。

 激しく静かな戦いはすぐに終着した。平原の種族が攻め込んだ森に適応できず、逃げ出したのだ。
 だが左右の秤は持ち出されてしまった。これで天秤は機能できなくなってしまった。
 責任を感じた天秤の守人らは、彼らを追って森を出た。
 残った他の種族達は守る力が無いため、天秤を地中深くに封じた。
 再び創造主が、世界を分けるような事態にならぬようにと。
 いつの日か帰ってくる守人達のために、二度と盗み出させるようなことがないようにと。


 津波のような轟音を響かせていた頭の中が、急に静まり返った。耳から聞こえる静寂と、知覚する静穏が一致する。
 顰めていた眉から力を抜いて、ランスは疑似天球を見上げた。
 声の主は何かを探っているのか、雑音のような音が時折脳裏を過ぎった。
 訝しく思ったランスは、しばらく黙ったまま相手の言葉の続きを待った。しかし返ってきたのは話の続きではなく、懐かしげな声音だった。

『汝は我の声を感じている? 汝、守人の一族なのか?』

「え……」
 誰が、何だって?
 ランスは言葉を失った。全身が震えだしそうになる。抑えようと強く握った拳。肌に爪が食い込んだが、気に留めることさえできなかった。

 ずっと引っ掛かりを覚えていた、自分の正体。
 森で感じる懐かしさと、ある種の違和感。それは何故なのか、ランスはずっと考え続けていた。
 けれど、声の言うことが本当ならば全ての辻褄が合うのではないか。
 自分は人の形をした森の民なのだとしたら。人ではないのだとしたら。
 平原という外の世界に馴染めなかったのは、血脈に刻まれた人間への怒りだったのだろうか。大樹海へ向かうことになっても生きる希望を持てたのは、帰巣本能だったのだろうか。
 ――自分は本当に、赤眼の彼とは違う生き物だったのか。

 今にも狼狽しそうな精神を必死に堪え、答えを探る。
 目の奥が焼け付くように熱くなった。平静を保とうと、拳はさらに強く握られた。大地に足の裏を縫い止めて、ふらつきも我慢した。

 だんだんと守護者の声は、落ち着きを無くし始めた。
 第一声を聞いたときのようにつんざくような痛みが伴う音となり、これ以上この場には居てはいけないような気がする。
 ランスは天秤の軸をしばらく見ていた。
 そして一瞥をくれ、名残惜しみながらもスイッチを引っ張った。レリーフの形が元通りになる。塞がれていた出入り口が開いた。
 地に封じられた天秤のことを思い浮かべながらも、ランスは一目散に走り出した
 声が、遠くに反響する。
 見えない恐怖感を煽るそれから逃げ出したくて、彼はひたすら走っていった。



 落ちてきた場所まで駆けてきたランスは、行き止まりの壁に寄りかかっていた。
 声はもう全くと言っていいほど聞こえない。頭が少し痛むのは、酸素不足からだ。
 ランスは上を見上げた。
 深い闇色が、空間そのものを飲み込むように続いている。
「約束、したからな」
 息が整ってきてからランスは壁に手をかけた。

 数日前、蛍茸をとるために滑りやすい木に上った。皮が擦りむけて、クゥナに呆れられてカイナに説教をくらった。周りの木には心配されて、獣たちには笑われた。あの日も煮料理を作った。

 思い出しているうちにランスの口元に笑みが浮かんでいた。
 楽しかった。とても嬉しかった。
 兄を失ってから、大樹海は自分の家となった。森の民は家族になった。
 それだけは自分の中に確かに存在する真実なのだから。まだ過去形には、したくない。
 手元が滑り落ちるのも何十回目だろう。全身が打ち身で悲鳴を上げている。肉刺は潰れて出血した。血痕も乾きだしている。
 だがランスの目から光は失われなかった。
 何度も何度も地を這い蹲り、壁によじ登る。諦める気はさらさらなかった。

 鈍い落下音が再び響いた。
 強く腰を打ったランスは、歯を食い縛った。骨折をしていないことが嘘のようだ。
「っ……。ん?」
 顰めていた顔の側を、急に風が切った。
 何かと思い、痛む腰に鞭を打って上半身を動かす。頬に当たったものはごつごつしている。目を凝らすと、それがロープだと気付いた。樹木の繊維が複雑に編みこまれている。
 ランスにはこれが懐かしい物に見えた。
 まだユニステの国に住んでいた頃、家にあったものと同じだ。見た目は細くて頼りなさ気だが、丈夫で長持ちする。普通のナイフではなかなか切れない。
 ランスの家の庭先にも置いてあって、洗濯物を乾かすときに張っていた。物干し台の側には兄がいて、傷だらけで帰ってきたランスを何も言わずに出迎えてくれた。日向の匂いが、大好きだった。

 誰がこれを投げ入れてくれたのか。疑問符が浮かんだが、意を決したランスは一縷の望みにかけた。
 ロープをたぐり寄せて何度か引く。どうにか上れそうだ。右足からかけて、全体重を移していく。嫌な音をたてている。それでも千切れる様子はない。
 激痛に耐えながら少しずつ上り始めた。
 垂直の出口の向こうでは誰が待っているのだろうか。



 離れていく少年の気配に、少し感傷的になった。
 一時的とはいえ別れはいつでも寂しい想いを募らせる。
「そうだろう、森の守護者よ。天秤の守人、この地から旅立った時も、そう思わなかったか」
 擬似天球が天井に描かれた、今は閉ざされているはずの空間に不思議な声がした。
 男にしては高めの、女にしては低い音程。
 その呼びかけに応じたのは、先程まで狂うようにランスに語りかけていた声だった。

 部屋の入り口の正面にある、窪みに記されたレリーフを誰かが見ていた。薄暗い部屋でも目立つ、炎のような髪を揺らしている。腰には、聖域には似つかわしくない銃器を携えていた。
「彼が来た。やっと、やっとだ。本当、長かった」
 引っ掛かりを覚える、おかしな口調でその人物は言った。
 声が相槌をした。返事というにはとても重苦しいものだった。
「また会おう、ランス。きっと、また会おう……」
 黒い瞳の男は、上を見上げた。
 嬉しいのか悲しいのか。何とも言えない表情でリビアは天井を見上げ、その先の地上を思った。




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